三谷幸喜「スオミの話をしよう」
三谷幸喜の笑いはいつだって甘い優しさに包まれた毒を持っているけれど、これはきっと優しい笑いの衣を内側から食い破るほど辛口の毒を持った致死量の劇物だ。
おそらくは、ちゃんとした「男」を生きてきた人たちにとってそうだし、ちゃんとした「女」を生きようとしてきた人たちにとってそうだ。
見方によっては、いや見方によらなくても、若くて活発で理解不能な少し頭の弱い家庭的な女を求めてきた男たちにとって(逆説的に成熟した活動的でとても優しい理知的で豪放な男らしさで生きてきた男たちにとって)、そしてきっと生きていくためにそういった男たちのもとで彼らの都合のいい女として生きねばならなかった女たちにとって、まるで自分の人生をバカにされるようにとても挑発的な笑いだ。
ゆえにおじさんどころかおじいさんの域に入りつつある三谷幸喜(63歳)がこの話を書いたことこそまさしく殺人投法ばりのどぎつい変化球となる。三谷幸喜をデビューから知っているおじさんやおばさんたちが見に来るであろう待望の新作に、そんなある種、彼ら彼女らの結婚する理由の一部になってきたであろうものに対して唾を投げかけて取る笑いは、それらを是としてきた者たちにとっては許されざる暴虐となったことだろう。だからこそもしかしたら三谷幸喜史上最も痛快な喜劇なのかもしれない。
まさしくそんな男らしい男たちの、女らしい女たちの、はらわたをえぐりながらねじり返すような、あまりに痛い、笑いの居合い抜きだ。ある男がある男らしさを笑っていたら、その男らしさはまた誰かの男らしさに笑われる。都合のいい女を笑っていた女たちはきっとまた別の都合のいい女の姿を見て笑うのかもしれない。
女よ若くあれ、女よ活動的であれ、女よ謎を持て、女よバカであれ、女よ美しくあれ。あらゆることを女に求めて誰もが彼女自身を見ているようで、誰もが彼女自身など見ていなくて、女という表象と自分にとって都合のいい役割しか見ていない。しかしまた、そんな彼らに自分を合わせて気に入られ、うまく世の中を渡り歩く「スオミ」=女もまた、どんな女性を求めているかという一面を持つ男たちの男らしい一面だけしか見ていないこともまた留意されなければならない。
三谷幸喜は女たちの言い分を立てながら男たちの言い訳を許すようなとても日本的に歪んだ悪いポリティカル・コレクトネス自体のちゃぶ台をひっくり返すだけじゃなく、自然体で女を抑圧する男たちの暴力的な善良さを描きながら、そんな男たちの善良さを利用しながらしたたかに世を生き抜く女の傲慢ささえも笑いに変えようと努めていただろう。
残念ながらそれらは、多くこのような大売り出しされる東宝大作映画を好きこのんで見に来るような価値観の世代や層の人たちにとっては問題とされていない問題であって、三谷幸喜が目指したろう皮肉な冷笑は多くの一般的結婚観を持つ人たちにとっては失笑の対象にすらならなかったかもしれない。
出だしの興行成績に対してはびこる星の数の低さがそれを物語る。誰も私の物語でない物語は楽しめないし、私の物語を馬鹿にする物語には怒りを覚えてしまう。しかしそれは映画として、物語として苦笑いしてしまうほど破綻しているということを意味するだろうか。あるいはある個人の他人たちによる多面的な見え方と現代的生存戦略における女性の自己分裂的多重人格性を描く一種の「羅生門」としての物語は見るものが酷評するほど崩壊しているのだろうか。
おおむね一つの大きな屋敷を舞台にして様々な人たちが行き交い、主だった会話はリビングでのみ行われて、個別の関係や個人の会話は別室でささやかに行われるというシーン形成は、端的に言ってしまえば映画でやることというよりは同一セットを使い回して役者たちの演技と科白にこそ観客を集中させる舞台の形式と言えるもので映画的必然性を感じないという意味では、この映像性は映画的なおもしろみをそこまで持ち合わせていないのは確かだ。
リビングから出たとしても庭なのであり、またリビングに戻っても、人は出ていくかやって来るかで、焦点が外部に向かうことはない。また言わんや外側に彼らが出ても、実はまたもやセスナ機内という密室に終始することは、舞台は同じで役者も同じでセットが変わっただけだということのみしか意味しない。カット割りやキャメラワーク、いわゆる映画的なけれん味や醍醐味はこの作品にはないと言って差し支えないだろう。
しかし役者の生き生きとした科白回しと、控え目に、だが着実に物語の経過のなかで変化していく立ち回りには、一種の映画的ダイナミズムを覚えるかもしれない。三谷幸喜はきっと、この作品のためにとことん好きな俳優たちだけを集めたのだ。大仰さと繊細さを兼ね備えて、グロテスクさをリアリティに貶めず健気なかわいさに昇華できるようなチャーミングなキャストたちを。
