偶成04 社会のDX化と「人格」について 2023年の読書メモ
毎年年賀状がわりに、前の年に読んで印象の残った本についての雑文を起こして、友人たちに送信しています。
始めた動機は、ごく些細なことで、介護職をはじめてから、それまでの付き合いが胡乱になってしまったので、迷惑ながら近況報告でも送っておくかということでした。
今年(2024)も10月になり、何となく来年のことを考え出した時に、今年の正月に送った文章を読み直したところ、書かれているテーマの内容はさらに複雑化したようですが、テーマ自体は変わりないので、ここに載せてみようかと思った次第です。
生成AIがどんどん専門化して進化してゆくことには呆れるばかりだし、ついに世界を敵と味方の世界観に追いやる戦争の殺し合いが始まるのかと気が気でもなく、職場では全ての記録のDX化めがけて、iPhoneが介護職ひとりに1台付与される有様です。
高齢者施設での人手不足は慢性化しており、「スタッフを補充する」という目的は現実味をなくし、空虚化し効力をなくしており、今の現状(人とコストとスケジュール)でどう運営してゆくかを考え実行してゆくようになってきています。その中では、業務にDX化された情報を組み入れ利用することは大きな武器にはなると思われます。一方で当然のことながら、DX化出来ていない業務やイメージやニュアンスの伝達をどうするかなどが大きな課題になっています。
【以下は、2024.01.01記です。】
年末年始というだけでなく、介護現場での人手不足が蔓延化しており、1日派遣の介護職の求人が毎日増えています。この1日だけの派遣介護の求人情報を通知してくれるアプリをスマホにいれてみたところ、毎朝早くから通知音が何回も鳴りだしました。介護スタッフの急な休みやパートの急なキャンセルによる人手不足が発生し、今からでも手伝ってもらえないかという緊急パート募集の通知です。普通の派遣やパートよりもかなり割高の賃金です。といっても、夜勤(夕方から翌朝までで実質2日間)以外の日勤で1日2万円を超えることはまずありません。
介護職の離職理由の圧倒的な1位は、「職場の人間関係」です。1日派遣稼業は、職場の人間関係に煩わされずにすむので、これで生活している介護福祉士(資格持ち)は、少なくありません。
1日派遣稼業は、私には、できません。
まったく初体験の職場で、同僚や入居者の情報がゼロの所に赴いて、介護職の仕事をする能力も勇気も私にはありませんし、また、自身の加齢によりその都度の職場環境にすぐに合わせられる心身の柔軟さもだいぶ失われてきています。
介護職の仕事の肝は、同僚との信頼できる人間関係と入居者個々との丁寧な交流関係を構築することだと思っています。そのためには、勤務日には、信頼できる同僚からの入居者個々の要点をついた情報が必要になりますが、1日派遣では、指示された業務を淡々とこなすだけで、同僚とも入居者とも人間関係を築く時間の余裕がありません。そこでは、多くの場合、職場の人間関係から外された業務、入居者個々の情報がいらない、入居者とのコミュニケーションが薄い業務を指示されることになります。
例えば、寝たきりで反応がほとんどない方のベッド上での排泄介助です。
寝たきりで、呼びかけに応えることもなく、一見意識の無い方でも、何回も接していると、そのひとなりの個性というか人格のようなものを感じるようになっていくというのが、私の経験です。どんな場合でもどんな人にも、その人格に配慮して介護をおこなうにこしたことはないのですが、猫の手も借りたいからこそ依頼されている一日派遣業務では、私の能力では、指示された業務をこなすことで手一杯になってしまいます。
今、何となく「人格」ということばを使いましたが、今年(2024年)は、生成AIの一般化がさらに進み、人が行ってきたことのほとんどがAIに代わる率が増えてくるなかで、「人格」という言葉の行く末に注目が集まっているようです。
「人格」は、生成AIが基礎とする数値化により表すことができるのでしょうか。
先日、使用中のネットアプリのことで質問があり、プロバイダーに連絡したところ、全てAIによる音声対応になっていました。私の質問は、既成の質問群にはないらしく、もういちど質問してください、他のコーナーにあたってくださいの繰り返しになり、ほとほと疲れてしまい、連絡を断念しました。
