「メンヘラ」という言葉を科学する【「わたしたちはメンヘラである」LIVEレポ】
こんにちは、カウンセライター(目指し中)のやよいです!
今回は、夏生さえりさん、岸田奈美さん、スイスイさんによる「わたしたちはメンヘラである」のnoteLIVEを見て考えた、言葉のラベリングという観点、「メンヘラ」の乗り越え方、そして言葉を「科学する」観点でnoteを書きたいと思います。
「メンヘラ」というラベリング
「メンヘラ」という言葉を検索してみると、このように出てきます。
「厳密な定義づけが難しい」とあるように、「メンヘラ」という言葉には様々な意味が含まれています。それ故に、それぞれが想像する「メンヘラ」の幅が広く、時に誤解を生みかねない表現とも言えると思います。
この言葉が生まれたことによって、気持ちがふっと軽くなった人もいれば、意味内容の幅が広いが故に苦しめられている人もいると感じます。
そこから、ラベリングと似た意味を持つ「カテゴリー分け」と「レッテル貼り」の違いを見ることができる気がしたので、考察していきます。
カテゴリー分け
カテゴリーとは、分類・ジャンルを指す言葉です。「カテゴリー分け」とは、いわば「仲間分け」のように捉えることができます。
「メンヘラ」という言葉のカテゴリー分けによって、自分の繊細さを感じていた人々が、自分の抱える問題が何であるか認識できたり、自分が何者であるか分かったり、自分以外にも仲間がいると思えて気持ちが楽になるのかもしれません。
「メンヘラ」の中にいる人にとってはプラス作用になるかもしれませんし、「メンヘラ」の外にいる人には特に何ももたらさないのではないかと思います。
レッテル貼り
一方で、「メンヘラ」は一種のレッテルにもなる場合があります。例えば、「あいつメンヘラだよね」という言葉は明らかに悪意を含む聞こえがします。「あいつ」に「メンヘラ」というレッテルを貼ることで、いかにも「本人の性格に問題がある」感じを出してしまっているのです。本当はそんなことなかったとしてもです。
カテゴリー分けとレッテル貼りの違い
カテゴリー分けとレッテル貼り自体の意味を調べて見てもそこに明確な違いを生み出すことはできませんが、個人的には、カテゴリー分けは区別、レッテル貼りは差別のような気がします。それが今「ラベリング」という言葉に一緒になってしまっているのではないかと。
カテゴリー分けが差別になりうる時もあるのではないかという議論も起きそうですが、それこそ「カテゴリー分け」と「レッテル貼り」に対して個人が抱いているイメージの違いですね。最初の「メンヘラ」の話と同じ視点で議論ができると思います。
私が「メンヘラ」になる時
LIVE内では、「メンヘラは状態」という言葉も見られました。私もその考えには大いに賛成します。
カウンセラーを目指す私自身も、人間ですのでやはり精神的に不安定になる時はあります。それは大体、自分が思う「自分の価値の揺らぎ」が起こった時です。その時はいわば「メンヘラ」になっています。
そういう時は、自分なりに自分の価値を満たす方法を考え、満たすために何か行動をします。大きなことでなくてもいいんです。ちょっと美味しいものを食べるとか、ゆっくり寝るとか、大好きな人に会うとか。
そうすることで、カウンセラーになる上で大事な「自己理解」や「心身の健康の保持」を図ることができます。
曖昧な語を「科学する」
言葉が指す意味内容が幅広いがゆえに、「メンヘラ」という言葉によってメンタル疾患を持っている人が傷付いたり、人格に問題があるという意味での悪口に使われがちになってしまう現状に心が痛みます。
私は、そういった曖昧な言葉について意味内容を自分なりに考えることが多いし好きです。自分の価値観を理解できたような気がするからです。意味内容を考えても、それを他人に話すことはあっても「正しい」とは思いません。なので「定義する」のではなく「科学する」と呼んでいるのです。
「メンヘラは状態」。曖昧な語を科学して使ってみることは、自分だけでなく、自分の知らないところで起こる良い変化にどこかで繋がっているのかもしれません。
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