谷間の巨大な板橋(板橋散歩・後編)
高島平。都営三田線の終着「西高島平駅」を降り、歩道橋を渡り、戸田方面を右手に三田線を垂直にまっつぐ歩くと、板橋郷土資料館。
前回ここを楽しんだ。
ぜひ、みなさんも、板橋散歩いかがでしょうか。
乗蓮寺(東京大仏)
板橋郷土資料館を出ると、やや坂をのぼると、そこには乗蓮寺がある。
この地域、高島平団地など周辺の人々の信仰を集めたが、もとは室町時代の3代将軍あたりに浄土宗を広めるためにつくられた。
のち徳川が江戸を支配すると、鷹狩場の休憩所に選ばれる。
大仏は1977年に、関東大震災や東京大空襲などの被災がないようにつくられたものだ。
日本最大の冒険家・植村直己の遺体は発見されていない。マッキンリーに登山の途中、テレビは彼を見失う。そのまま彼の姿は捜索すれど発見されず、いまだに遺体のないままに、墓だけがこの乗蓮寺につくられる。
乗蓮寺にはいろんな像がある。しかしやはり圧巻は東京大仏。大きいというより、僕はその高貴な顔の虜になりそうだ。
天保の飢饉の供養塔。1833年から7年の天候不順による凶作や疫病の流行。米がとれない、米が高価で買えない。江戸時代は米とわずかなおかずを食事にしており、米がないと食べるものはほとんどなかった。食べ物なくて家から出る、食べ物求めて行き倒れる。ひどかったんだろうな。
現代にたとえるなら、バブルやコロナで仕事がつぶれ、経済的理由で自殺が増えたのと似たようなものか。
幕府は、板橋・新宿・品川・千住など江戸四宿の街道に救助小屋を建て、白米や銭を与えたが、多くの死者。供養塔は当時、板橋仲宿にあった乗蓮寺にて、1837年3月から11月まで亡くなった423人が弔われている。
人が駆けつけ、見てみたら家で親子餓死やら、道端で倒れる者もいたことだろう。
板橋宿まで来て倒れた人。亡くなられて運ばれた人。大仏様の尊顔とともに、この板橋を見ていたり、新しく生まれかわっているのでしょうか。ここに来てしまいまして、こんにちわ。
大仏の 慈しむ目の下 人賑わい
人は旅立つ 高島平
稲作地帯の大門から高島平に戻る
さて、話を戻そう。ここは板橋仲宿でなく、高島平だ。宿場町として発達した板橋と違い、それよりかなりの北方。江戸時代はただの野原、馬草を刈る場か、誰もおらぬ秘境か。
この数年後のアヘン戦争(1840~42年)後、高島秋帆がここで銃や大砲の訓練でこの徳丸原は有名に。
町々を、数え候~♪ 東の町にぃ、(合唱)一万町~♪ 田~のぉ町に、(合唱)一万町~♪
寺を出て歩くと不動の滝があった。この辺りの谷の狭間は地下水がよく溢れるらしく、今では考えられないくらいの水量の水が出ていたらしい。
これが、明治時代に開拓された、赤塚田んぼと徳丸田んぼを潤したのだろう。
スマホのマップから、経路をこれまで来た道(来た道を戻り西高島平駅まで)でなく、「高島平駅」へショートカットに通じる道を検索できた。
道を大きく変える。
大門といわれる町に入る。小高い坂を上りて、やがて「(赤塚)諏訪神社」へ。
ここでは、重要無形文化財の「田遊び」の祭りが行われる。
田おこし、代かき、田植えなどの作業をダイジェストに祭りで行う。
集落の伝承を語りながら、みんなが寄り合い、毎年の話をしたのだろう。
大門ぬけて高島平だ!上った坂を下りていき、やがて再び団地が見えてくる。
高島平に戻ったときに、もうあんぽ(干し柿)ちゃんを食べ尽くそうと思う。
団地には思い思いに人が暮らしている。住民にはそれぞれ、馴染みの人がいるだろう。
かつてこの町の主幹産業の稲作は、村人同士の協力が必要だったにちがいない。だからこその、祭り「田遊び」だろう。
住宅街においては御近所同士の付き合いがそれなりにあろうが、団地内ではどうだろうか。
一室一室は全く別世界で、ある人が苦しみ果てていても、隣の部屋は意も介さず、なのだろうか。団地下の商店街は人々は活発であった。
さて、三田線に乗り、第二部を目指そう。
板橋本町駅から、旧中山道を通り、新板橋からJR板橋駅を目指す。
宿場町の板橋跡を巡るのだ。
板橋上宿、和宮様と縁切り榎
板橋本町を降りて、けっこう歩くのかな。けど、実際は商店街を横断し、気づけば新板橋に到着していた。徒歩20~30分くらいか。
なので、ちょっとした散策やお買い物にゼヒ。
まず、大通りは裏へ。小さな裏道かと思いきや、やがて活気に満ちてくる。
まずは、板橋宿の京都側、上宿。その入り口に「縁切り榎」がある。
中山道、板橋宿のアイドルといえば皇女・和宮か。
