立松和平『海の命』を読む ―なぜ太一は瀬の主を殺さなかったのかー
太一はなぜ瀬の主に銛を打たなかったのか。授業では、必ずと言っていいほど問題になります。子どももその秘密が知りたくてしかたありません。しかし、作者がそれをあえて曖昧にしているのだから、曖昧なままでいいのではないかとも思います。正解探しでも優劣でもなく、自由に読んだらいいのです。とはいえ、それでは先に進めないので、私見を述べていきます。
銛を打たなかった理由1 瀬の主の神聖性が圧倒的だった
これは理屈でありません。絶対に侵してはならないと感じる神聖性が瀬の主にはあり、それを感じられるまでに、太一は漁師として成長していた。そう考えても、この物語のテーマは成立します。
逆に、簡単に銛を打って仕留められるような魚に、そこまでの思い入れをもつことはないでしょう。長年追い求めてきた幻の大魚です。その間に、太一は海で生きることの意味を知りました。同時に、太一の中で瀬の主を神聖視する意識が醸成されていったのではないでしょうか。
海の命を知ることは、海の命に自分を同化させることです。銛を打つ対象、戦う相手ではありえません。
銛を打たなかった理由2 父の軛を脱して一人の漁師になった
太一は生まれた時から海で生きる宿命を負っています。父も、そのまた父もそうでした。幼少期から太一自身もそう思ってきたでしょう。父は村一番の漁師でした。父は、憧れであり、師であり、目標でした。その父を殺した相手に太一の心は縛られていきます。瀬の主を倒すことは、父の敵討ちであるばかりでなく、成長した自分を父に示すことなのです。亡くなった父に安心してもらうためには、瀬の主と倒す他ない。そう考え、誰も潜らないような早瀬に一人で挑んでいったのです。
「おだやかな目だった。この大魚は自分に殺されたがっているのだと太一は思ったほどだった。」
とあります。この目を見た瞬間に、太一には父と瀬の主が重なったのでしょう。長年こだわり続けてきた、父と瀬の主。その二つが交差した瞬間です。
また、同時に「一人前の漁師になれ」という父の思いがよぎったからこそ、大魚が自ら殺されたがっているようにさえ見えたのです。そして、太一は、
「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」
と、瀬の主を父に置き換えます。置き換えることで、瀬の主は倒す対象ではなく共生する対象へと変化します。太一は海の命と共生しながら、海で生きていくことを誓ったのです。
これまで、太一は父の軛をたどりながら漁師として生きてきました。軛の先には瀬の主がおり、それを倒さなければ、先に進むことはできないと考えていました。しかし、瀬の主を父に置き換えた瞬間、軛を離れることができた。一人の漁師として自由になったのです。父のためではなく、自分が漁師として生きることの意味を悟ったのだと言い換えてもいいでしょう。
銛を打たなかった理由3 父への憧憬を保ち続けた
父を超えてはいけないという思いから銛を打たなかったのだ。そう考える子が教室には大抵います。そういう読みもあってもよいのだと思います。
幼いころに父を亡くした太一にとって、父は伝説の偉人だったことでしょう。父も村一番と言われた腕前を持っていたのだから、周囲も、父のことを伝説のように太一に語り聞かせたと想像します。その父を追って漁師になったのだから、太一の目標は父に追いつくことです。並び立つことです。決して超えることではありません。自分が越えることで父の神話を汚すようなことがあってはならないのです。
太一にとって、この村の海で生きることは、海で亡くなった父と共に生きることでもあります。父の伝説を自分も周囲に語り継ぎながら、この海で生きる。それが父への供養であり、太一にとっての幸福であるならば、瀬の主を倒してはいけないのです。
これらの理由以外にも、恐怖で打てなかったと考えていいはずです。生命のセンサーが危険を察知して本能的にブレーキをかけた。それも海で生きるということです。
いくつかの中から一つに決める必要はありません。人間の心理は複雑なのだから、ちゃんと複雑なものとして扱いたいものです。
#立松和平 #海の命 #瀬の主 #文学 #国語 #授業 #教育 #父 #教材 #教材解釈 #授業研究