それこそ演劇だと言ってしまえばそれまでだが、リビングで喋る人たちを中間的に距離を取りながら平行的に行ったり来たりなめ回すキャメラは、正面からだけ見る演劇的直接性とは無縁の映像性の一つだ。そこではあらかじめ突出した設定としてのキャラクター性ではなく、キャメラという舞台の上でのみ一人一人が際立つ張り合いの美学とでも言うべき俳優個々人の演技的特異性とその緊張感を引き寄せ合うパワーゲームだけが印象に残る。
そしてまさしくその狭間、ピントを当てることで、ある誰かの表すもの隠すものが露わになる。イケメン枠西島秀俊が話しかけるときだけ、スンッとなってこれを無視する同じくイケメン枠松坂桃李の死んだ顔によるカット割りは悪意があるが確かに彼の都合のいい人間性を演技を切り抜くことで表象している。それはとても映画的なことだ。
そして何よりこれこそ演劇的な物語としては蛇足だとは思いつつ、映画的な語り口としては至極必然なこととして、それぞれの男たちから“スオミ”がどのように見えていたかを彼らが思い出し、語っていくそれぞれの回想場面。それらを描くことで、むしろこの作品の本懐たるような部分である男たちの女への偏執が垣間見える。まさしく現代の名優となった、と言って過言ではない長澤まさみという稀有な存在感を放つ俳優への、男・三谷幸喜からの大いなるラブレターが生み出されるのだ。
まるで長澤まさみの幕の内弁当である。こんなキャラクターで、こんな年代の、こんな演技が見たい、が余すことなくハラスメント気味に画面の所々に現れる、という男たちの“思い出”。中学生の長澤まさみも、サバゲーの長澤まさみも、中国語の長澤まさみも、おずおずとした長澤まさみも、料理をつくる長澤まさみも、もはや反則レベルでいろいろ危ないのだが、シチェーションの倍々増々には、長澤まさみならこんなこともできる、というポテンシャルへの信頼と、こんな長澤まさみが見たい、という下卑た欲望とが同居するようだ。
ある意味、普段は見られないものを見ようとすることも映画的なのかもしれない。そしてそれらをかわいく、きれいに、強く、控え目に、はっきりと演じ分けてしまう、長澤まさみという独特の存在感。どこか画面から浮いてしまうことも含めて、まさしく稀有な映画的スター性である。実際、この物語のなかで長澤まさみが出る必要がある場面は、実はとても少なく限られている。付け足したのだと言われても納得するくらい、男たちの回想なんて彼らにとっての“スオミ”を描くだけの、ただの説明的なシーン挿入にすぎない。
シーン構成の必要と無駄で言うならば、ちなみに瀬戸康史の見事なリリーフは随所でボケもツッコミも兼ねて個性派揃いの曲者キャストたちの間を縫っているが、セスナ機からの空中浮遊だけは何の意味もなさないので、三谷幸喜の思いつきなんていらない。
ただ、彼らの回想のように演劇なら省かれていたようなシーンが映画となると出てくるのはとても映画的だと思いつつ、それら全てを見せてやらなければイメージできないだろうと勘ぐるように、映像作品ではこれほど丁寧に語ってやる必要があるのだという残念な映画らしさの一端でもあるだろう。
三谷幸喜はこの作品をとても演劇的に作りながら映画であることを弁明することで俳優・長澤まさみへの愛と欲望を語り尽くしている。結果的にそれがある意味でそんな姿を望む男性性を露わにしていることは皮肉なのか計算なのかわからないが、総合していかにも興味深い。
彼らにとっての“スオミ”とは、また三谷幸喜にとっての長澤まさみなのだ。自分の見たい俳優“長澤まさみ”が、彼にとっては多面的だっただけである。多面もまた一つ一つは一面なのだ。人は誰かをある立場ある考えのもとである場所からしか観測できない。西島秀俊の思う“スオミ”と坂東彌十郎の思う“スオミ”が真反対であることがわかったところから、もう“スオミ”を巡る「羅生門」は深い森の中へさまよい始めている。
これが「羅生門」であるのなら、で、結局“スオミ”ってどんな人だったの?というような、ある答えを見つけようとあくせくすることこそ徒労なのだろう。描かれるのはある誰か、男たちにとってのその男たちごとの“スオミ”でしかなく、あるいは本人がその口で自らに言うように、本当の自分など自分こそわからないから他人の求める自分を演じ続けなければならなかったのかもしれない。
“スオミ”はそこにいるけれど、“スオミ”のなかに“スオミ”はいつもいないのだ。それを長澤まさみ本人から、まるでネタバラシ的に全て語らせてしまうということに、一つこの発想の着地点としての無理矢理感があったことは否めない。これをミステリーだというのなら、追い詰められた犯人が崖っぷちで、追い詰めてきた関係者たちへ洗いざらい全てをぶちまけてしまったような二時間ドラマ的安っぽさを感じてしまう。
しかしそこで洗いざらい話した、かのような“スオミ”もまたきっとその場しのぎの“スオミ”なのだろうと、余白を残して話をリードして、エンドロール直前で語らせてくるエピローグは物語の構成上ニヤリとさせられる。“スオミ”のことを聞いてるがスオミが誰かは知らない瀬戸康史。謎の居酒屋での邂逅。ある女。そして役者と役名に付く数字。5.5。
