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「光る君へ」第36回 「待ち望まれた日」 無私の道長に野心家への道が開けた日

はじめに
 好時魔多し…よいことにはとかく邪魔が入り、とんでもないことが起こるものだという慣用句です。とかく物事が上手くいっているときほど、人の心は緩みやすく、油断も多いものです。だから、気をつけなければならない。この慣用句は、戒めの言葉として使われます。

 とはいえ、願いが叶っているとき、充実しているときというのは、どうしてもそのことに心が囚われる、あるいは根拠のない自信や心が大きくなることが抑えられません。自らを律し、気をつけているつもりでも、自然と浮き足立った言動をしてしまい、大なり小なり失敗をしでかした経験を持つ人は少なからず、いらっしゃるのではないでしょうか。
 そういう意味では、程々に上手くいく程度に留めて、緊張感を意地しているほうが、適切な成功を収めるものなのかもしれません。

 まひろと道長は、長い苦労の末、ようやく帝と彰子を真の意味で夫婦としてつなげるという目的を果たしました。それは、道長の政権の安定への大きな一歩でしたが、今回、最終目標である懐妊と皇子誕生が達成されます。そして、その先には道長の完全な権力掌握が待っています。
 一方、まひろの「物語」は好調で、多くの人の心を動かし、また藤壺では彰子の指南役、相談役という地位を得ました。二人は、自身の居場所でそれぞれに絶好調と言える状況です。

 しかし、先にも述べたように、こういうときこそ油断はつきものです。彼らも人間ですから、気の緩み、慢心は必ずあります。また、人の成功というものは耐えず、妬み、反感、悪意といった反動にさらされます。ともすれば、そうした他人の負の感情に足元をすくわれます。つまり、「待ち望まれた日」の到来とは、新たな不穏の種が芽吹くときだと言ってよいでしょう。
 そこで今回は、まひろの充実と裏で起きている反動、皇子誕生によって生まれる道長の変化に注目しながら、今後起きるであろう不安要素について考えてみましょう。


1.彰子懐妊の波紋
(1)道長、野心家への兆し
 1008年春、まひろの「物語」を読み耽る彰子に「中宮さま~!」と声をかけるのは、柱の陰から悪戯っぽく彰子を見る敦康親王です。柱に隠れているのは驚かせたい気持ちもあったのでしょうね。彰子が軽く驚いたのは、本来ならば彼は漢文の勉強の時間だからです。それを問う彰子に「嫌になったので逃げてきました」と答えますが、これは半分嘘で半分本当と思われます。彼の本音は、早く彰子に会いたかった、遊びたい、このことでしょう。

 ですから「帝には内緒にしてください」という頼みに彰子が「はい」と応えるのやり取りも、父の期待に背きたくない以上に、彰子に藤壺に遊びにきて良かったかという許しを求める気持ちが強いでしょう。また、彰子と二人だけの内緒事というだけで、少年の心はときめくと思われます。以前、皆の目を盗んでこっそり、なつめを彰子からもらったとき(第33回)のように。「良かった」と言う敦康の表情にも父にバレない安堵より彰子と秘密を共有した満足のが窺えるように見えます。

 そこへ宮の宣旨が香を焚いてきました。最初は嬉しげだった彰子ですが、気持ち悪くなってしまいます。匂いに敏感…宮の宣旨はすぐに懐妊と察します。不思議そうな顔をする敦康が興味深いですね。おそらく彼は初めて目にした女性の妊娠について、宮の宣旨から聞くことになったでしょう。宮の宣旨の語りも喜びの余り、嬉々としていたろうと想像されます。
 しかし、それは少年にとり、初恋の人の妊娠の意味を知ることです。思い人は父の妻であり、自分の母でもなく、伴侶でもない。自分と彰子の関係を改めて突き付けられたと言えるでしょう。そのことに対する彼の思うところについては後述しましょう、