疲労の原因は、プロバイダーの対応マニュアルシステムの不備というよりは、会話というのは、相手に人格があってするもので、人間でないものを相手にすることにとても承服できない私がいることに気づかされたことでした。それは、会話でのきちんとした応対、正確な質疑応答を求めるということだけでなく、会話する以上は、相手から人間的なニュアンスが伝わってこなければ満足できないということです。会話相手に人格が欲しかったのです。
言い方を変えれば、「人格」が感じられないものとは、質疑応答での正確な回答を得られても、コミュニケーションとしての満足感に限界を感じてしまっているのではないか。いくら何を話しても結局は面白くないだろうということです。
じゃ、自分の「人格」ってどこにあるんだとあらためて思いました。他者から見たとき、自分で省みたときの両方の場合です。
「AI転石庵」を作ってみるのはどうでしょうか。
転石庵の履歴職歴、今まで書いてきた企画書、ブログの記事すべてをAIに学習させて、「AI転石庵」をウェブ上に出現させようという魂胆です。
私のエンジニア力では、まだ、無理かもしれませんが、ある程度できれば、メールもメッセンジャーもラインもブログも「AI転石庵」に書いてもらえるでしょう。
「AI転石庵」は普段は、ウェブ上に分散していて必要に応じて集積され、PC画面に画像や動画、テキストとして出没します。しかも、24時間稼働で学習意欲もあり、労働意欲?もあります。ほんものの転石庵が読んだ本や体験したこと、その周囲や延長線上にあることは、どんどん学習してもらえます。
すでに、AIホリエモンもAI落合陽一も存在し、活躍しているようです。
「AI転石庵」からのメール返信や新しいブログ記事を読む人が直感的に違和感や欠落感を感じたとしたら、その妙な欠落感のなかみが、私の「人格といわれるもの/場所」かと思います。
身もふたもない言い方ですが、「人格」というのは、そういう物理的には存在しない、他者の欠落感のなかにあるように思われます。
もうひとつ、自身にとっては、自らの個人的な死に人格はあります。
どういうことかというとこんなことがいえるのかもしれません。
ほんものの転石庵が死んでも、AI転石庵は活動し続けます。多くのひとにとって、あるいは、私以外のひとにとって、転石庵の死はないかもしれません。
ところが、私個人にとっては、死はあります。こあたりの私と私以外のひととの感じ方の差異に人格がある場所がありそうです。もちろん、数人の友人は、転石庵は死んだんだなと気づいてはくれるでしょうが。
生成AIがどんどん一般化して個人の生活に入り込んで来れば、こういう人格とか意識とかへの関心が高まってくるでしょう。そんなことに無関心でも生成AIが作り出し組み込まれたシステムの中にいつの間にか取り込まれているでしょうが。
あいかわらず、私たちは、日常生活で災害や事故にあっており、そういう災害や事故の影響を被っているのは、肉体や目に見える生活だけでなく、目に見えにくい「私=人格」も被っています。そういう「私=人格」って何だろうと考える羽目に最近は陥ってます。
会話の応答もできず、眠っているように寝たきりのひとには、人格を感じますが、生成AIには、今のところは、人格は感じられそうもないですから、生成AIが災害や事故にぼやくこともないでしょう。
さて、そんな問題意識も多少は反映しているであろう、2023年の印象に残った3冊を紹介させていただきます。
◎東浩紀 「訂正可能性の哲学」
◎ティム・インゴルド 「人類学とは何か」「ラインズ 線の文化史」「応答しつづけよ!」
◎辻堂魁 「介錯人別所龍玄始末」シリーズ「無縁坂」「川烏」「黙」「乱菊」
順番に綴ってみます。
◎東浩紀 『訂正可能性の哲学』
東浩紀氏は、柄谷行人、浅田彰により見出されて、1998年に『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』を出版してから、今日まで、日本の哲学思想分野の第一線で活躍している批評家です。
この10年間は、五反田に拠点を置く、ゲンロンという会社を立ち上げ、出版、映像配信などを行っています。多才なひとで主分野はサブカルチャーですが、哲学思想書に留まらず、小説も書いてます。映像配信では、人文系の分野の専門家を集めて公開討論会を行っています。公のアカデミックには属さず、自身が立ち上げた零細企業のなかで活動を続けています。
昨年出版された『訂正可能性の哲学』は、彼の今までの著作の現時点でのまとめ的な位置づけにもなりますが、別に、今回まったく初めて読んでも、平易な文章で書かれた内容は、充分に理解可能です。