若い子を導きたい成熟した男も、一緒に闘える同志が欲しい活発な男も、何考えてるかわかんないから優しくしたい男も、自分では何もできない人を守りたい男も、美しく堅実な良くできた嫁を飼っていたい男も、みんながみんな善き男らしさを発揮して誰も彼女自身を見ていないクズどもだが、しかしだからといって彼女の彼女らしさめいて見える彼女の反抗に従順に手を貸して付き従うような男もまた、自分らしく生きようとする彼女、という一面だけを捉えて我が物にしようとしているクズの一人に過ぎないのだ。
先生でいることも、指揮官でいることも、擁護者でいることも、守護者でいることも、あるいは管理者でいることも、全て強欲で偉そうな上から目線の支配的な善意で彩られているのである。しかしだからといって自分を殺して女にかしずく下僕的な愛もまた、結局は逆説的に強く気高い女に従うという構図を作って他人をその位置に縛る、下から目線の偉そうな支配的善意だ。しかも下僕は恋人でも愛人でもなく結婚相手でもないので数にも数えられない。
誰も誰かの名前を気安く呼んではいけないである。名前は誰のものでもない「私」のものだからだ。それはきっと自分のわからない彼女のはっきりとした一つの夢とも密接に関わっている。ゆえに誰かの名前を本当に呼べる人は、そんな誰かのどんな側面も見ていながらどんな側面にも付き合い続けて一面だけに囚われないでいられる人なのかもしれない。
八面六臂の百面相を見せる長澤まさみの芸達者ぶりもさることながら、どんな場面で現れようとも慇懃無礼で懇切丁寧に場の明るいトーンを保つ宮澤エマの演技的距離感と存在感も凄まじい。すなわちそのような近すぎず遠すぎずそこに居続けて、付かず離れず踏み込まず誰かの名前を呼べる誰か、いわゆる「ソウルメイト」としての在り方こそ宮澤エマを通してとても一貫していて、恋愛や結婚とは別の位置にあって魂を分かち合って生きるということの本当の愛情の姿が見て取れるのだろう。
だから物語は「羅生門」であっても、描いているのは「羅生門」的には語りえないものだ。様々な“スオミ”というあらゆる見え方は見ているけれど、はっきりと突きつけるべきテーマとして愛の不自由と個人の自由を描いている。きっと人間たちは自分の愛したい人の愛したい一面しか見ることはできずに愛するゆえにその人を縛り続けているのだ。そして愛される人もまた愛されようと嘘か真かその一面を演じ続ける。
ラストの唐突なミュージカルなどは明らかにマリリン・モンローへのオマージュだろう。「紳士は金髪がお好き」というわけだ。それもまた一面。しかしこの引用は確実に、男たちにちやほやされてスクリーンに輝く、あらゆる男たちの望む理想的な女としてのマリリンではなく、セックスシンボルとして祭り上げられて男たちの間を行き交い、彼らの望むように振る舞うことでしか生きられなかったノーマ・ジーン・モーテンソンへのレクイエムだ。
夢はあるのに自分はない。誰かにとっての自分でしか生きられない悲劇。喜劇とは悲劇の裏返し。ゆえに一面的に愛や恋や結婚生活など日常を題材にちゃんと笑えるコメディを期待した人たちには本当に笑っていいものか不安に思えるし、むしろ男と女それぞれの見せたい面を見せて接合するようなちゃんとした普通の男女生活をバカにされてるようにすら見えるだろうから噴飯ものになってしまう。
酷評のなかには、そんなロマンチックミステリ的な売り方や見る側の期待と裏腹な作品の在り方との不幸なすれ違いがあることは確かだろう。だが考え方が違うことや捉え方が異なることは作品としての酷評とは必ずしも一致しない。
たとえばメッセージのやりとりのちょっとした文面なのか気持ちがすれ違って別れてしまった恋人たちや、一緒に暮らすなかで炊事洗濯家事料理の何気ない価値観の違いでケンカをする夫婦なのか、なんでもいいが、意見が違うことで相手をこき下ろすことはどっちの良い悪いではなく単に互いが大人げないだけにすぎない。
「スオミの話をしよう」は紛れもなく三谷幸喜の反骨的で欲望的な奇作である。この作品はそれまでも人間に対してや社会に対して介在していた三谷流の毒が、まるで今までの作品さえお利口で行儀のいい物語に見えてくるほど、かつてなくテーマとして野心的で、ある種の普通さとは一線を画す野蛮さに満ちている。
前作「記憶にございません」が世間の人たちが三谷幸喜に望む三谷幸喜らしい毒とペーソスに包まれた日常を生きる一般市民的感覚をベースにしたオーソドックスな風刺コメディだったとすれば、「スオミの話をしよう」は愛だ恋だの一般市民的な感覚すら笑いながらひっくり返してみせる新境地なのかもしれない。
笑うのは映画を見ている私たちではない。常識を覆されて口を開ける私たちの反応を見る三谷幸喜なのである。
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