 土御門殿では、珍しくバタバタと道長の足音が聞こえます。平素、比較的感情を出さない彼をして彰子懐妊は待ちに待った出来事。慌てぶりが窺えます。その向かう先では、赤染衛門が「中宮さまのご学問もお話の相手も今は藤式部が務めておるそうにございます」と、藤壺の様子を倫子に報告しています。彰子の学問の指南役として彰子に就いた衛門ですが、今は土御門殿と藤壺の間を行き来する連絡係のようです。まひろが彰子の信頼を得ていることを伝聞的に語っていることからして、衛門の軸足は再び土御門殿に移っているのかもしれません。

 そもそも、初登場時、衛門は倫子の指南役でした。そして倫子が土御門殿の主となって後は、倫子の気の置けない相談役でした。また、倫子を素晴らしい伴侶を得た幸せな人として憧憬を抱いていることも彼女の口から語られています(第32回)。つまり、彼女は彰子より倫子とのつながりが深いのです。まひろが彰子の心を開き、その信を得た今、同じくまひろを信頼する衛門は安心して、倫子を安心させるべく心を砕いているでしょう。この倫子第一主義は、第36回の終盤、顕著に表れます。

 藤壺の落ち着いた様子を語らう倫子と衛門のところへ道長が息を切らせてやってきます。直前に老猫、小鞠がのんびりするカットで1クッションを置いたおかげで、道長の慌てぶりが際立ちます。倫子はのんびりと「どうなさいましたの、こんなにお早く…」と出迎えますが、「中宮さまがご懐妊あそばされた」の言葉には、さすがに驚き、止まります。衛門も固まります。

 道長の「急ぎ知らせに戻った」という一言に、倫子が涙ぐみます。これは、ようやく長い長いトンネルを抜け、彰子が幸せを得そうであるという親としての安堵が大半でしょうが、道長かま彰子懐妊の事実を何を置いても真っ先に真っ直ぐ自分に伝えたことに夫婦としての喜びと感謝もささやかにあったのではないでしょうか。涙ぐみ衛門を見る倫子、倫子が彰子の将来に心悩ます様を間近で見守ってきた衛門だけに、もらい泣きするように涙をためた目で倫子を見返し、労うように見返します。

 衛門からの祝いの言葉に頷く道長は、安堵と喜びから涙溢れる倫子と顔を見合わせます。入内を機に立場や考えの違いから、対立やすれ違いを繰り返した二人ですが、娘の幸せを願う気持ちは同じです。倫子が心からの喜びに、道長の表情も長年の鬱屈から解かれたように満足げな表情になります。二人が夫婦として、娘の親として心を一つに喜びに満ち、土御門殿にもまさに春が訪れます。

 このように道長は、待ち望んだ彰子懐妊に夫婦と共に喜び合うのですが、それを祝うために集まった公任、斉信、行成ら旧友と酒を酌み交わすときになると、あれほど喜び勇んで帰宅し喜色を示した道長とは思えないほど、道長の顔色は物憂げなものへと変化していまいます。油断ならぬところはありますが、気心の知れた4人の間です。喜びを隠す必要はありませんから、この憂いの表情は芝居ではないのです。

 そんな道長の様子に気づくこともなく「中宮さまの御子が皇子であったら道長は磐石だ。めでたいめでたい」と言う斉信の言い様は、一見呑気ですが、一人の完全な権力者が生まれようとしていることを端的に指摘しています。斉信は、自己の利益については頭の回る人で悪びれるところがまったくありません。それゆえに臆面もなくそれを口にし、羨む気持ちとおこぼれに預からんとします。道長が右大臣になった頃から変わりませんね。

 一方、彰子懐妊を事態として冷静に分析する公任は「めでたいことはめでたいが、皇子であったらややこしいことになるな」と応じます。この発言にわずかに反応した道長は、公任と目を合わせます。はからずも公任の言葉は、道長の心中を言い当てたということになるでしょう。「ややこしいこと」に道長は既に思い当たることがあるのですね。

