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宮崎駿「君たちはどう生きるか」(スタジオジブリ制作)

空想はもうひとつの現実。現実の意識は常に物語へと導かれていて、空想の扉は開かれるべき者に開かれている。
誘われるもの、挑むもの、逃げ込むもの、迷い込むもの、居座るもの、抗うもの、住まうもの、司るもの。世界から離れた先にも世界はあり、現実を越えた場所にも現実はある。そこに生きる人々がいる。生まれてしまったものたちがいる。
ある世界で人々は誰が始めたかもわからぬ戦禍に包まれ、簡単に命が、そこにある生活が奪われる。
ある現実は幼き少年から理不尽に母親を奪い、恵まれた都会生活を奪い、見知らぬ土地と見知らぬ人々と、そして見知らぬ悪意を彼に与える。
悪意だ。
この難解なる創生神話。あるいは行きて帰りし物語。現実と打ち解けることのなかった放蕩息子の帰還。空想を携えていつかまた出会う成長奇譚。悪意こそがこの複雑怪奇な幻想譚を読み解く鍵ではないのか。
悪意はどこから来たのか、悪意とは何なのか、悪意はどこへ行くのか。それはどこからともなくやってきて、人の心へ植え付けられ、そしてまた人へと移っていく伝染病。
誰かの悪意で(それは戦禍なのかもしれない)母を焼かれた少年は頑なになった。言葉を葬り、現実との和解を拒否した。
だが望むと望まざると、誰かの悪意から、あるいは現実から逃げ、ある地方にやってきても、都会から来た彼こそがまた当地への悪意となる。
悪意は憎しみを生み彼に襲いかかる。喧嘩。そして自傷。受けた憎しみを石に込めて、彼から溢れ出る血は滝のようで、抑えても抑えても止めどない感情がこぼれ出すようだ。それを少年はぐっと頭の中に押し込める。これこそがこの物語の真の始まりだ。
母の死や転校はプロローグである。美しく華麗に舞ったアオサギは醜く変貌し鋭利に襲撃する。さらに誘う。もっと得体の知れないどこかへ。
生まれた悪意をアオサギにぶつけるように少年はナイフを持ち弓矢を研ぐ。妻を亡くしながらその妹を娶った父。戦時において何不自由のない暮らし。慣れない土地。奇異な目線。まずい飯。やり場のない怒りをぶつけるように少年は弓を射る。それこそが衝動だ。
消えた義母。母の面影。誘い文句のアオサギ。不思議と追いかけてしまうのは義理か使命か、それとも暴力の果てか。だがその衝動こそが扉を開き、素面では行けなかったその先へ導いたのだ。
幻想の船。荒れる海。殺せぬ者ども。まるで魂が生まれてくるために消えていくような世界。ペリカンたちはただただ生きるために食べ、やがて遠くへ飛ぶことを忘れた世界。それこそがもうひとつの現実。
増殖してのさばるインコたちでわかるのはこの世界を望んだ神は、ただ美しく、それゆえに虚ろで、殺せず、それゆえに生きることができない、矛盾した清らかさを世界に持たせたということ。
その彼もまた言う、この世界にもカビは生え、虫は沸くと。無垢なるインコたちは命の発展とともに化け物となったのだろうことがうかがえる。静かで美しい鳥たちの世界もまた破綻している。
それは石で作られた空想の世界。石とは意志なのだ。純粋なる石にも悪意は混じる。清き正常なる世界は作れない。それは人の空想への諦めなのかもしれない。
積木で組み上げられた世界はしかし石である。そこに意志を感じる。一日を長らえるのもやっとな、儚くたどたどしいバランスのもとで成り立っている。空想の世界は現実の世界の写し鏡だ。現実を生きていた人間が神の真似事をしても現実と同じ矛盾を持つ世界だけが残る。
夢の中で一度は取りかけ伸ばした手を、真の邂逅では無下に返す。老人に対する少年の決断は、真似事をしないことへの英断だ。しかしちゃっかりと他人の世界のピースを拝借する。それこそが知恵。
現実に心を閉ざしてないか。他人の空想に浸ってはいないか。一冊の本に託して母が遺した想いを受け取ったとき少年は悪意から覚めて心を取り戻したのだ。
その決心はアオサギを射殺するためではなく、母の死という事実を受け入れるために、新しい義母という現実と和解するために、彼を動かす。
敵を討つ矢は必要ない。傷を隠す絆創膏は必要ない。母の妹を探すということは母の死を受け止めて新しい母を受け入れるということ。
