エッセイ「日常から拾うお節介」~子育てにかかわる中で~
11月23日に3歳になった3番目の姪の七五三を祝って、近くの神社にお参りに行った。9月に3歳になった姪との日々から多くのことを学んできた。子育てとは正に育ちあいだと実感する。
息苦しさを感じる子育ての環境
子育てに息苦しさを感じている人も多い現代社会。今日はちょうど3年前に書いたエッセイ「日常から拾うお節介」をお届けし、もっと生きやすい社会になることを切に願う。
2021年12月5日
エッセイ「日常から拾うお節介」
あっという間に師走に入った。9月に誕生した姪は明日で3カ月を迎える。12月12日の日曜日にお食い初めの儀式を行うことになり、末の妹は色々と準備を始めている。この3カ月間は、妹のサポートを第一優先に過ごすはずだった。しかし、蓋を開けてみると、母と祖母のことで苦悶することが多くなり、思い描いていたようなサポートとは程遠い形になっている。しかし、私の手厚いケアがなくても、妹親子の生活はそれなりに回っている。
そうは言っても、妹の産後明けはやはり大変だった。しかし、妹が里帰り出産はせず、自宅で過ごす選択をしたことで、子どもを夫婦で育てるという意識は高くなった。ただ、やはり妹の負担がどうしても大きいと感じる。私は「スマイルサポーターのりちゃん」と銘打って、サポートに入れるときは、できることをやってきた。差し入れを作ったり、家事をしたり、姪の世話をしたり、妹と二人で愚痴を言い合ったり励まし合ったり、マッサージをしたり、クリニックや予防接種に付き添ったり、お散歩に一緒にでかけたり、といった具合に。
お互い疲れている時にはすれ違うこともあった。姉妹ではあるがお互いの本心は分かるはずがない。すれ違いの末、本音を伝え合ったことで、妹が何を必要としているかを知ることができた。相変わらず独りよがりなサポートになっていたのだが、妹は毎回とても感謝してくれる。それがとても励みになる。
姪の方はすくすくと育っている。しかし、母親の妹はこちらが気にとめないようなことも心配になるようで、正に一心同体なのだ、と感じる。誰に対しても行き届く配慮ができる妹なので、それが自分の子になると拍車をかけているから気疲れも大変なものだろう。見聞するこちら側にも波及する程だ。現代は情報が多い分、ほんとうに必要な情報や処置が届くのが難しいことも実感する。
出産経験はないが保育学をかじったことで、活字や講義で学んだことがリアルな学びとなっている。原始反射などは、何度も学んだので、色々と妹に説明することができた。せっかくの知識は活かさなくてはもったいないし、活かせることは有難い。また、妹が気になる姪のさまざまな症状について、一緒に調べたり、専門医に聞いたり、1つずつ目の前の問題の向き合い方も学んでいる。誕生してから新生児微笑がよく見られた姪だが、今は社会的微笑が出ており、よく笑うので、かかわる側はとても幸せな気持ちになる。こちらがどんよりした気持ちをもって行っても、彼女の微笑みで昇華させられるのだから、どちらが世話を焼いているのかわからない。ただ、これは私の感じ方で、母親の妹の思いに私はどうしたってなれない。
先日、鼻づまり等の症状でかかっているキッズクリニックに付き添った。同居する姪2人の病院にも付き添ってはきたが、総合病院の中の小児科だったため、キッズクリニックとは大分雰囲気が異なったのと、妹によると先生がアレルギーの専門医とのことで、喘息の子どもや風邪気味の子どもなどが多いように思われた。
3度目の付き添いの際、待合室で1歳くらいの男の子と彼の母親と隣の席になった。よく動きまわる男の子に手こずっているお母さんを見て、ちょっとお節介を焼いた。お疲れの様子のお母さんは、2人のお子さんがいらして、上には女の子がいて、仕事をしていることもあり、2人を保育園に預かってもらっていることなどを話してきた。その日は仕事を休んだことや定期的にこのクリニックにかかっていることも話してくれた。姪は妹の懐で静かに眠っていた。姪の診察が終えると、先に診察を終えた先ほどの親子と隣になった。会計するのに、動き回る子どもを支える手が足りない様子をみて、子どもを支えるお節介をすると、会計を終わった後にお母さんが口を開いた。
「この子は卵アレルギーで。上の子はそういうのがなかったから全然気づかなかったんですけど、そのことがわかって。治療も必要になって、定期的に通う必要があるんです」
私は、聴いてから、何といったかは覚えていない。ただ、そのことを彼女が打明けたことで何か空気が変わったのを感じた。食物アレルギーの子どもを幼稚園でもみてきた。子育てにはさまざまなことが起こりうること。長く付き合っていく症状もあること。その親子のこれからを想像すればキリがないが、親子が集う場に行くことで、感じ、見聞し、拾える何かがあることを知った。
妹はその時点で受診が終わると思っていたようだが、「次回も」の言葉に落胆気味だった。専門医の言葉に救われる一方で、自分の感覚との温度差に疑問を感じることもある。その後も2度、3度と受診しているのだが、まだ終わらない。助産師さんの助言でセカンド・オピニオンも考えているようだ。何を軸に子育てをしていけばいいのか、そんなことも妹の思いから拾っている。
自分が何を拾うか。そこからどう行動するか。
母と祖母とのことで、年を取り、いろいろな手助けが必要になった人とのかかわりを経験している。自分一人では抱えきれなくなった介護の現実に直面し、社会資源の必要性を感じたり、周囲の反応や身近な人のサポートにさまざまな思いを抱いたりしている。そもそも私のやりたいことは子どもと関わることだった。でも、気づけば0歳から91歳の老若男女といった振り幅の広い年齢の人とのかかわりの日々。それってなかなか味わえない経験だな、とこの一年を振り返ると思い知る。日常の中で感じ、見聞し、拾うものが私に変化を与えるのだろう。そこから、どう行動していくか、生きていくか。
色々なものを拾い、私だから感じたことの1つに「今の日本社会には、『お節介』が足りないのかな」というのがある。私の言うお節介とは、自己満足や一方通行のお節介ではなく、受け取る側が求めているお節介。お世話好きというより、お節介の私だから気づけた視点。
明日は、姪の3カ月の記念日。予防接種に付き合う予定だ。節目節目にかかわれることを幸せに感じる。そして、適度なお節介があれば、家庭や社会はそこそこ回るかもしれないという期待。抱え込むのは、やはりよくない。お節介や抱え込みで失敗することが多い私だから、見方を変えてみることができるのではないだろうか。
文章を綴っていると、妹から義弟と3カ月になる姪が微笑み合う写メが送られてきた。
適度なお節介に必要な余裕
適度なお節介には余裕が大事なのだと思う。自分がいっぱいいっぱいだと、周りが見えない。余裕なく40代を駆け抜けた私。それでも性分から、ついお節介をやってきた。
50歳になった私は相変わらずお節介。だからこそ、余裕をもち、適度なお節介とは何かを考えていきたい。