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自分なりの花を咲かせる

9月に50歳になり、10月からnoteへの投稿を始めた。自身が書いてきたものを掲載することで、かつての自分と対峙し、今を見つめることができる。自身が紡いできた物語をいったん放つことで、新たな気づきもある。何より、私のこの語りを聴いてくれる(読んでくれる)誰かがいることに感謝している。ありがとうございます。


変身願望 

 振り返ると、子ども時代から「変わりたい」とどこか現状に満足できずにいることが多かったように感じる。そんな思いが強かったからか、いつも他者とは違う道を選ぶような人生だった。高校も、大学も、就職先も敢えて地元から離れたところ、人と違うことろに進み、変身願望が強かった。 

転機

 そんな私の大きな転機は、やはり難病を得たことであったと思う。海外で教員生活を送っていた27歳の夏にSLE(全身性エリテマトーデス)と判り、そこから、大きく人生も心の持ちようも変化していった。30代前半は仕事に就くたびに無理をして、入退院の繰り返しだった。2008年6月に最愛の祖父が他界した後、しばらく仕事をせずに過ごすことを決意。その頃に書いたエッセイ「小さきは小さく咲かん」を今日はお届けしたい。


2009年
エッセイ「小さきは小さく咲かん」

 小さきは小さく咲かん 小さくも 小さきままに 神を賛えて

 これは、大学時代に親友からもらった手作りの押し花の栞にあった言葉。その言葉の由来を思いがけなく、ある冊子に寄せられた渡辺和子さんのエッセイを目にし、知ることができた。超エリート人生を送っていた日本人男性が留学体験を通して覚えた劣等感。そんな劣等感の塊をきれいに解かしてくれたのが庭に咲いていた一輪の花。その花を見て浮かんだ歌だとか・・・。

 「置かれたところで咲きなさい」、「咲くということは、諦めることではありません。自分が神によって、ここに植えられたことはよいことだと、あなたのほほえみの生活で証明することです」、「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」。これらは、先に挙げた言葉について渡辺和子さんがエッセイで綴られていたものの一部をノートに書き取った言葉であったと記憶している。
 
 アメリカの日本人学校に赴任して2年目の冬。私はこのエッセイを読んだ。おそらく様々な葛藤の中にあった。そして、きっと置かれた環境の中に自分自身が満足していなかったに違いない。そんなとき、これらの言葉は強く私の心に響くものであったのだろう。「人間として生きていく上で大切にすべきこと。一輪の花のように私も生きたい。誰に見られようが、見られまいが、精一杯生きる。それが人生だ」と、私は自分の言葉を書き添えている。

 あれから、何年もの歳月が過ぎた。多くの挫折や苦悩を味わった。与えられた環境の中で精一杯生きることを強く願いながらも、いつも、ほんとうの自分の居場所はここではない、と心のどこかで思っていた。それは、自分に問題があるのではなく、自分を取り巻く外側の環境に問題があるのだ、という思いがあったのだと省みる。とにかく、傲慢な自分がいたのは確かだ。そういった思い上がりに気づかせようと、神が様々な試練を与えらたのではないかと受け止めつつある自分がいる。柳田邦男は、ある著書の中で次のように述べている。

人は人生の折々に、様々な危機に直面する。そういう試練は、しかし、あとになって振り返ってみれば、否定的な面だけでなく、心を耕すなにか新しいものを見出す機会だったりすることが少なくないものです

柳田邦男

考え方によっては、私にとっての「試練」とは、「よいこと」であったのかもしれない。「試練」というには、あまりにも多くの恵みがあったのだから。
 
 人は自分の力量以上のものを求めてしまうことが、多々あるような気がする。それは、きっと自分の力量というのを人はなかなか自分では把握できない、という現実があるからではないかと考える。だから、場合によっては、自分が思っているよりも様々な能力があるかもしれないし、そうでないかもしれない。それを判断するのは、誰であるかにもよるが。とにかく、「小さきは小さく咲かん」と歌った超エリート男性は、劣等感を味わい、庭に咲いていた一輪の花を目にし、この境地に至った。留学をし、挫折を経験することにより、謙虚に生きることに目覚めたともいえる。
 
小林秀雄は「美を求める心」という文章の中で以下のように言及している。

 見ることは喋ることではない。言葉は目の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了(しま)うということです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう

小林秀雄「美を求める心」

 ふと、自分の人生を歩んだ道のりを辿ってみると、苦しみもがいているとき、必ずといっていいくらい、はっとするような、メッセージがいろいろな形を変えて目の前に現れてきた。それは、偶然ということはできないほど、偶然に。そして、必ず、ありのままの自分を受容することの大切さを教えてくれた。世の中には思い通りにならないことが多い。人生もそうだ。そんな中で「小さきは小さく咲かん 小さくも 小さきままに 神を賛えて」という生き方を、実践することは難しい。ここでも、自己受容の困難に突き当たる。

 しかし、それを、なんということもなく、やりとげている、庭に咲いていた一輪の花のような存在が、ほんとうに大切なことを気づかせてくれる。自然の営みが成せる業は偉大だ。でも、それは、黙って物を見ることなしには成されない。きっと、超エリート男性も花の名前など、知らなかったに違いない。だからこそ、彼はかけがえのない生き方をする術を獲得したのであろう。私も、もうそろそろ、小さいなりに自分の花を精一杯咲かさなければならない。あまりにも多くの恩恵を受けてきたのだから。


 昨日、仕事の件で副編集長(地元で私はネット新聞の記者もしている)に近況も含め連絡すると「充実した地元ライフを楽しんでいる様子が伝わってきました」と返信にあった。他者からみえる私はこんな風に映るのかぁ~と思った。実際私自身は「このままでいいのだろうか」という思を抱えて過ごしているのも確か。しかし、10代、20代、30代、そして数年前までの私からしてみれば、今ここが居場所だと感じ、充実した日々を送れているのだと思う。

自分なりの花を咲かせる

 渡辺和子著『置かれた場所で咲きなさい』は書籍化され大ヒットになった。一方、誰かが、「置かれた場所でなく、咲ける場所で咲きなさい」といったことを記していたのを目にもした。どちらでも自分なりの花を咲かせることができればいいのだと思う。まさに、世界に一つだけの花を。


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