 人の好い行成は、公任の危惧にもややこしいことはございません。これまでの倣いによれば居貞親王の後は帝の一の宮、敦康親王さまが東宮になられるのが道理でございます」と明快な理を説きます。これは、彼に強い野心がないことに加え、東宮別当として、敦康を守る道長の意に従い心を砕いてきたことがあるからでしょう。
 ですから、「敦康さまの後見は道長だが、もし道長が後見を止めたらどうなる」という当然あり得る可能性を公任に指摘されても「そのようなことを道長さまがなさるはずがございません」と信じきった回答を即答、斉信、公任、行成と回ってきた肴の器を道長へと回します。

ところが、宴も酣ななか、思案げに3人の話を聞いていた道長は、行成から受け取った器をカタンとわざと音を立てて置くと、口をつぐんだままこの話を打ち切ろうとします。ある程度忌憚なく話す間柄である4人ですから、その意を伏せる道長の様子に斉信は「あれ?何も言わないのか?」と意外な顔をし、他2人も怪訝な表情を道長に向けます。

 彼らの視線を受けた道長は「次の東宮さまのお話をするということは、帝が御位をお降りなるときの話をするということだ」と、一条帝がまだまだ若く健在であるのに、その御代の終焉の先を考えることは不敬で不謹慎だと答えます。一見、至極真っ当な理屈ですが、旧友同士の半ば気の置けない会話で持ち出すには、いささか大仰です。言い訳に過ぎないことは、道長もよく自覚しているようです。3人を見渡すと笑い、立ち上がると「この話はもう終わり!」と、話したくないと明確に意思表示をします。

 「ここからが面白いのになぁ?」「ああ…」と不満を合いの手のように口にする斉信と公任は、半ば興味、半ば本気で残念そうです。彼らは、彰子懐妊からが。道長の御代の本当の始まりになると察しています。これまでの内外に遠慮しながら政とは明らかに変わってくる。その展望や存念を知りたいというのは人情でしょう。まして、それが自分たちの出世にも直結するのですから尚更です。
 無論、公任らの言わんとすることは、道長にもわかっているでしょう。だからこそ、明確に答えることを避け、煙に巻き、冗談めかしながら慎重に応じたのです。為政者は孤独、本音は旧友であっても見せられないものです。しかし、その一方で、このように誤魔化したこと自体が、真っ当な理屈に乗れなくなっている道長の逡巡の表われです。

 特に行成の「そのようなこと(=敦康を見捨てること)を道長さまがなさるはずがございません」との言葉を頷くことができなかったことは致命的です。これまでの道長であれば、「敦康親王の後見を続けるつもりだ」と肯定するか、あるいは「敦康親王のことは考えておる」などといった配慮を口にしたでしょう。しかし、それができず、逡巡した挙句、答えられなかったのです。それは、道長は、目の前に表れようとしている絶対権力を想像してしまったからではないでしょうか。
 娘である中宮彰子が懐妊した今、その子が皇子だった場合、敦康より彼を東宮に据えるほうが、道長の権勢を盤石にすることは明白です。将来の帝の外戚であることが、絶大な力を生みます。それは、藤原北家の歴史が、または父、兼家が示しています。

 現状、道長の政は、興福寺の強訴など行き詰まりを見せています。それは道長の権勢の不安定を端的に示すものです。つまり、敦康の後見人という立場だけでは、政権の安定には不十分ということなのですね。例えば、敦康を後見することは、我が子を次の東宮と願う現・東宮の居貞親王の野心を牽制できていませんね。
 となれば、民を救う政という志を、これまで以上に強力に推し進めるには、自身の孫を東宮にすることが不可欠になります。これは、政における合理的判断というものです。当然、慣例などを考慮することになりますが、そうした建前が何とかなることを道長は経験則で理解しているでしょう。

 しかし、道長は敦康の後見を続けると言うこともできないことと同様、その彰子の皇子を東宮にするという合理的判断も口にできません。それは政に対する公平さ、私欲の無さといった道長の倫理観とは相反するからです。
 そもそも、道長が、敦康親王を彰子に預け養育させたのは、詮子の「敦康親王を人質にしなさい」(第29回)という提案によるものです。それは、円融院の皇統を守る苦肉の策でしたが、姉の孫を政争の具にするという道長の意に染まないものでもありました。一方で、この策によって道長は、政を優位に進めてきました。

