リー・アイザック・チョン「ツイスターズ」
ディス・イズ・ザ・ディザスター!ディス・イズ・ザ・ハリウッド!ディス・イズ・ジ・エンターテイメント!ディス・イズ・ザ・グレーテスト・アメリカン・ムービー!
正統的かつ完璧な娯楽超大作がスクリーンに帰ってきたんだ!
ひたすらに巨大な映像やとてつもなく美しい風景、そして多様性や複雑さがまるでルール化されてしまったような規範や規則だらけの見せかけの人間性。すべての映像を実現できるようになってしまったCGと眉目秀麗で八方美人なキャラクターたち。現代映画が見せる正しい娯楽というハリボテの虚構をその内面から食い破るようにリー・アイザック・チョンは傷つき失い泥だらけになってでも立ち上がり挑み続ける人間の人間による人間のための人間の圧倒的生命の躍動を肯定する人間のエンターテイメントを映画に取り戻した。
その覚悟と挑戦、何より計り知れない想いは既にファーストショットに宿っている。人と大地と空と風。麦畑とそよぐ風、そして遠い空に曇天の雷雲、見上げる女性。今、これからキャメラを向けようというこの土地とこの空とそこに映る人間への限りない愛、そして恐怖、憧れ、なおかつ畏敬を感じさせるあまりに見事なファーストルックを撮影のダン・ミンデルはぶちかます。このショットだけでもまず最初にお釣りがくるレベルだ。
しかしそれはほんのプロローグ。雄大で壮大、勇ましいかもしれないが愚かでもあり、明るく楽しく笑って、ちょっとおバカで少し悲しく、しかしロマンがあり、ヒューマニズムを忘れず、人の生への圧倒的な肯定が、大いなる感動へと結実していく。
人は間違い、そして失敗する。後悔し、人生にくじけそうになる。しかし人はやり直せるし、人は人に出会う。挑戦の可能性は人生に用意されている。人はまた自分を発見して、生きていける。
そう、まさしくこれこそがハリウッドムービーであり、紛れもなくエンターテイメントムービーなのである。
至極当然のことを書くかもしれないけれど、リー・アイザック・チョンの導くシーンとショットには楽しいときには楽しいように、悲しいときには悲しいように、恐いときには恐いように、きちんきちんと場面における感情が掬い上げられている。
それは感情を言葉にして科白として役者の演技から汲み上げていることはもちろん、何より映像としてそれを映すフレーミングや焦点の絞り方、また演出としてのカット割り、また音楽による味付け、全てがまるでキャラクターたちと歴然としたハーモニーを奏で、しっかりとそれを見て聞くものたちへ、まるで気持ちや想い、言葉にならない感情までも観客へシンクロさせるように、巧みにリードされているということである。
押し付けることなく、引き立てるでもなく、それはスクリーンを見ればわかることとして、そこにある。もしかしたら映画としてそれは当たり前のことなのかもしれないが、果たして今それをできる映画監督はどれだけいるだろうか。
良い意味でリー・アイザック・チョンは観客に雑念を与えない。挑むものたちの高揚感、大切な人を失う喪失感、死地に晒される恐怖感、想像を越える自然に出会う感動、映像から、演技から、音楽から、映画的な全ての要素からリー・アイザック・チョンはそれらスクリーンに表現される感情をまるでナマのままこちらの最も負荷のかからない、と同時に描かれるものの鮮度がまるで失われないような方法をもって、ダイレクトに届ける術を熟知しているかのようだ。
間違いなくリー・アイザック・チョンは映画を愛していて映画を撮ることを愛していて、ロケーション、シューティング、モンタージュ、映画を作ることを愛している。そう、映画を撮るということの喜び(そして苦労もきっとまた)に溢れているのだ。
