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『サムライ』と『侍』

アラン・ドロンが亡くなりました。50年代末から生涯映画界で活躍していましたが、特に60年代から70年代前半に多くの名作に出演しました。世界のどこよりも日本で大人気だった彼は、日本では美男子の代名詞にもなり、テレビCMにも出演していました。私くらいの年齢の人は、まずCMで彼を知ったという人も多いと思います。

アラン・ドロンのことを語り始めるとキリがないのですが、今回は私を含め、多くの映画ファンが傾倒する映画『サムライ』('67)について、三船敏郎の『侍』('65)とも比較しながら、書きたいと思います。

サムライ/アラン・ドロン

この映画、フランスでの原題は " Le samouraï " で、それをそのままカタカナにしたのが日本のタイトルです。Le は英語の The にあたる定冠詞で、samouraï は日本語の「サムライ」に最も近い音になるフランス語のスペルです。

この原題を見ると、日本映画のリメイクかとも思ってしまいますが、全く違うオリジナルのフィルム・ノワールです。

アラン・ドロンが演じる孤高の殺し屋が主人公。安アパートで質素な生活
をしており、部屋で一羽のカナリヤを飼っています。

殺しの依頼を受けると、車を盗み、協力者から偽のナンバープレート、必要書類、銃の提供を受け、アリバイ工作を整えたうえで、実行する。実行後、車を乗り捨て、銃を川に捨てる。警察に疑われても、メトロを乗り継いで尾行をまき、部屋に仕掛けられた盗聴器はすぐに発見する。

30歳前後で、その手慣れた手法。相当な凄腕であることを伺わせます。報酬はそこそこの金額を得ています(劇中の1件目の殺しは400万フラン。旧フランとして80万円程度、現在の価値で数百万円か?)。ですが、それにしては質素な生活です。コートと帽子をスタイリッシュにきめることにはこだわっているようですが、それ以外、何を楽しみに生きているのかよくわかりません。

深い孤独の中

この映画、冒頭で次のようなキャプションが出ます。

ほど深い孤独の中にいる者はない。それはあたかも密林の虎のようだ。」~『武士道』より

この寡黙な殺し屋は、何を考えているのか明かしません。それは他の登場人物に対してもそうですが、何より観客である私たちにも明らかにされません。私たちは、彼に共感する余地もなく、ただ、彼の一人きりの生活と行動を目撃し、その孤独さを見つめます。

彼に密かに心を寄せるようになるコールガール、彼を守る証言をする女性ピアニスト、そしてアパートで彼を待つカナリア。

彼の孤独を和らげるそれらの存在。私たちは、それらにいくらかの心の拠り所を求めますが、それらの間で彼の心がどう動いているのか、よくわかりません。彼が最後の行動に出たとき、彼は何を守ろうとして、または何を終わらせようとして、そのような行動に出たのか。それもよくわからないまま、静かに映画は終わります。

侍/三船敏郎

面白いことに、『サムライ』が製作される2年前に、日本で『侍』という映画が製作・公開されいます。もちろん全く違う話ですが、タイトルの付け方からして、侍という存在に対するイメージというのが反映されている気がします。

こちらは桜田門外の変を題材に、井伊直弼を討ち取ったのは、実は井伊直弼が妾に産ませた実子だったという想定のもとに組み上げられたストーリー。

その実子である主人公を演じるのは三船敏郎。彼は剣の腕はたつが、出自がはっきりしないために、結婚もできず、仕事も得られず、不遇の浪人生活を送っていました。そこで水戸浪士が画策する井伊大老暗殺計画に加わり、そこで手柄をたて、いずこかの藩で藩士として雇ってもらおうとするという話です。

サムライと侍

サムライと侍。どちらも殺しの腕がたつということ、そして質素な生活をしている、というのが共通しています。

しかし、ドロンのサムライは口数が少ないのに対し、三船の侍はそれなりにしゃべる。三船の侍は生活に窮しており、それを隠しもしませんが、ドロンのサムライはあくまでクールです。

何よりも、ドロンのサムライは果てしなく孤独であるということ。

三船の侍は、職を得るために孤軍奮闘するという意味で孤独です。しかし、水戸浪士の計画に加わり、チームとして行動しますし、その中で、親友と呼べる存在にも出会います。ドロンのサムライに比して、人間的なつながりを得ており、質素ながらも生活に温かみがあります。

ただ、その親友の妻が井伊大老側に通じているという疑惑が持ち上がり、その親友を切らなければならなくなります。そして、後になってそれが冤罪であったことが判明するなど、それはある意味で孤独感を与えるものかもしれません。そして、彼は井伊直弼が自分の実の親であるとも知らず、その首をとることになるわけです。それは、誰からも救いを得られない、運命の厳しさであり、それこそ真の孤独なのかもしれません。

『サムライ』の冒頭のキャプションは、『武士道』からの引用であると
書かれています。新渡戸稲造の『武士道』は読んでおりませんので、文脈はわかりませんが、どういう意味での孤独について述べているのでしょうか。

三船の侍が、他の人に囲まれながらも、自らの運命に翻弄され、ひとり苦しむという意味での孤独であるのに対し、ドロンのサムライは、帽子とコートという鎧の中に、身も心も包み込み、自らの世界を守り続ける孤独のように思いました。

ちなみに、このサムライ(ドロン)と侍(三船)。この後、70年に映画『レッドサン』で共演し、西部開拓時代のアメリカで出会うことになります。撮影現場で、この2本の映画の話題は出たのでしょうか。出たとすれば、お互いに、「フッ」とだけ、ニヒルに反応したのでしょうね。


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