 つまり、道長は、敦康を人質にすることが有効な手段であることを認め、利用しつつ、そのことへの後ろめたさもずっと抱いてきたのです。彼が時折、敦康親王に見せる気遣いは、優しさだけでなく後ろめたさの裏返しもあったかもしれません。無論、聡明に健やかに育つ彼と接して、それなりの愛着も湧く面もあったでしょう。
 結局、後見を止めることは、姉の敦康を守りたいという願いを裏切り、定子の子を東宮にしたい帝の意向に逆らい、そして己の倫理観も切り捨てます。それは、まさに「幾度も言うたが、父の真似をする気はない」(第32回)と否定し続けた兼家の遣り方を踏襲することに他なりません。道長の良心は、その道へ進むことを引き留めているでしょう。

 ですから、どちらも選べず逡巡している…道長がこの宴で見せる物憂げな様子の正体ではないでしょうか。ただ、先にも述べたようにこの逡巡は、道長の変化そのものです。これまでは迷うことなく、正道を、公明正大を貫いてきた彼が、自分の権勢を盤石にするため、進んで他を犠牲にし、それを厭わない遣り方を、選択肢として考えるようになっているのですから。

 何故、急に野心家への兆しを見せるのか。あまりにも急激するのではないかと思われる方もいるでしょう。しかし、それこそが絶対的な力の誘惑だろ思われます。人は、一度、何らかの力を手に入れると、それを行使したくなります。力の行使、それは倫理、良心では抗いきれない快感と魅力に溢れています。そう…理由はない。自分にはできてしまうから、それをやってしまうのです。
 例えば、本能寺の変。長らく明智光秀の動機は謎とされますが、それは合理的で完全な理屈も証拠が見つからないからです。そのため近年では、たまたま信長が討てそうな状況になっていることに気づき、衝動にやってしまったとも言われています(「どうする家康」の酒向芳さん演じた光秀はこの説でしたね)。

 道長は、彰子懐妊を心から喜んだはずですが、その先に待ち受けるさまざまに思いを巡らせているうちに、自らが手にするかもしれない権勢の魔力に囚われつつあるのかもしれません。史実では、道長は彰子出産が近づくにつれ、敦康に対する扱いがあからさまに雑になっていきます。「光る君へ」の道長は、この時点では逡巡し、判断を保留していますが、既にその考えがちらついている以上、少しずつ、己の権勢を固める野心へ傾きつつあると考えてよさそうです。
 因みに興味深いのは、この場面で敦康親王が正当な後継者と主張した行成が、結局は彰子の産んだ敦成を東宮にせんと一条帝を説得することになることです。道長一筋の行成ですが、敦康を見捨てる道長の選択を積極的に支持するには、彼なりの葛藤、ドラマがあるかもしれませんね。行成は、変わりゆく道長をどう見ることになるでしょうか。

 さて、道長が徐々に変わりつつあることは、彰子の出産の記録をまひろに依頼する頃になるとさらに明確なものへとなっていきます。本来、帝の御子の出産の折には、公的な記録が取られます。行成から道長に紹介された五人の官僚たちがその作成を担当します。道長は彼らによしなに頼みながらも、それだけでは満足しませんでした。
 その頃、彰子の里帰りに付き従い土御門殿に滞在するまひろは、特別に局を与えられ、変わらず「物語」執筆に勤しんでいました。道長はそこへ訪れると「頼みがある。中宮様のご出産の記録を作ってもらいたい」と、公的な記録とは別に出産記録をまひろに依頼します。宮中による記録は、公文書ですので漢文で書かれます(明治維新まで公式な文書はすべて漢文で作成されます。漢籍は役人の必須技能なのです)。つまり、誰でも読めるものではありません。ですから、道長は、誰もが読める、仮名による彰子の「御産記」の作成を頼んだのですね。