映画を撮ることの喜びとはすなわち、(私は映画を撮る人ではないが)美しいものを永遠に残すということ、喜びや楽しみ、時に怒りや悲しみ、人の心に寄り添うということ、見えないものを拾い上げて見える形から想像を広げるということ、そんなことごとではないのか。
それは手にとってわかりやすい表現で映画を作るということではない。しかしそこには確かに人と大地と空と風が常にあり続け、映画はその生命のエネルギーを有らん限りほとばしらせ続けていたはずだ。
竜巻に魅せられながら竜巻にかつて大切な人たちを奪われた女と、同じように竜巻に魅せられてその前に立ち尽くしてしまったゆえに竜巻を追い続ける男。一昔前なら男は女に出会い、竜巻を越えて、女は男と結ばれたかもしれない。
しかしこれは大いなるものに挑む者たちのロマンなのだ。ロマンスではない。圧倒的で強大で驚異的で脅威的な大自然に立ち向かうということ、そして乗り越え克服すること。それはもしかしたらかつてうちひしがれた自らを超越することなのかもしれない。
決して女は男と出会うために生まれてきたのでもそのために夢を追いかけているのでもない。決して男は女と出会うために生きているのでもそのために夢を追い続けているのでもない。
しかし人は夢を追い続けるものだ。誰のために?何のために?もちろん生きるためだ。自分が生きるために。生きている誰かのために。
だから生きることとは夢を追い続けることだ。女はそれでも竜巻を追いかける。男はいつまでも竜巻を追いかける。それが彼女にとって、彼にとって、生きることだったからだ。
あるいは移民2世であるリー・アイザック・チョンにとって、この美しきアメリカの大地と恐ろしき大自然とそこに暮らす人々を映画にするということ、それが夢であり生きることだったのかもしれない。
この映画にはそんな描かれる人たちと描く人たちとの幸福な一致が見出だされるようだ。それこそロマンなのである。
誰かが誰かを愛すための物語ではない。人と大地と空と風、それらへの愛はそもそも彼らに備わっている。同じものを追いかけるという、同じものを愛する(ゆえに恐れるし、ゆえに敬う)ということの壮大なロマン。
恋をする装置としてのディザスターではない。自然災害。そのあまりに強大な災禍がもたらす痛みも悲しみも切なさも、魂が抜けるように笑ってしまうほど恐ろしいありえなさも、有無をも言わさぬ美しささえも雄大に備えて、それでもそれに魅せられてしまった人たち、どうしようもなく取り憑かれてしまった人たち、ある意味でそれを愛してしまった人たちが、まるで同じ夢を見るいつか生き別れてしまった見ず知らずの魂の双子に、今このときもう一度出会うような物語なのだ。
そう、誰のためでもなく己のために生きる、かつて見放してしまった自分ともう一度生き直すためのロマン。それゆえに自分は自分の生きられる場所でこそ自分の出会うべき人と出会うのだということをあまりにドラマチカルに描ききるこの映画的胆力に打ちのめされる。
映画なんて嘘だ。だからハッタリはでかければでかいほうがいい。そしてできれば足は地に着いているほうがいい。人生も、リアリティも。
でもそこからちょっと宙に浮くような気持ちの高まりが人生を豊かにする。竜巻を追いかけ、竜巻に挑むということの超自然的な浮遊感。現実の重力から跳ね上がる映像という嘘と生きることを楽しむということの感情の跳躍、何よりこの物語と人間たちの動向を見守る観客たちの高揚感がもし(嘘に対してわざわざ斜に構えず、自らの感情に素直になって)一致を見たとき、それこそケイトとタイラーがかつてない巨大竜巻に出会ったように、ケイトが同じロマンを追いかけるタイラーと出会ったように、タイラーが自分と同じ才能を持つケイトと出会ったように、我々はきっと宙に浮いてその流れに巻き込まれるほどの超巨大エンターテイメントにときめきとともに出会うことだろう。
エンターテイメントを心底楽しむには、エンターテイメントを魂から信じる心が必要だ。