大きく二つのことが印象に残りました(あくまで私見です)。
前半の「家族と訂正可能性」は家族という訂正可能な共同体について、後半の「一般意志再考」は、数年前に書かれた『一般意思2.0』に続き、民主主義のあり方について、ルソーを題材に追究されてます。
東氏の「家族」という概念は、たんに血縁共同体をさすこととは違います。
20世紀前半にドイツの法学者カール・シュミットは、政治とは、本質的に「友」と「敵」の対立を基礎として敵をせん滅する行為だと主張しました。この場合の友と敵は、共同体の内と外ともいえます。共同体の境界線を明確にして、外部を排除する行為です。ナチスに大きな影響を与えた法学者、思想家です。
東氏は、この対立を批判し、友でも敵でもない、第3の立場を提案しました。それが、前回の著作のタイトルにもなった、「観光客」です。(『観光客の哲学 増補版』)
なにかについて断片的な情報しか入手できないまま、友にも敵にもならず「中途半端」にコミットすることの価値をあらためて肯定したわけです。
私たちは、現状、どのような事柄にも問題にも中途半端にしか関わることしかできません。せいぜい、それら事象にある関わる限界を見極め、そのつど、訂正を加え、関わる限界線をあげたり下げたりしてゆくことしかできないのではないでしょうか。
そういうポジションを「観光客」としました。
そして、その観光客の延長線上にある緩やかな集まりを家族と名付けています。
「家族は観光客でつくられる。家族は誤配で(偶然的に)生まれ、訂正可能性によって持続する。」
「家族とは訂正可能性の共同体だ。」
私は、だいぶ大雑把に展開しましたが、友と敵に分ける閉じられた共同体に対して、閉じもし、開かれもしてもいる共同体として家族という概念を持ってきたわけです。
友と敵を分ける共同体の目的は、敵の「せん滅」です。絶えず敵を作りだしせん滅することが閉じられた共同体の行為です。
家族といわれている共同体の目的は何でしょうか。「継続」です。継続するためにいろいろなことをおこないます。
子どもの遊びを例にすると、水雷船長ゲームを6人でやっていたはずなのに、いつの間にか鬼ごっこに変わってしまい、また、かくれんぼになっている。ゲームに参加しているメンバーもいつの間に少しづつ変わってしまっている。ゲームの内容もメンバーも訂正されながら、こどものゲームは続いています。この子どもたちの緩やかな共同体のような集団性を、「家族」と呼んでいます。
私は、転石庵家に生まれて、転石庵家の当主夫婦によって育てられたわけですが、転石庵家の家業は代々代わり、家族生活のなかのしきたりもその都度変化してきています。しかも、転石庵家のメンバーも妹は他家に嫁に出て行き、妻は転石庵家に参入してきました。転石庵家にあるゲームやメンバーはそのつど変化訂正されてゆきますが、転石庵家という、法事になると急に親族が増える緩やかな共同体は続いています。
こんな緩やかな感覚が、家族ということばにはあると思います。
ただ、家族のイメージは、保守的かつ封建的で緩やかな集団性をあらわすには適切ではないかもしれませんが、このように可塑性を十全にもち発揮している共同体として「家族」と捉え直すことで継続性にポイントを置いていることがわかります。
この概念による、新しい提案の理論づけ方向づけを、ギリシアからヴィトゲンシュタイン、クリプキ、ハンナ・アーレントと古今の哲学思想家の考えを検証しながら行ってゆきます。
生成AIを念頭に置いた場合、数学的な理論の限界とその限界線を決めてゆくのは、共同体の意志決定であることが検証され、「家族」という共同体のこれからの可能性が示唆されてゆきます。
後半の「一般意志再考」は、民主主義の基礎付けになっている、ルソーの社会契約論にある一般意志論の再考です。
ルソーは人間は社会を営んで行く以上、3つの意志が重要といっているそうです。個人の欲望に基づいた特殊意志、特殊意志を集団化した全体意志。しかし、この二つの意志では社会は成り立たないとルソーは主張します。全体意志を現代風にポピュリズムに置き換えれば、2チャンネル的発言、X上の無責任な同調発言の集積ぶりをみれば、良く納得できます。
そこで、ルソーが持ち出すのは、「一般意志」です。ところが、これは、特殊意志や全体意志に比べると捉えにくい謎の意志です。ルソーがしるすには、一般意志は、人間が社会を形成したときに発生するもので、しかも、社会の運営は一般意志に基づいて行なわければならないと言っているようです。