 大役に逡巡するまひろを、道長は「中宮さまのお傍にいて、中宮さまのお心をよくわかっているお前にも書いてもらいたい」と彰子に寄り添った記録だからと口説き落とそうとします。この言葉に、道長の意図が窺えますね。公的な記録は、起きた出来事のみが淡々と書かれます。文書の性質上、かかわった人の思いや生き生きとした様子、臨場感は削がれます。事実上、彰子の相談役、指南役であるまひろであれば、細かいところまで行き届くでしょう。
 また、出産は穢れとされ、男性が立ち入ることができません(内裏で出産しないのもそのためです)。彰子付の女房として「中宮さまのお傍に」いるまひろであれば、彼らが見ることができない詳細についても見聞きできることが期待されます。道長は、男性視点の公的な記録の限界をよくよくわかっていたと思われます。

 まひろは、道長の彰子に寄り添った記録という点に興を引かれるものの、そこまでする意図を計りかねます。暫し間ができたところで、道長は「ふぅむ…」と息をつくと「中宮さまの晴れの場、後に続く娘たちにも役立つように残したいのだ」と、その本音を漏らします。ここには、彰子の出産は、自身の繁栄の始まりだと道長が確信していることが窺えます。つまり、道長を祖とする道長流摂関家の栄光を後世に残すことが意識されています。

 そして、その目的は、「後に続く娘たちにも役立つ」…つまり、自分の娘だけではなく、この後生まれるだろうこの家の女性(娘)たちの入内と出産の雛型として学ばせることにあるとしたのです。かつて、仲間と投壺をしながら「入内はおなごを幸せにせぬと信じておる」とまで言った道長ですが、今や残りの娘たちも入内させる考えがあることを仄めかしています。
 事実、倫子の娘たちは3人とも入内することになります。結局、彰子入内から出産に及ぶ顛末は、道長に権勢の維持には娘の入内が必要不可欠との認識を植え付け、そのための罪悪感のハードルを下げる結果になったということかもしれません。

 我が「家」の繁栄のために女性を犠牲にすることを良しとしなかった道長の変貌には驚いた方もいらっしゃったことでしょう。おそらくこの点については、道長のなかでは、我が「家」のためではなく、この国の安寧と未来の致し方ない犠牲という正当化がなされているという気がします。

 道長の志を信じるまひろは、彰子のことであれほど心を痛めた彼の親心も知っています。そのせいか、まひろは道長の言葉に宿る真摯さに「承知仕りました」と引き受けてしまいます。彼の親心の影にある野心めいたものを、まひろは感じ取れなかったのか、それとも感じながらも彼を信じたのか、あるいは彰子のためであればと思ったのか、ここでは判断しかねるところです。

 どちらにせよ、こうして、「紫式部日記」が書かれる道筋も経ちました。「紫式部日記」は、「御産記」だけではなく、随筆部分もありますから、後々、加筆修正がされるなかで形を変えていったと思われますが、道長の紙の供給を背景に書かれたそれは、「源氏物語」と同じく道長の政治的意向、戦略のなかにあったということが、劇中で明示されました。まひろは否応なく、そして寧ろ積極的に、野心家へと変質しつつある道長の片棒を担ぐことになってしまいましたね。

(2)次の東宮を巡るそれぞれの思惑
 彰子懐妊は、土御門殿と藤壺にとって最大の慶事となりましたが、それはあくまで道長の身内までの話。周りの心持ちは穏やかなものではありません。斉信の指摘どおり、彰子懐妊は道長の権勢が磐石になることを意味します。それは帝をも凌ぐ絶対権力者が確定するということ、つまりは他の貴族や皇族の可能性が摘まれることです。我が「家」の繁栄のために権勢の頂を目指すのが平安の上流貴族の倣い。その本念を抑えられてしまうのは、大なり小なりどの貴族も面白くないというのが本音でしょう。

