清瀬から浦和へ(その②) ~埼玉を西へ東へ、北から南へ
前回、清瀬から出発して柳瀬川につくまでの清瀬の町を漫画家の谷口ジロー先生の作品とともに描写しました。
今回は、柳瀬川と荒川を通り、浦和まで。西から東へ横断します。東と言っても中心部の浦和の端ですが。
ただ、ただの風景写真ばかりでつまらないものとなった。前作はnoteの「おでかけ記事まとめ」にも取り上げてもらい、僕の数々の過疎記事ながらも、見知らぬ人(たまたまこの記事を見かけクリックしてくれた人)も含め、18人もの人に見てもらった(3月6日現在)。今回はまったく期待していない!
できれば今回も、いつものように埼玉の街道を漫画やアニメや歴史と絡めて述べていきたいと思うのだが、「新座」「志木」だけだとそんなみなさまに知られた作品は無い。
いや、あるか。
新座は手塚治虫のアニメーションスタジオが野火止にあり、東久留米(清瀬の隣)に住んでいた手塚治虫が通っていた。
またアニメーターの富野由悠季(鉄腕アトムから機動戦士ガンダムシリーズと伝説巨人イデオンを作った)が2004年杉並に引っ越すまで30年間居住、小説家の東野圭吾さんもここに住んでいた。
それもあってか東京の近郊だからか、印刷・製本関係の工場が非常に多く、出版業界では「新座の印刷所に(原稿を)持っていく」と言う表現が多用される。
その縁もあり、鉄腕アトムのアトムは特別住民として新座市にお茶の水博士を世帯主として登録されている。
ただ、今回の目的は手塚先生や富野先生などの聖地巡礼ではない。武蔵野線新座駅にはアトムのキャラがパネルやらで見れそうだし、今度スタジオも見に行きたい。
今回は埼玉の川マニアの僕はどうしても、川を巡って行くのが目的だ。
(志木の名物は… 各地にある河童像。島倉千代子の「志木おどり」「舟運いろは志木うどん…)
だから、つまらない風景写真と埼玉県と荒川の解説だけの記事となりうる。
特に、東京を支えた町である埼玉と荒川などの川に興味がある人は、その分析を行うつもりなのでぜひ一読してもらいたい。
清瀬駅から西浦和駅まで。およそ20km、5時間くらい歩きました!
ちなみに、僕は基本、郷土資料館や博物館の展示と、川の分析と、漫画とアニメや歴史など物語を通じて、町を描写していく形の記事が多いです。
前回は、茨城の太平洋側を横断しました。
次回、埼玉は荒川をベースとしてこれまで撮影した様々な沿線の郷土資料館とアニメの聖地もふくめ、東武東上線沿いに描写していく予定です。
埼玉を南から北へ向かうという感じ。
できれば漫画やアニメや歴史の話とか、いろんな物語が描写出来たらいいなあ。ただの町の景色を見て感想とかじゃなくて。
今回は、そんな話ができませぬ。風景と感想と、ちょっとした荒川の壮大さと、柳瀬川のきれいさ。そして「埼玉とは何か(位置的に)」をとらえてください。
清瀬から柳瀬川に戻ります。
話は、前回の梅並木から。柳瀬川金山緑地公園付近です。きれいな河川敷は前回も描写しました。
武蔵野線は千葉の船橋から北上し、西へ埼玉の三郷から入り、南越谷・東川口や浦和やら埼玉の中央部を通り、東所沢を経て新秋津から東京の西武・多摩地域にいたり、西国分寺と府中本町まで至る。縦断する鉄道が埼玉には多い中、埼玉中心部を横断し千葉と東京の端をつなぎます。
新座へ入る。
ここでふと見つけた、民俗学的に興味がある昔の墓制。
両墓制は近畿地方に多く、関東は珍しいようだ。
遺体を埋める場所は別にして、お詣り用の墓をつくる。
前者を埋墓、後者を詣墓といい、土葬の頃に用いられた習慣で、おそらく遺体を埋める場所を穢れたところとして、人里離れた場所から避けたかったのだろう。遺体の伝染病菌や遺体の腐敗による汚染、または穢れとして死の場所を集落から離したかった。
柳田国男もこの習慣を研究し、遺体用の埋墓を葬地、お詣り用の詣墓を祭地とした。
この習慣は、江戸時代初頭から、火葬が定着する近年まで続いていたようだ。
僕は今、遅々としながら荒川を探っている。柳瀬川を見つつ、ふと荒川に思いを馳せよう。
そう思ったのも、この旅の最終目的地は浦和であるが、本当はやはり途中にある「荒川を越える」ということだ。もちろんその前に柳瀬川が新河岸川と合流するのも見届ける。
そして、この大和田にてなぜ荒川にふと思いを馳せたかというと、この川越街道に伸びる交差点の先に、荒川や多くの支流とつながっていく川島町があるのだ。
