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【ショートショート】幸福な風船

「お父さん、お薬飲んだ?」

「ああ、飲んだよ」

「本当? あら、まだ飲んでないじゃない。お薬ポケットに残ってるわ」

「そうだったかな……」

「はい、飲んで」

「2度も飲んだら大変だぞ」

「今日はまだ飲んでないの! 飲まない方が大変なことになるの! ほら早く」

「ん? ああ……」

 太郎は渋々、娘のミオに出された薬を飲んだ。

 ミオが洗濯を干していると、息子の満男みつおがやってきた。

「ママ、おじいちゃんがまたMOOZのパスワード忘れたって」

「また? 今月だけでもう何度目? 全くもう……」

 ミオはリセットしたパスワードとIDを書いたメモを満男に渡した。

「ほらこれ、おじいちゃんに持っていって。無くさないようにパソコンに貼っといてって言ってよ」

「うん、分かった」

 満男は太郎おじいちゃんのところへ来て、メモを渡した。

「おう、満男、ありがとう」

「ちゃんとパソコンに貼っといてね」

「そんなことしなくても、覚えてられるよ」

「ダメだよ、すぐ忘れちゃうんだから」

「大丈夫だ、(頭を指差して)ここに全部入ってるからな」

「1番信用できないじゃんか」

「ははは! お前も言うようになったねえ。ところで、おじいちゃんの講義を聴いていくかい?」

「いやだよ、いつも同じこと言ってるんだから、もう飽きたよ」

「そうか……残念だな」

「じゃあね、僕、友だちと遊んでくるからね」

「おう、行ってらっしゃい」

 満男が出ていくと、太郎はMOOZのIDとパスワードを入力し、オンライン会議の準備を整えた。参加者は太郎以外いない。モニターに映った自分の姿を見ながらポロシャツの襟を正した。

「えー、では講義を始めます。わたくしは常日頃、理性とは何ぞやと考えを巡らせている訳ですが、人間の脳の機能が完成するのを20歳として、60歳を超えるころになると、もう相当衰えている訳です。物忘れも多くなり、判断力も鈍くなる。なので、20から60の40年間が理性優位の期間だとしますと、生まれてからの20年間と、今は『人生100年時代』などと言われているように、60から死ぬまで、まあ40年間と仮定して、合わせて60年間を非理性優位の状態で過ごす訳です。こちらの方が長いのですね。ですから、過半数を超える非理性優位の方を基準にして社会を組みかえていく大転換期に差しかかっている時期だと思うのです。
 非理性優位の状態とは何かと申しますと、何にも縛られることのない、自由で豊かな思考が個々人の中で繰り広げられている状態です。それぞれがそれぞれの夢の中に生きているような、幸福が詰まった風船です。それを理性の針がチクリチクリとちょっかいを入れてくるので、風船はときに空気が抜けたり、針から逃げようともがく訳です。それは風船にとって大変な苦しみです。理性サイドとの摩擦が生じてしまう。
 そんなときはですよ、理性サイドの皆さん、自分が理性を失ったときのことを想像してみてください。幸福な風船は、肩身の狭い理性サイドから抜け出すことで幼な子の状態に戻れるのですよ。あなたが風船なら、せっかく抜け出たのに、また針で刺されて引き戻されたくないでしょう? お互いにストレスをためないためにも、理性サイドは無駄な力を使わないことです。
 理性、非理性に関係なく、我々は自由です。身近にいる幸福な風船を是非とも野放しにしてやってください。そうすれば、理性サイドにも自由と幸福がもたらされ、ウィンウィンの関係が築かれてゆくのです。合言葉は『心地良さ』です」

 突然、MOOZがブツっと切れた。時間切れである。太郎はしばし放心してから、手に届くところに置いてあったボトルのお茶を飲んだ。ふうとため息をついてから、MOOZを開いた。IDとパスワードを入力しなければならない。何だっけな……と机を物色するとメモを見つけたので、そこに書いてある数字と記号を打ち込んだ。モニターに自分が映ることを確認してから、口を開いた。

「えー、では講義を始めます。わたくしは常日頃、理性とは何ぞやと考えを巡らせている訳ですがうんぬんかんぬん……」

   *

「ただいまー!」

 夕方になり、満男が友だちとの遊びを終わらせて帰宅した。

「おかえり」

「おじいちゃんは?」

 満男は夕食を準備中の母のミオに尋ねた。

「書斎にいるでしょ」

「まだやってるの?」

「うん、多分ね」

「もうMOOZあれやめさせた方がいいんじゃない? 電気代の無駄だよ」

「いいのよ、ああやってる間は大人しいんだから……あら? 今、おじいちゃんがあなたの名前を呼んだみたいよ」

「そう? ちょっと行ってくる」

 満男は太郎の書斎に駆けていった。しばらくしてキッチンに戻って来ると、ミオにこう告げた。

「おじいちゃんがまたMOOZのパスワード忘れたって」

(了)


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