ここで重要なのは、一般意志は、人類の当初からあったものではなく、人間が社会的にしか生きられない動物だということを自己発見したときから起源に遡行して現れたのかむしろ発見したものであることです。世に名高い、「人間は社会的な動物である」という概念は、社会化した人間が事後的に発見したことを東氏は指摘します。
一般意志から発明されたことのひとつは、「公共性」ではないでしょうか。「公共性」は、一般意志を考えるヒントになりそうです。
このところ人工知能民主主義ということが話題になっており、おそらく、人間社会の趨勢はそこに向かっているのかもしれません。個人の意志を回収してデータ化して全体の意志を作り上げ、政治的に実行してゆくシステムです。
ルソーの言で言えば、特殊意志をデータ化して全体意志として出力したことを政治的に実行してゆくことになります。そこには、一般意思の提起で検討された遡行的な行為はすっぽり抜け落ちてしまっています。即ち、一般意志がありません。
果たして、これで良いのか・・・
特殊意志と全体意志で形成された世界の実現に私は、冒頭に話題にした人格と同じようなものの欠落を感じてしまいいます。
急いで、東氏の論考の一部を駆け抜けましたが、ぜひ、読んでみてください。
私が落とした重要な思索が、豊かに実に平易に語られています。
その平易な語り口からは、現在を取り上げる哲学思想を、日常のことばで語ることの大切さを感じました。
◎ティム・インゴルド 『人類学とは何か』『ラインズ 線の文化史』『応答しつづけよ!』
ティム・インゴルドは、1948年生まれで、私より少し上の世代の人類学者です。彼の師のエドムンド・リーチは、レヴィ=ストロースから構造主義人類学を学び、英国でインゴルドなどの弟子たちに叩き込みました。
インゴルドは、自然/文化といった二項対立を基礎とする人類学の考え方に釈然としない気持ちを抱いてましたが、1986年のある日に、人間の中には、自然と文化の両方があり(肉体と思念が合体している存在である人間)、自然と文化を分離して対立させて考えることができないことに気づき、その気づきを基として新しい人類学を提案し始めました。人間にある精神と肉体をひとつの個のなかで分離することは出来ないことから世界への理解をはじめたのです。
植民地主義と結びついたもともとの人類学にあった未開の中に文化を発見するという面を発展させた人類学が、植民地主義や帝国主義に加担したことの反省で何だかどろどろになっていた20世紀の終わりごろから、インゴルドの新しい人類学、硬直化した構造主義とは反するアニミズム的な発想を取り入れ、人間を多くの種(動物や植物)のひとつとして捉え直し、多くの種からの視点を打ち出した新しい人類学が注目されはじめ、インゴルド以外にも同じ考えの人類学者や哲学者が現れてきました。
ここに3冊あげてますが、『人類学とは何か』は、タイトル通りで、彼の新しい人類学について紹介した本です。
「私たちはどう生きるか?・・・生きることとは、どのように生きるかを決めることであり、・・・前を行く人たちの足跡を追いつつ、それを壊すようににして歩みながら、私たちは生き方を絶えず即興的につくり出していかねばならない。」
これは、冒頭の文章ですが、彼の人類学では、研究者と研究対象が分離されていることはなく、常に自分の生きていることそのものを、研究対象としている研究者の立場です。
特に、「第1章 他者を真剣に受け取ること」と「第2章 類似と差異」は、私が従事する介護の世界で言うと、他者への気遣い=ケアの論理と倫理を語った内容で、人類学には収まりきれないと思います。
『ラインズ 線の文化史』は、「歩くこと、織ること、歌うこと、描くこと、書くこと。これらに共通しているのは何か?それは、こうしたすべてが何らかのラインにそって進行するということである。」という文章から始まり、「線Lineについての比較人類学の土台作り」とも呼べそうな考察です。
『人類学とは何か』の「前を行く人たちの足跡を追いつつ」ラインにそってゆくという人間の根っこにある姿勢が示されてます。
それにしても、個人が生きているなかや人類の集団生活でいきいきと現れてくる「線Lines」についてのこの奇妙な考察はどのようにして始まったのでしょうか、と考えてしまいます。
インゴルドが、素朴に不思議に思っていたことは、ことばと音楽は、いつどのようにして分離したのか?だったそうです。
「どうして、発話と歌とが区別されるようになったのか?音楽は言語を失い、言語は沈黙した。」
なぜ、いつから?