 中関白家の凋落に際し、これで「あなた様には誰もかないませぬ」(第20回)と晴明が挑発するように嘯きましたが、そのときから道長の絶対権力者への道は半ば約束されたことだったかもしれません。隆家が、その勢いを直感し早々になびいたことは象徴的です。
 無論、道長本人にとっては、その道程は平坦なものではなく、苦渋を舐めること、身を切る思いの連続だったでしょう。今なお為政者の孤独と懊悩のなかにいます。しかし、道長の苦難はその都度、誰かが彼を救ってきました。それは策を献じる晴明、泥をかぶる詮子、真心で応える行成、暗殺を防いだ隆家、金銭的な援助を惜しまない倫子、物語で心を動かすまひろ…人に恵まれた強運の持ち主でしょう。

 一方で、彼の政には不安要因が残されていました。それは政権基盤です。陣定を重視するそれは道長の公明正大なリーダーシップによって維持されていますが、その地位はいつでも脅かされるものでした。権力の後ろ楯になる根拠、つまり帝や親王との血縁的な強いつながりないからです。これまでは帝の母である女院(詮子)がいましたが、彼女も亡くなりました。道長が敦康親王の後見人にならざるを得なかったのも、自身の政治基盤の維持、そして敦康を伯父伊周の手に渡さないためです。

 それでも、敦康親王となれば伊周が立場上、優位になる可能性は残されていました。「光る君へ」では描かれることはありませんでしたが、史実では二枚舌の貴族らは表では道長に従いなから、裏では伊周のもとを訪れ、よしみを結んだと言われます。しかし彰子が皇子を産めば、その基盤の脆弱さは解消されます。だから、道長は絶対権力者となるのです。ただ、それは道長にとって、政治的に敦康の存在は、不要になるということです。彰子懐妊の影響を最も強く受ける可能性があるのが、彼女を慕う敦康親王というのはなんとも居たたまれないですね。

 こうしたことをよく理解しているのが、愛する定子の遺児として敦康親王を大切にしてきた一条帝です。彰子懐妊の報せに「懐妊の祝いに中宮に印の帯を送れ」と命ずる帝の表情は優しく、笑みを称えた穏やかなものです。そこには睦み合うようになった彰子への情が窺えますが、一方で懐妊そのもの、我が子が生まれる感動のようなものは感じられません。
 ここで、定子が敦康を懐妊したとき(第27回)を思い返してみましょう。喜び勇んだ一条帝はその在所へ自ら足を運び、「今度こそ皇子が生まれる。朕には見えるぞ。定子に似た目の美しい聡明な皇子の姿が…」と、我が子へ託す希望を熱く語り、自らの立場に不安を抱く定子をかえって戸惑わせたほどの熱意でした。さらに「朕を信じて安心してよい子を産め」との励ましもしたものです。しかし、彰子へは通り一辺倒の祝いに留めています。

 「手配いたせ」と蔵人に任せた後の沈思するような横顔に、帝の本音はあるでしょう。祝ってやりたいのは山々ですが、それ以上に気がかりは敦康の将来です。彼の願いは敦康親王を東宮にすることです。敦康の伯父伊周の地位を引き上げ道長との緊張関係も作りながら、道長の策に乗り彰子に養育させる。そのバランスの取り方は、後ろ楯のない敦康を守り、彼を東宮に就けるためです。

 しかし、もしも彰子の産む御子が皇子ならば、彼が取り続けたバランスは崩れます。彰子の求愛に応えたときから、こうした日が訪れることはわかっていたことですが、いざその日が来てみれば、その不安は想像以上だったのでしょう。彰子を寵愛することとその子を東宮に据えることは別と思っても、帝の頭には、敦康親王は東宮の地位を得られるのか、道長はこれまでどおり敦康を大切にするだろうか、そうした疑念と危惧は消せません。帝は、生まれ来る我が子が最愛の息子の皇位継承を脅かすことを今から恐れ、彰子懐妊を素直に喜べないのです。

