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井上ひさしの話と安岡章太郎の話とサマセット・モームの話

 どうして、ネタはたくさん転がっているはずなのに、書く気力が起きない。こうして記事の手抜き工事が進んでいくのだが、ともあれ、今日は『シュルレアリスム宣言』の自動筆記よろしく徒然なるままに書いていってしまおう。(しかし、この記事を書く人間はいつも”徒然なるままに”という紋切り型の文句を使っている。さては、他の気の利いた言い回しが思いつかないのだな。)

井上ひさし

 井上ひさしに関しては、小説『一週間』がベストであると言ってきた。次点で日本語に関するエッセイたちが並ぶとも言ってきた。では、その次は何が来るのか? それは『言語小説集』である。

『言語小説集』は短編集であり、新潮文庫になっている。この短編集には時代を先取りしたような作品が散見されて、とても興味深い。あの発想も、この発想も、全部井上ひさしが過去にやっていたのか、そう思わされる。

 特に時代を先取りしていると思ったのが、『括弧の恋』『大惨事人体大戦』である。

『括弧の恋』
『括弧の恋』は”「”と”」”が恋愛をする話である。鍵括弧などの記号が登場人物となって劇を繰り広げていくのだ。

こう聞くと、どこかで聞いた発想のように思える。(BLに馴染みのない方はあまりご存知ないかもしれないが、)昔、無生物でもカップリングができると豪語する腐女子をご覧になったことはないだろうか? しかし、そのような発想は井上ひさしがとうの昔にやっていたのだ。

『大惨事人体大戦』
 こちらは『はたらく細胞』のような作品である。白血球が喋ったりする。しかし、そうはいっても井上作品。下ネタがややきつい。あるいは昭和臭い。言うなれば、『はたらく細胞chaos』といった風情である。それほどにアルコール度数の高いユーモアを含んでいるのだ。

安岡章太郎

 安岡章太郎作品の中で読んでいて一番面白いのが、『僕の昭和史』というエッセイである。昭和時代の精神や思想を理解していくうえで役に立った。また、あまり語られてこなかった文豪、たとえば原民喜や梅崎春生などの素顔をうかがい知ることができるのも、この本ならではである。

『僕の昭和史』
『僕の昭和史』を読んでいて面白かったのは、安岡章太郎の低姿勢ぶりである。(私も見習え。)また、安岡の三島に対する姿勢も、見ていて興味深い。

 安岡章太郎(1920年生)は本来、三島由紀夫(1925年生)よりも年上なのであるが、安岡は三島のことを”三島さん”と呼んでいる。(もちろん、三島の方がデビューが早かったので、作家としては三島の方が先輩ということになるが。)

 また、安岡章太郎の作風と三島由紀夫の作風は全く異なっている。ふつう作風の全く異なる作家がデビューすると、大抵は先人の作風や思想を否定したがる(三島が太宰に対してやったように。)ものであるが、安岡はそんなことをしなかった。

 安岡は三島に対して敬意を持っていた。これは『僕の昭和史』を読んでいただければ、すぐにでも分かることだろう。

 1920-1925年生の文豪たちがお互いに敬意を持っていたことは、本当に愛おしいことだ。このような面は、確か『歴史の感情旅行』というエッセイ集でも窺えるはずだ。

『宿題』
 また『宿題』という短編も面白かった。この短編は新潮文庫の『海辺(かいへん)の光景』に収録されている。(ネタバレ注意)

 太平洋戦争が始まる前の頃、東京の小学校に転校してきた小学五年生の少年が、夏休みの宿題をまったくやらずにいたら、どうにも嫌気がさしてしまって、不登校になるという話である。最後に、少年は『戦争反対』を掲げるビラを剥がして、通りかかった警官に褒められる。しかし、その動機は「教師も兵隊にとられてしまえばいい、学校も燃えてしまえばいい」という現実逃避の心情に由来している。

 記憶が定かではないが、加藤周一は安岡章太郎の文体を”志賀直哉の簡潔さと井伏鱒二のユーモアとを併せ持っている”と評していたはずである。(加藤周一『日本文学史序説』にそのような記載があったはずだ。)つまり、安岡の文体は、三島や太宰とは異なり、ある種穏やかなものである。いわば安岡の文体には、”滋味”があるのだ。

 最近になって、安岡作品の素晴らしさに気づき始めた。私もそのような滋味が分かるようになったのだろうか。そう思うことにしたい。

サマセット・モーム

 サマセット・モームの愛読者にはクールな人が多い気がしていた。誤解を恐れずに言えば、サマセット・モームの愛読者はたぶん三島作品を好まないであろうと思い込んでいた。こうして、私の中では食わず嫌いの作家となっていった。勝手に反発していたのだ。

 しかし、読んでみるとイメージは変わるものである。たしかに、箴言(しんげん)の多さから、クールな読者を惹きつけそうな部分があるけれども、それだけではない。スマートでありながら美しい文体によって、情熱的な愛や生き様が綴られる。これは『英国諜報員アシェンデン』『月と六ペンス』を読むと、鮮明にとらえられる。

むすびに

 私は濁流のごとき文章(自分では制御できない程)は綴れるけれども、大聖堂のような文章は綴れない。それはこの記事をご覧になっていれば、明らかであろう。

 本音を言えば、大聖堂のような記事を書きたい。論理を緻密に組み上げて、作品を読解していきたい。

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