「(インゴルドの)注意は口から手へ、声による朗詠から手の身振りへ、そして手の身振りとそれが様々な表面にしるす痕跡との関係に向かっていった。言語が(歌を失い)沈黙した経緯は記述そのものの理解の仕方の変化、すなわち、手を使う刻印行為からことばを組み立てる技への変化となにか関係があったのではないだろうか?」かくして、ライン制作についての探究が始まりました。
西洋音楽や邦楽の記譜、写本、未開部族の文様、漢字の書体・・・と人類文化にあらわれた線を渉猟し、考察は進められます。
「実のところ、世界はまさに、人が押し付けようとするどんな分類からも常に身をくねらせるように逃れ、あらゆる方向へ緩やかに延びてゆくさまざまなラインなのだ。」
そして、本書の最後に、最初の問い「どうして、音楽は言語を失い、言語は沈黙したのか?」に戻ります。
どうして、今さら、人類学なんていう学問を!と思われるかもしれません。
この新人類学の思考は、人間もアルゴリズム化され、外部社会とのボーダーが薄れてゆく、デジタルネイチャーという考え方に隣接しているようにも思えます。デジタル化されてゆく世界を自然と捉え直すデジタルネイチャーには、自然と人間のボーダーも内部と外部の境界線もありません。映画『マトリックス』で描かれた数値だらけの世界に近いのかもしれません。
『ラインズ 線の文化史』の考察の視点には、デジタル化した世界に一方的に組み込まれることからくねくねとはみ出してゆく可能性が人類の本質にあることを示唆しているような気がします。
この本自体は、読みやすくはないので、インゴルドの考えかたに興味をもったら、講談社現代新書 奥野克己『はじめての人類学』の最終章「インゴルド-生の流転」をおすすめします。
インゴルドに20世紀末にいち早く注目したのは、ミシェル・セールなどの思想家、批評家、特に美術評論家たちでした。インゴルドの長年にわたる、エッセイ批評文を集めたのが、『応答しつづけよ!』です。
◎辻堂魁 「介錯人別所龍玄始末」シリーズ「無縁坂」「川烏」「黙」「乱菊」
私のような、一平二太郎時代からの時代劇小説ファンにとって、最近は読むものがなく、焼け野原でくすぶったかけらを集めている心境になりがちです。
ちなみに、一平二太郎とは、藤沢周平、司馬遼太郎、池波正太郎のことです。藤沢周平は再読しても面白いですが、二太郎は残念ながら、題材への解釈や価値観が変わってきてしまっていて再読には難があります。私だけの感想かもしれませんが。
NHKの大河ドラマでも原作にできる時代劇小説が見つからず、最新の研究資料で今の問題意識や価値観に適った脚本を新しく起こした方が良いというのが最近の大河ドラマ製作者の判断でしょうか。冲方丁『徳川光圀』くらいは大河になると思ってましたが、いまだ実現していません。
生成AIは小説を書くのだろうか?ということが話題になってます。今の時代劇小説の水準ならば、「地方藩」「藩閥争い」「剣術の達人」「幼馴染のライバル」「幼いころよく知る初恋相手」「家ではなく家族愛」「櫻」「最後の決闘」とかの要素をいれれば、充分に読める小説をある程度は書いてしまうのではないかと思ってます。実際の作家の方々は、ご苦労なさっていると思いますが。
昔風の言い方をすれば、それくらいに人間を書いていない、今までのこの文章の流れからゆくと人格が見えてこない小説が増えたと感じられます。ゲーム作家出身者の方が豊かなストーリーテリングに満ちた小説を書いていることは不思議ではありません。
そういうなかで、偶々、図書館で手に取った、辻堂魁 「介錯人別所龍玄始末」シリーズはたいそう面白く、一気に全巻を読んでしまいました。
介錯人という職業はないそうです。罪人の首切りは、町方同心の職務ですが、そうとう剣術のできる武士でないと、罪人とはいえ生きている人間の首切りは難しく、町方同心は、多くの場合、市井の剣術使いに依頼することになっていたそうです。依頼された浪人は、同心から依頼料と屍体を利用した刀剣の鑑定作業があるときには、鑑定料を依頼者から受け取ります。龍玄の本来の生業は刀剣の鑑定です。
地方の藩を脱藩して江戸に出てきた祖父が、介錯のアルバイトを受けるようになり、父、龍玄と引き継がれてゆきました。介錯人と名乗るようになったのは父の代からです。この父の介錯人という名称へのこだわりには、武士というあり方への屈折したこだわりが感じられます。
