私の読書日記~ゴッホとゴーギャン:2021/06/29
ゴッホとゴーギャン。この二人の巨匠は様々な文学者を惹きつけてきた。私は文学も絵画もそこまで詳しいわけではないが、今後、ゴッホやゴーギャンについても記事を書いていきたい。その前にアイディアの種を残しておく。文学者の眼を通したゴッホとゴーギャン、二人の姿はどうなのか。
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1.ゴッホについて
様々な文献を見るに、ゴッホは浮世絵からインスピレーションを得ていたらしい。浮世絵から影響を受けている分、日本の文学者をよく惹きつけるのかだろう。今後の記事では、小林秀雄『ゴッホの手紙』を読みつつ、その点を掘り下げていく予定である。
また、ゴッホが書いた手紙自体も読んでいくことになるだろう。ゴッホの手紙それ自体が文学的である。少なくとも小林秀雄が引用した部分はそうであった。『ゴッホ箴言集』といった本ができても不思議ではない。その程度には、感情を揺さぶってくるように思う。
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普通、評論は短いものである。一貫したテーマの評論を数十篇集めて、やっと文庫本一冊になる位だ。一貫したテーマとは言いつつも、評論によって話題は異なる。「明治期の文学」や「芥川龍之介」といった話題の異なる評論をかき集めて、やっと〈日本文学〉をテーマとした評論集ができる。
ある人物に対して文庫本一冊にものぼる評論を書くには、著者の情熱が必要である。つまり、ゴッホはそれだけ小林秀雄を惹きつけたのだ。小林秀雄が多大な情熱を注いであの評論を書いたのだから、他の文学者が惹きつけられないわけがない。今後も文学者が書いたゴッホに関する文献を読んでいきたい。そして、準備ができ次第、記事を書く。
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2.ゴーギャンについて
ゴーギャンといえば、やはり『月と六ペンス』である。主人公のストリックランドのモデルはゴーギャンだ。サマセット・モーム『月と六ペンス』を例にとりつつ、南国にアイディアを求める画家の姿を照らしてみたい。
ところで、ゴーギャンもサマセット・モームも、南国での生活経験がある人物である。やはり、南国には何か芸術の源泉があるのかもしれない。その点を注意深く観察していく記事を書いてみたい。
南国暮らしと言えば、パラオに赴任した中島敦の姿が浮かんでくる。彼の書いた『山月記』といえば、家庭や仕事を投げ出して詩に打ち込んだ芸術家の話である。一方、『月と六ペンス』では、家庭や仕事を捨てて絵画にのめり込む画家の話を描いている。【失敗した詩人/成功した画家】という違いはあるものの、二人は世俗的な成功を捨てて芸術に向かう人間の物語を書いた。
この【ゴーギャン、サマセット・モーム、中島敦】の軸で、何か一つ記事を書けないか。と、思案している。
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3.ゴッホとゴーギャン
『楽園への道』では、ゴッホとゴーギャンの二人が出てくるらしい。tinyさまのnoteの書評記事より教えていただいた。ありがたい話である。面白そうだ。読みたい。
ちなみに、著者はバルガス=リョサである。
あの二人の画家を描くには、小説家の技量が問われる。登場人物として、あまりにも情熱的だからだ。小説家が二人の情熱を抑制すれば、彼らについて描く意義が薄れる。反対に、二人の登場人物が気ままに動いてしまうと、小説としての収拾がつかなくなるだろう。なるほど、バルガス=リョサでないと、たしかに書けない! そんな気がしてくる。
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