その旅路で少年は知るのだ。誰だって、自分だって、誰かに見守られ、誰かに助けられ、誰かに教えられて、こうしてここにいることを。
七人の小人ならぬ、七人のばあ様たち。一人のじい様。旅は道連れ、世は情け。たとえ奇遇な縁だとしても子供は大人の姿を見て学ぶのだ。そして知るのだろう。世界の美しさと残酷さとを。
一度目的を見定めて進み始めた道は戻れぬ旅路。蛇の道はヘビ。聡いものに付いていくのが吉。導き手が少女時代の母の姿で現れるなんてまさに少年の夢。無償の愛とは小さき人にとって指針なのだ。
愛されたからこそ、愛を信じ、新たに愛そうとできるのだ。他人の優しさも、親の愛も、女のかたちをしている。
そしてまた、一度迷ったら戻れぬ道や様々な世界に通じる帰れぬ扉もメタファーだ。誰もが生きる道を探し出す。誰もに生まれた世界がある。だが別の世界で道を見つけたのなら、そこに帰り道はない。
一つの修道だ。別の世界に拐かされた義母を救い出すということは、その世界を進み抜き知り尽くさねばならない。成長の旅でこそ少年は義母を「母さん」と呼べるようになる。それはそこに母と同じく愛があることを知るからだ。生かされ、許され、受け入れられるという、愛が。
愛される自覚が悪意に押された自らを越えるのである。義母を受け入れるために、母を犠牲にすることはまた愛ではない。欲張りかもしれないが、少年は次に救えなかった母を救うという御祓を果たそうとする。
現実で死んだ母。違う世界で今、生きているかつての母。彼女を救うということこそ、あの時止まってしまった自分の心を救うということに他ならない。
少年は現実から離れて空想の世界で義母を受け入れ自らの生きる現実を了解した。加えてその世界で母を救うことで、いつか自分を生んで、愛し、そして死んでしまう母という一人の人間存在の事実を、人生を肯定するのである。
そのとき彼は世界の理を知る。もろく、儚い、世界の真実を。少年には資格があった。それを血筋だと設定になぞって語るのは簡単だ。いやしかしそれ以上に、少年が携えた愛と勇気こそがその丘へと彼を辿り着かせたのだと信じたい。
純粋なる意志にも悪意は介在する。世界を作るなどおためごかしなのだ。事実、先祖が作った理想郷は腐敗した。現実もまたそうなのかもしれない。誰かの目指した夢は悪意に侵食されて世界を覆い尽くしている。
少年は自らに傷をつけて抑え込みそれを溜め込んだからこそ人間の底知れない、得体の知れない悪意の内在に気づいている。
世界を意のままに作り出すことは簡単だ。維持することこそ難しい。自分の理想を込めて世界を作っても、そこに引きこもっても、それはいつか必ず破綻を来す。だからこそ少年は現実を受け入れ、事実を受け止めて、生まれた世界へ帰らねばならないことを知っている。
空想とは現実を生きるための寄り道なのだ。悪意ある現実の中で悪意に飲まれないために、悪意に想像の翼を持たせて羽ばたかせるのだろう。それはきっと美しいものなのだ。想像は飛び立ち、悪は必ず討たれる。ルパン、ナウシカ、ラピュタ。宮﨑駿の華麗なるフィルモグラフィーがそれを証明する。
世界は始まり、やがていつか終わる。壊れゆく世界、終わりゆく世界から何かを持ち帰れたなら、その者は幸福だ。それこそが生きるべき世界を生き抜くためのインスピレーション。空想の素となる。
ある世界の失敗、あるいは成功から学び、生かすための知恵。やがて忘れるかもしれない思い出。しかし記憶するということは自分だけの引き出しに宝物をしまうということだ。大抵の人は忘れてしまう。それは寝るときに見る夢も、誰かが語り聞かせてくれた小説も、いつか見た映画も、胸踊らせたアニメも、みんなそうではないのか。
だからこそ空想はもうひとつの現実。耐えがたい現実の生に、抗いがたい世界の、人の悪意に負けそうなとき、時に身を委ね、時に身を任せ、時に進み、時に打ち勝ち、時に学び、ふたたび生きることに立ち向かうためのモラトリアム。
身を焼くほど鮮烈なる現実と耽溺するほど美しく壮大な空想のマリアージュ。「君たちはどう生きるか」と問いかけながら、「私はこう生きた」と、日本のアニメーションに伝説を築いた空想家は静かに物語の幕を下ろすのである。

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