これから、ちょっと話を荒川水系と埼玉全体に飛ばしてみよう。
荒川水系の1つ、入間川。
川越の西側の大宮との境目で入間川と荒川は合流する。今僕が歩いている柳瀬川(志木で新河岸川と合流し新河岸川は荒川と並行して南下し、果ては赤羽にて荒川と合流)の北にあり。
さらに北にて、越辺川。
坂戸にて、越生と毛呂山から流れてきた越辺川が高麗川(毛呂山の南であり、飯能の北にある日高市から流れる)を吸収する。
さらに北にて、都幾川。
越生から北上し嵐山や東松山の南に流れる都幾川も、坂戸の東の川島町との境目で越辺川と合流する。
この越辺川も、川島町と川越の境目で入間川と合流する。
つまり、荒川支流の多くが合流する川島町。そんな川島町は僕の中でよくわからない、脳内空白地帯でした。
荒川は埼玉の西。東京でいえば、北区赤羽から東へ大きくカーブしていきます。だから、北区より西側が荒川水系と同じ地域なので、東京西部の多摩地域(府中や国分寺などの東京の市地域)や23区だと北から練馬区・杉並区・世田谷区。これらの北の地域になります。
ちなみに、埼玉という日本一の市の数(40)を持ち、さらには多くの郡や町を持つ、ややもすればどこに何があるかわからず遭難しがちな県を、今回は無理やりにでも、4分割してとらえてみよう。
東の茨城と千葉側のいわゆる東武(旧武蔵国の東)、中川低地にある北の加須に栗橋・幸手に久喜と南部の春日部・越谷・草加。東武伊勢崎線の沿線。
中央部に構えるのは、岩槻・大宮・与野・浦和に川口、大宮台地と、その西端は荒川低地にそびえる北から深谷(北過ぎるか)に熊谷・行田に鴻巣・北本・上尾、宇都宮線や高崎線沿いだ。
そして西部の川島町に川越とふじみ野市に富士見市に志木市に朝霞市と和光市は東武東上線沿いの荒川低地。ここに志木と朝霞と和光に隣接する新座市も入れちゃえ(東上線沿いではない)。
最西部の西武地区は北西から秩父に寄居に嵐山に。越生に毛呂山・坂戸に鶴ヶ島に日高。飯能に狭山に入間に所沢。「東武」東上線とあるが西武線ととても近いのです。
とまあ、我が地元の飯能・入間・狭山を結ぶ、川たちをこれからも描写していきます。
大和田の交差点から、話は荒川に飛び、さらに大きく埼玉全体を俯瞰してみましたが、元の位置に戻りましょう。
新座と大和田郷。新座は、もと武蔵国新羅郡であり、奈良時代に朝鮮半島の新羅から日本に移ってきた人々を、関東の開発のために朝廷が移した。
そしていつしか新倉(にいくら)さらに新座郡と改称した。
新倉時代には片山氏が源頼朝の傘下につき、鎌倉街道は西の上道(高崎から入間川と東村山さらには府中を経て町田あたりから鎌倉へ入る)鎌倉幕府の領土として特に大和田郷は街道の町として栄える。江戸時代に酒井忠次の下で芝山正員が大和田に陣屋をおき、大和田町が発展する。
その中心がこの氷川神社と、先述の普光明寺。
志木へ。
やがて、志木市に入りました。東武東上線の柳瀬川駅近くの志木大橋です。
志木市役所へ向かいます。ここの前方に狭山湖から東村山と清瀬とを流れてきた柳瀬川が、新河岸川となります。
途中、水の確保のための「いろは樋」が見られました。
玉川上水から引かれ、立川から新座を経て新河岸川へつなげた野火止用水。
しかし、志木の宗岡地区まで水が届かないため、水面から高さ4.4m、長さ260mの「いろは樋」(樋の数が48個あり伊呂波仮名の数と同じため)をつくった。このため志木には「いろは」という地名が多い。
到着です! しかし真っ暗で見えない!!ポンコツですいません!!!
柳瀬川がちゃんと新河岸川と合流しているでしょうか。
そして、そのまま引かれるがごとく、荒川へ向かいます。
今日は浦和まで行きますが、浦和から越谷と吉川を経て千葉まで横断するかどうかは未定。志木市の道をずっと通り抜けると、荒川が見えてきます。
荒川水系の本流である荒川は、やはり支流である柳瀬川より広く、周辺の土手も広い。そのため、秋ヶ瀬橋も1kmと長い橋です。
荒川を越えると、そこは川口(北区赤羽から)。戸田(赤羽と板橋から)。そしてさいたま市(浦和)。
さて、今回は西浦和駅まで。
次回はやっと、去年撮り溜めた東武東上線沿線の郷土資料館の写真が開放できるのか。
そして、少しずつでも、描こうと取材してきた荒川が描けるか。
そして、いつになったら、ずっと前に描いた中川と江戸川(加須や久喜や春日部やら)の続きが描けるか。