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『走ることについて語るときに僕の語ること』 読書感想文

この本を読むに至るまで


村上春樹さんの本は、以前何冊か挑戦してみたのだけどどれもあまりよく分からなかった。

多分もうこれは私が彼の文章を読み解く力が無いのだろうと思っている…。

ちなみに読もうとした本は「ノルウェイの森(冒頭数ページで目が滑って読めなくなってしまった)」と「神の子どもたちはみな踊る(短編集なのでいくつかちゃんと最後までは読んだが、結局どういう話だったのかいまいちわからず…すずめの戸締まりの根本思想になったお話があるということで読んだ)」の2冊なんだけど、もしかして選んだ本が間違っていたでしょうか。

ただ、先日「運動脳」という本を読みまして

この本に書いてた事が、私的にはものすごく色んな事に納得がいったというか…「あー!運動せな!!」となったわけです。

これの感想記事はまた別途書くかも知れないし書かないかもしれない。

ゆるゆるダイエットマンガも地味に描いてるけどnoteに載せてないからそのうち載せますね。それの、運動脳について描いたときの一部↓


運動は、創作する人間にとっても大切である。
この本を読んで、ストレスに対する力、発想力や集中力がつくなら運動するしかない!となったわけですね。
そんなわけで朝、タラタラでも走るように…。

で、この本の中で「作家の村上春樹さんもランナーとして有名である」「走ることについての本を出している」というような記載があって。
私の中で、作家なんてものは不健康な人が多いイメージがありましたし、私自身『村上春樹』って作家さんに、何でか知らんけど、ジメジメとしたイメージを持っていたんですよ。何でだろう。謎だ。
文体が自分で理解できなかった負け惜しみのようなものだったのだろうか。

とにかく、私の中で地味なイメージだった村上春樹さんが、ランナーとして結構有名であるというのを知って、今回の本に興味を持ったのでした(夫は「村上春樹がランナーなのは有名じゃん、知らんかったの?」と言ってきたので、私が無知なだけだと思います)

で、この本を読んで「村上春樹かっこええ!」ってなったので、ちょっと今度またもう一冊村上春樹作品にチャレンジしてみようかなと思ってる。
この本の中で「風の歌を聞け」っていう作品が出来るまでの話があって。

この話はデビュー作なんですけど、当時村上春樹さんは夫婦で個人経営のお店をやっていたそうなんですね。

でもなんか、ある日突然野球を観に行って、自然の中で風に吹かれてたら「あ、そうだ。小説書こう」ってなって。
そんで、店を閉めた後の夜に突然ガリガリと小説を書くようになって。

400字詰め原稿用紙200枚の作品を、勢いでガーッと書き上げて。
『あー、書いた書いた、スッキリした、せっかくだから何かに応募しときますかね』って感じで応募したらそれが賞を取って本になって話題になったという、なんちゅーデビューの仕方してんだ、若い頃から何年も小説家目指してる人が聞いたら泣くんじゃないかという話が載ってまして。それが28歳?だったかな。

その『あ、書こう』ってなって勢いで書いて新人賞取ったその文章ってのが一体どんなものなのか興味津々になったので、次はその作品『風の音を聞け』を読もうと思っております。わくわく。


ここから本の中身の話


そんで、今回の本。
『走ることについて語るときに僕の語ること』

…タイトルもよくわからないじゃないですか。
なんか多分、文章の使い方が感覚的な感じなんでしょうね。

この方がこの本の中で、ノルウェイの森が売れる以前のことを書いているんですが、10人中1人が自分のことをすごく好きになってくれればいい、というスタンスで作品づくりをしてきたということなんです。
9人には理解出来なくていい、そのかわり1人には強烈に刺さってくれればいいんだと。
自分の作品を待ち続けてくれる人が1人いてくれればいいんだと。

これが今の私も創作する上で思ってるスタンスで。

私がもし”刺さらない”側だとしても、別に村上春樹さんとしては「それはもう全然お好きなように…」という感じなんだろうなと思ったら、むしろそこに物凄い親近感感じてしまって。
わかんない人にはわかんないでいいよー、って私も思うもん…。
反感覚えたとき石を投げるのだけはやめてね…みたいな。

今回の本に至っては、10人中1人深くぶっ刺さる側に入ってしまったのかもしれません。ちなみにこの本はエッセイ本なので、普通の物語と文体も全然違ってとても読みやすかったです。

ノルウェイの森が売れてからは、やはり、ある程度「売る」ことを視野に入れたと言うか、ちょっと作品づくりへの姿勢が変わったっぽいことが書いてあったので、その姿勢になる前の作品を読んでみようと思います。


刺さった文章をマンガのコマにおさめてみた


沢山刺さった文はあったのだけど、一部抜粋して引用したものをマンガのコマにしてみた。
ちなみに本の中の文章の順番と、この引用文の順番は同じではありません。
短くまとめた時にいい流れになるように、ちょっと並べ替えているので気になる人は本の方を読んでくれ…。

走ることと、創作することはとても似ている…


後天的能力を鍛える事で、眠っていた才能が出てくる事もあり得ると書いていた。
まさか『筋肉は裏切らない』論を村上春樹が語っているとは思わず。ちょっと楽しかった
”少なくとも最後まで歩かなかった”ってカッコよすぎん?私も言いたい。


こうやって文章を取り出してみて、改めて。
この文章は「作家としての」ことを書いているときと「ランナーとしての」ことを書いているときが混じっているのだけど、多分、どっちかに限定しても全く違和感なく読めると思う。
それほどまでに、走るという行為と、創作という行為はとても近い。

運動脳の中で、『走ることはストレスになる』ということが書いてあった。
ストレスにはなるけれど、走るのをやめた時点でストレスが止まる。
日常生活のストレスは「止まる」というものではないけれど、運動による肉体への負荷のストレスは、運動をやめさえすれば「止まる」。