本郷無縁坂に住まいを構える龍玄は、幼馴染で年上で少年のころから淡い思いをもっていたれっきとした旗本の娘と世帯をもち、一女を得ています。龍玄は、まだ、少年の面影の残る20代前半で、父は龍玄が介錯人の職を継ぐとほどなくして亡くなり、町人出身で小さな金貸しをやっている母と妻と娘との四人暮らしです。
祖父の脱藩、父の職への思い、龍玄が介錯人になった経緯、龍玄と妻との結婚に至る経緯が一話完結の短編集のなかで巻が進むにつれ明らかになってゆきます。
それは、大きなストーリーで、一話一話の中では、龍玄が介錯人としておこなう仕事のなかで出会った人たちの人生とその周辺のひとたちの人生が描かれます。介錯される人たちですから、不始末を起こしたり不本意ながら巻き込まれたりとかなり人間からはみ出す境界線に近づく人生ドラマを送っています。
龍玄が介錯人として生きてゆこうと決めたのは、父に連れられて行った刑場で初めて首を斬った時でした。いろいろな迷いがあり、介錯を務めた龍玄でしたが、少年ながら、介錯人という仕事は、斬る人間と斬られる人間との一期一会の場であり、それ以外のことはその場で消えて行ってしまうことを自覚したときにこの仕事を継ぐことを決めていました。
ですから、これから斬るひとにきちんと自己紹介をし、斬られるひとのひととなりを介錯の前に聞いておき、斬った時に祓ってしまうというような務めをしています。
この一期一会は、生死の境でおこなわれ、あっという間に消えて行ってしまいますが、ここには茶の湯のような、人間の出会いが一瞬に凝縮されたような清冽さがあります。その静かな瞬間というか、そういう人間関係を持つことができる人特有の龍玄の静かな佇まいが小説全体に行き渡っていて、どうも私はそれが気に入ったようです。
龍玄に人格があるかといわれると作家にはわるいですが、いわゆる人格は今のところどうもなさそうな気がしています。むしろ、うかがい知れぬ内面というよりもその無さの空虚感が今の私をケアしてくれるのかもしれません。人格がなくて、あるというような感じです。
この作家は、初めて読む作家で、かなりの著作があることに驚きました。ただ、すべて文庫本書下ろしなので、加齢により文庫本を読まなくなった私の目に触れることは無かったわけです。中には、NHKでドラマ化されたシリーズもあり、2~3冊に目を通した感想では、龍玄シリーズ以外は、私にはまったく合いませんでした。
介護職というケアワーカーを務めていて介護のIT化の話を聞くと、確かに介護業務の大方は、生成AIに取り込むことは出来ると思いますが、必ず取りこぼしがまだまだ出てくるだろうと思ってます。ただ、取りこぼしたまま進んでゆく可能性の方が高いです、残念ながら。
そして、その取りこぼしの中にある「人格」というのは、そのなかでも大きなポイントのひとつと思います。
空なる人格である別所龍玄の世界は、デジタル社会の対極にある、ひとつのロマンかもしれません。
以上、生成AIが跋扈する世の中で印象に残った3冊でした。
ちなみに、私は自分のニューラルな生成AIをつくってみようという気があるくらいに生成AIを面白がってます。
2023年に読んだ小説本で他に印象に残ったのは以下の本たちです。
◎沢木耕太郎 「天路の旅人」
沢木耕太郎『天路の旅人』を読む : [転石庵日乗] Memoirs in Hazy Days with Lazy Ways (exblog.jp)
◎千早茜 「しろがねの葉」 生野銀山を舞台にした孤児の女性の人生記。銀山とそこに生きる人たちの繋がりが深く描かれ、主人公の女性がヒーローでないところが良いです。
◎松浦寿輝 「香港陥落」 日本占領下での香港の話。この前にも同じ作家による同じ時代と地域を舞台にした小説があり、そこでは、日本と朝鮮の混血の警官が主人公で、この小説でも顔を出します。読みがいのある重厚な文章で、特に食事の場面が秀逸。
◎梯久美子 「この父ありて 娘たちの歳月」 カケアシ久美子と勝手に名づけている作家のインタビュー集。
◎上田早夕里 「上海灯蛾」 香港ギャング団の話。舞台は日本占領下。松浦寿輝と同じ時代を扱ってますが、松浦氏にある官能性よりは、ノワールの味わいが強い小説でした。