小説探訪記16:乗代雄介回

 乗代雄介の良さをわかってこその文学通なのだろうけど、自分は乗代の良い読者ではない。講談社文庫の『旅する練習』『最高の任務』『本物の読書家』を読んできた。特に「本物の読書家」と「未熟な同感者」には感嘆した。すげぇ~!、ってなった。だけど、何がすごいのか上手く説明できそうにない。

 そして今回『二十四五』を読んだ。『二十四五』は、わからないところがわからない小説だと思った。風景描写は緻密で、ウィットに富んだ一言が時折挿入され、書く「私」(=阿佐美景子)と読む叔母という興味深いテーマと構図が設定されているにもかかわらず、なぜか自分は無関心を貫けてしまう。興味を持とうとしても霧散してしまう。そういう不気味さがあった。

 正直なところ、阿佐美家サーガは(『十七八より』も読んでない身の上で勝手なことを申し上げると)北村薫の「円紫えんしさんと私」シリーズのようになるのだと予想していた。主人公の職業もそれぞれ作家と編集者であり、どちらも言葉に関わり続けることになる。だから、主人公が成長していくごとに文学的な思索の深みが増していくのではないかと思っていた。

 だが違った。むしろ文学的薀蓄は鳴りを潜めるようになった。本作は作家になった景子の独白として描かれていて、現代の小説家の文章みたいに一文も短くなった。以前の作品よりも文体が洗練されている。しかし、その洗練は喜ばしいのか?、と、言われると難しいところで、複雑な気分。

 でも乗代雄介の良さの本質は、そこにあるわけじゃない(と思う)。乗代作品は読者の自分語りを促す。読者の親しかった人(特に家族)との体験を思い出させ、それを感想とともに語らせるような構造になっている。かくして、叔母のように読むことしかできないはずの読者が、かえって景子の「書く」行為を追体験することになる。それが乗代雄介の良さであり、面白さなのだと思う。(そして、そうした欲望を持たない自分は、乗代作品に対して疎外感を覚えているのかもしれない。)

北へ

 これは全作品を読んでから検証してみたいのだけど、乗代雄介の作品にはよく【北へ移動する人物】が登場している気がする。それこそ『二十四五』だってそうだ。語り手の景子は、弟の結婚式に出席するために東北新幹線の下り列車に乗って仙台へと移動している。

 他にも『旅する練習』で、亜美と叔父さんは我孫子駅から鹿島へと歩く(こちらは東進という感じだけど北上もしている)。「本物の読書家」では、「わたし」と大叔父は常磐線の下り列車に乗って、上野駅から高萩へと向かう。「最高の任務」では、東京都内に在住する景子が叔母と一緒に閑居山かんきょさん(茨城県かすみがうら市と石岡市の間にある)へと出かけたことが書かれた日記が登場する。

 例外はあるかもしれないし、【北へ移動すること】が何を意味しているのかもわからない。のだが、気になったのでメモとして書いてみた。

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水石鉄二(みずいし)
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