ストレスが止まったことを認識したとき、脳は幸福を感じる脳内物質を出して「ストレス、案外ええやん…」という学習をしてくれる。

そうやって運動による適度なストレスに日々さらすことで脳がストレスに対して慣れて強くなっていくらしい。

村上春樹はその脳の仕組みなんて全く知らないだろうに、同じようなことを本の中で語っているのです。


誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。
いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。
そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。

腹が立ったらその分自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた。

P.37

村上春樹は、知らず知らず、身体と脳を走ることで鍛えてきた。

作家として勝負するのは他の作家ではない。順位も優劣もない。自分が満足できるかどうか、自分自身のモチベーションを保てるかどうか、そこにだけ精神を集中して作品づくりをしてきている。

これは、強いと思った。
多くの人に支持されるような作品を作る人のメンタリズムはここかと、そしてその根っこに「走ること」があるのだとしたら、これはもう自分も走るしかあるまいと思ったね。(急に語り口調)

でも私も、運動習慣をつけてからすっごいゆるい時期も含めれば4ヶ月ぐらいにはなると思うんだけど、本当に、運動してるとしてない時期と比べてメンタルの安定がすごいと思ってる。

いや、もちろん落ちる時は落ちるんですよ。
でも、復活するまでがめちゃくちゃ早い事を実感してる。

あと、なんていうんだろう。自分に潜っていける感覚みたいのが強くなってる感じがします。この本でも書いてたけど、他者と比べるとかじゃないんですよ。戦うのは過去の自分しかいないんだぞ、とにかく日々磨きさえすれば自分は変わっていけるんだぞ、みたいな、妙な悟りみたいなものを感じ始めてます。

多分、そうやって脳が打たれ強くなっていくんでしょうね。

真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。逆説的に聞こえるかもしれない。しかしそれは、職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じ続けてきたことだ。健康なるものと不健康なるものは決して対極に位置しているわけではない。対立しているわけでもない。それらはお互いを補完し、ある場合にはお互いを自然に含みあうことができるものなのだ。
往々にして健康を指南する人々は健康のことだけを考え、不健康を指向する人々は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りあるものにはしない。

P.135

ほんと、創作って不健康なんですよね。
作り出してるその時はすっごいストレス負荷かかるし。
全部終わったとき、それこそこれのときも「止まる」からこその幸福感みたいのはある。けど、でも走った後の爽快感みたいのとは全然違うな。むしろ燃え尽き症候群みたいになるときあるし。

つまり、やっぱり創作って不健康なんだなと。
だからこそ、健康っていうもう一つの軸をしっかりさせていくことで創作するための土台のようなものを固めていく事が、長く、良いものを作るために大切なのかもしれないと思ったりします。

そしてそれをごく当たり前にしていってるのが、村上春樹って人なんだと。

ちなみに村上春樹さんは「だからみんなも走れよ」とは言ったことはないそうで。


学校の体育の時間は好きになれなかったし、運動会みたいなものにはつくづくうんざりさせられた。しかしそれは上から「さぁ、やれ」と強要された運動だったからだ。
自分のやりたくないことを、自分のやりたくないときにやらされることに昔から我慢できない。そのかわり自分がやりたいことを、自分がやりたいときに、自分がやりたいようにやらせてもらえたら、人並み以上に一生懸命やる。

P.54

走ることとは関係ないけれど、話が少し脇道にそれることを許していただけるなら、僕の場合、勉学についてもだいたいそれと同じことが言えた。
小学校から大学にいたるまで、ごく一部を例外として、学校で強制的にやらされる勉強に、おおよそ興味が持てなかった。これはやらなくてはならないことなんだからと自分に言い聞かせて、ある程度のことはやってなんとか大学にまで進んだけれど、勉学を面白いと思ったことはほとんど一度もなかった。

P.55

村上春樹さん…絶対自閉傾向ある…と思った。
めちゃくちゃ自分と通ずるものがある。

やりたいことだけやってたいんだよぉおおおお!!!
そのかわり、やらせてくれるなら人並み以上にやってやんよおおおお!!

私もまさにそんな感じである…。

朝5時前に起きて、10時前には眠る生活サイクルも同じだし、特定の誰かと人間関係を築くより、不特定多数の読者との間に築きたい、という人間関係の考え方も凄く近い。
そもそも「運動しなきゃ」と思ったとき「走る」ことをチョイスした理由が「他者と一緒にやらなくていいから」ってもうめちゃくちゃ自閉じゃないですか。これは、差別的なとかバカにした意味で言ってないです。決して。

むしろ自分に閉じている、自閉症の特性を極限まで爆発させて、才能にとがるとこうなるのかと、ゾクゾクします。

そして物事の捉え方や考え方もすごく近くて変わり者で「そんな自分が好かれるはずもなくむしろ嫌われるのがデフォルトでいいんじゃないか」みたいなことも書いてることに、すごい親近感を感じている。

そんな感じで…「やれ」と言われてやる運動には何の価値もなく「やりたい」とその人が感じてやる運動にこそ意義があるので、村上春樹さんは人に運動を薦めることはない。

この本は、自分にとって走ることがいかに必要なことかを語っているだけの本なんだけど、その語りのおかげで私はすっかり「走りたい」方へと意識がシフトしつつあるので(さすがにフルマラソン出たりトライアスロン出たいとまでは思えないけれど)、シフトチェンジさせてくれたこの本、というか、村上春樹さんに感謝なのでした。

私のこの文で「走りたい」とか「ちょっと走ることに興味が沸いたわ」って人が現れたらこれまた幸いです。

もしくは「この本…読んでみたくなったわ」でもオッケー。


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水谷アス
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