和宮は、孝明天皇の妹。孝明天皇は幕末の動乱の頃の天皇で、1867年の大政奉還直前まで、開国にのまれる江戸幕府と尊王攘夷の志士たちとやりあってきた明治天皇の父である。
和宮は孝明天皇の命令で有栖川宮熾仁(戊辰戦争のときに新政府軍の大総督へ)と婚約したが、公武合体の方針により破棄され、江戸にわたり、14代将軍・家茂に嫁ぐことに。
和宮は婚約を破棄し箱根の山を越え武人が支配する江戸、かつ西洋人に開港された港がある関東を嫌ったが、強引なまでの孝明天皇らの説得で降嫁を決心。通り道は大河による足止め(東海道は多くの河川の河口があるが、幕府は江戸を守るため橋をかけなかった)による旅の遅延や、横浜など西洋人に開港された場所中心に過激派のテロ行為をおそれ、中山道を通った。
行列は総勢3万人で50km、12~29藩の警護が動員され、通過する場所では民衆は外出禁止だったくらい物ものしかった。
和宮は当初、江戸の大奥になじまず、多くの軋轢があったようだが、家茂との仲は良好。幕末から明治維新のときは江戸幕府と朝廷の縁のために行動する。家茂も将軍として病弱ながら21歳の若さで亡くなるまで大務を果たし、和宮は明治10年に34歳で亡くなり、墓は本人の意向で将軍家の菩提寺の増上寺(芝)に家茂とともに祀られている。
「縁切り榎」の由来は、ここに「榎と槻(つき)の木が並んでいた」から「榎(えん)槻(尽きる)」からきたとか。または、この板橋上宿の果てにあるこの榎から先は「江戸から別れる場所」として家族や親類から別れる場所だとか。ただのこじつけやダジャレのように思える。
和宮御一行も、この榎を避けて通った。しかしながら、家茂との結婚生活は5年で終わり、和宮が嫁いだ徳川家ら旧幕府軍を倒しに、婚約者の有栖川宮熾仁が江戸攻撃に向かうなど、波乱の人生を迎えることになる。
それもあり、かなりのパワースポットして名所となった。
その絵馬には別れたい縁について書かれた人々の怨嗟が。最近はその生々しい話を読まれないよう、絵馬にシールを貼り隠すようだ。
ただ最近は、「古い縁を切り新しい良縁へ」と、縁結びのパワースポットとしても有名になっている。
板橋の語源、仲宿へ。遊郭巡り!
やがて、板橋を渡る。
板橋の語源である古い橋は、石神井川に架かるもので、延慶平家物語によれば頼朝が武蔵国豊島郡滝野川の板橋に布陣したとあるらしく、少なくとも鎌倉時代には板橋の地名は名付けられていたようだ。
板橋を渡ると、上宿から中(仲)宿へ。
町も盛り場な雰囲気に。人々も賑わう。
さあ、この辺りが遊郭跡!面影はあまりありませんが、現代も多くの人々が行き交います!
ここから、旧中山道を左に入ると加賀公園。加賀前田家の広大な屋敷があった場所。広い公園で、植村直巳記念スポーツセンターもここにある。加賀前田家の屋敷は、中山道の日本橋近くの東京大学の敷地もそうで、東大入り口のシンボル赤門は前田家江戸屋敷の門だった。
加賀百万石の城下町は伊達じゃないな。
やはり参らざるを得ない、遊女の墓。
以前書いた記事「遊郭巡り」もそうだが、思い入れが深い。
お買い物へ。お総菜で、里芋煮や椎茸煮。和菓子屋も風格あり入る。
ここは板橋宿のころからの茶屋か。江戸から来た道中、または向かう道中、疲れた旅人が「これから!」て時に、甘いお菓子で癒したに違いない。
シンクロしたく、僕も何か買おうとする。
干し柿美味しかったため、柿羊羹に。
気さくな女将さんで、無口な僕も会話してみる。
「ここは古いのですか?」
「うちは、昭和11年からなんですよ!」
「!!?」
しかし、女将さんはていねいに、わざわざ外に出てまで、道からそれたとこにある脇本陣(和宮が宿泊)の場所を教えてくれた。
道に戻り、ライフへ。ここに大名が泊まる本陣がある。脇本陣は家来など、庶民は旅籠という旅館に泊まる。
さて、そろそろ仲宿を離れるとしよう。仲宿入り口には馬をつなぐ寺や米屋が。
近藤勇
板橋駅前には、近藤勇の墓がある。
宿場はずれには処刑場もあるものかな。
東海道の品川近くの鈴ヶ森、奥州・日光街道は千住近くの小塚原。
甲州は勝沼で敗れた新撰組は、八王子にて江戸で隊士を集め、会津で再起を図ろうとする。千葉の流山に集まるが、新政府軍は板橋まで進撃。
日光街道沿い、埼玉の春日部まで進軍するが、捕縛される。総督府があった板橋まで連行され、そこで斬首。
首は京都三条河原でさらされ、その後不明に。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?