〈わたし〉とは何か!?そして〈あなた〉とは・・・新時代のあなたとわたしの関係性💫∞💫
わたし、今これを読んでいる〈わたし〉とは何なのか?今回は考えてみたい。
わたし=TERUTERU
読んでる方もそれぞれの名前があるだろう。ここにスマホやらパソコン画面の前にいる〈わたし〉。その〈わたし〉とはなんだろな?
わたしの気持ちがわからない
わたしがわからない
そんな言葉を耳にした。それがこの記事を書いてみようと思ったきっかけである。
わたしを成り立たせているもの。
他者からの視線。
見られているという意識がまず誰にでもある。誰かが見ている。皆、そんな事は普段意識していないが無意識に意識している。
他人からどう見られるかが行動の底にある場合は多いだろう。
他人から認められているからわたしが存在している。
これは確かにそうなのである。
現実生活において何か喜んでもらえたり、評価されたり必要とされたり。SNSにおいてもリアクションやコメントをもらえたり。
しかし、それはほんの一時ではないかな???
次から次へと発信する。周りに気に入られるように常に気を使う。
他者、他者、他者・・・
これではやがて自分がわからなくなる。
相手側に気持ちが行き自分の気持ちが全く見えなくなる。。。(他人と他者と使い分けているが、表象世界は他人、潜象世界では他者としている。)
〈わたし〉という顕在意識=自我
相手からどう思われるかばかり考えて行動をしている。SNSの承認欲求然り。
相手を鏡にしている「鏡像」的な存在になっているわたし。これでは他者の他者。
他我化というやつだ。
いくら自分を見つめようとしてもこれではどこに自分がいるのかわからない。
本当の気持は無意識、潜在化した意識の方にある。顕在化した意識、自我はほんの氷山の一角だ。無意識の海はとてつもなく広い。そこにいろんな感情も記憶も蠢いている。
〈わたし〉の本性を知ろうとしたらその海に思いっきり飛び込むしかない。
上の図は海面の上側が顕在意識、下側が顕在意識。意識は普段は波のように漂っているが真ん中の〈わたし〉が対象を定めた途端に粒子化して物質世界を創り出す。
その物質世界で働いてるのが自我意識。
名を持つわたしとして他人と関わりながら生きている。他人を自我という鏡に映し出して生きている。
別の図でわたしとあなたの関係を表してみよう。
〈わたし〉はこの中の自我であるのだが、他者を自らの自我(鏡像)に映し出してそれをわたしだと思っている。さらに自己の中に他者(他己)をも映し出し(他我)、その中で自我と他我の創造的関係性を創り出している。
これがぼくらの見ている世界だ。
ぼくら個々の世界にいる他人はなんと!ぼくらがぼくらの中に創り出しているイメージとしての他者だったのだ。
先ほどの図をもう一度出すが、ピンクの部分が自我が創る〈わたしの世界〉。
〈名を持つわたしの世界〉は瞬間でしかないが
〈名を持たないわたしの世界〉で記憶が循環し
粒子として再び現象化してくる。主体であるわたしのや主体であるあなたの眼差しが交差して量子の波(意識の波ともいえる)を物質世化させているのだ。
なんと摩訶不思議世界に自我として生きているのだろうか!
勿論、自我に映る他者は一人、一つではなく無数の他者がいると思っていい。「一即多 多即一」だ。(しかし、これをもってワンネスとするのは違うと思う。完全な一にはならないからだ。逆に、この自己の中の想像的関係性が同一性、全ては一つ、世界に一人というような考え方を作り出しているとも言えるだろう(その感覚が間違っていると言っているわけではないですが、思考が物質化していく考え方、他我化しまくっていく考え方かもしれない)。)
想像的関係性の図に戻ろう。
AさんBさんに置き換えてみるとよりわかりやすいかもしれない。
下の太字はヌーソロジーサロンにおいて大学にて量子力学教授を務める砂子武彦さんの言葉である。
「自我と他我の関係は自分の内にあるという認知が起きる時、自己受容が起きる」
自我と他我の関係は自分の内にあるとわかった時、自己が顕在化する!
「自己受容による自己変容は他者にも必ず伝わる」
自己のあり様が自我他我から変わった時、それは本当の他者(他己)に必ず伝わる!
この言葉を聴いた時感銘を受けたものである。
他者と接して何か感情が動いた時、それは、自己の内にある他我との想像的関係が生み出した感情なのか、それとも無意識化での交わりから生まれてくるものなのか、さらには無意識化の交わりから生まれてきた想像的関係が生み出してきたものなのかと、最近は考える。
殆どは想像的関係のみで生きてきたはずだ。
では、本来あるべき関係とはなんだろう。
Оという部分はAさんBさんの共通部分。AさんのxyzとBさんのabcは異なる部分。普通の人間関係は同じようなところを見つけて仲良くなったりしているが・・・
モノローグとは独白。ダイアローグとは対話。モノローグの方は、つまり同一性、同じようなところを見つけて会話をしているのは他の人と話をしているようで、自分としか話していないということになる。
つまり、鏡に向かってあーだこーだとペラペラ喋ってるのと一緒である😳!!
!!!!!!!
偉そうに書いているがぼくもほぼほぼこの状態なのでご心配なく。しかし、そうかあと、思うと思い当たることは多々ある・・・SNSなどで画面に文字を打ち込んでると鏡に文字を打ち込んでいるような氣分になることもあるのだ。。。(いつもではないが・・・)
さてさて、ではどうしたらいいか?
と、考えていくのが面白いところである。
差異を見つけて対話と、書いているが対話というシーンはそうそう顕れるものでもない。
しかし、この構造がわかると自然と自我の付き合いをしているのか、無意識レベルの繋がりなのかが見えてはこないだろうか。同じところを見つけて共感するのも必要な事だが、違いを見つけて認め合う事はもっと重要な事なのかもしれない。
ぼくらには二つの世界がある。さらには表象での他人との交流、潜象での他者との交流がある。そしてそれらを繋いでいる〈もの〉が存在する。
知らないで生きていくのと知って生きていくのはだいぶ違うと思う。表象で知ったこと、体感したことは潜象に往き、そしてまた表象へと還ってくるのだから。
ご一読ありがとうございました🌟
量子力学専門家にして合気道師範、西洋哲学にもめちゃ詳しい砂子さん↓
後半のモノローグ&ダイアローグ部分は
関西ヌーソロジー研究会川瀬統心さんの2024年秋に行われた大阪教室のDVDやオンラインレクチャーを学んだ上で書いています↓
以上です!
ナマステ✨🐉🐍🌈