 ところで一条帝が、敦康親王を次の東宮にすべく厚遇するのは、それを脅かそうと目論む現在の東宮、居貞親王がいるからです。彼は、幼い年下の一条帝の東宮になって約四半世紀、ずっと皇位に即くことなくいます。結局、彼は36歳で帝となりますが、当事としては異例の遅さだったとされます。
となれば、宙ぶらりんのまま東宮に据え置かれ、その才も志も悶々と抱えるより他なかった彼の心は長年、鬱屈していたことでしょう。彼が自らの即位にこだわり、息子が自分と同じ不遇を味わうことがないよう図ろうと固執するのは、心境的には理解できるところでしょう。

 その彼の元へ道綱から告げられたのは異母兄、花山院の死でした。劇中では道兼に騙され出家、隆家には射かけられると、散々な扱いだった傍若無人な奇人の帝を本郷奏多くんが憎めないキャラクターにしてくれましたが、その後は風流を奔放に生きた彼も41歳の若さでなくなりました。
 道綱が居貞親王のもとへ訪れたのは、おそらくは居貞が呼び出したからでしょう。彰子懐妊による道長の動向を異母兄の道綱から聞き出そうという腹積もりでしょう。無論、道綱のほうは特に居貞親王に取り入るような意図はないでしょう。そして、内裏にかかわる情報を話すなかで、花山院の死が話題にされたのでしょう。

 「なんということか…」と落胆、呆然とする居貞親王に対して、道綱が「ご在所にて厳かな最期であったと聞いております」と苦しむ死ではなかったと言い添えるのは、兄を失った彼へのお悔やみの意味合いがあると思われますが、肝心の居貞の関心はそこにはありません。彼が口にするのは、「これで冷泉天皇の子は私だけになってしまった…」と親族の情よりも血統の問題です。そして「我が子、敦明が次の東宮にならねば、冷泉の皇統は途絶える」と妻の娍子(すけこ)と顔を見合せ、危機感を募らせ、自身の野心を正当化しより逞しくします。

 自分たちのことしか考えていない居貞の言葉に道綱は適当に合わせますが、「中宮さまのお産みになる子が皇子でないことを祈るばかりだ」との言葉には、弟思いの兄としては首肯できず「こればかりはお生まれになってみないことにはわかりません…のでね…(苦笑)」と言葉を濁します。
 兼家存命の頃から、自らの凡庸さに劣等感を持ちながらも、妙に羨まず、分不相応な出世を望まなかった彼からすると、親族の死を悼まず、無事の出産も望まず、冷泉系の皇統と地位に固執する居貞の応は居心地の悪いものだったのでしょうね。彼は、本当に人の好い人のようですから。

 居貞親王に合わせることができず「はあ」とため息をつく道綱に「もっと父上を大事にせねばならぬぞ!」と、ずかずか現われ声をかけたのは話題の敦明です。恐縮して挨拶を返す道綱に「これから狩りに参る。そなたもどうだ?」と相手の意向も構わずに誘います。一見した様子からは、よく言えば捌けた、悪く言えば強引で無遠慮な体育会系のノリといった明るさの人物といった風体です。

 御簾越しに母、娍子が「この間行ったばかりではありませんか!」と咎めるのは、勉学に励んでほしいということであり、狩りそのものを否定的に見ているのではないでしょう。どういう狩りかは言及されていませんが、もしも鷹狩であれば身分の高い者の嗜みで古くは天皇の特権でした。因みに一条帝も鷹狩の愛好家として知られています。
 母の言葉に「母上、私は力が有り余っているのですぅ!」と駄々をこねる言い草は子供っぽいですが、「人にぶつけるより獣にぶつけるほうがマシでございましょう?」と嘯くあたりには、力を持て余した若者らしい剣呑さと理屈で言い返す頭の回転の速さも窺えます。

 道綱は恐る恐る「私は狩りが苦手でございますゆえ…」と及び腰の言い訳を返していますが、これは剣呑な物言いの敦明に関わりたくないということでしょうね。道綱は弓の名手としての逸話が残る人でしたから。すると敦明は「そなたは獣の肉を食わないのか?」と問い質します。意図を計りかね「食べます」と素直に答えてしまった道綱に、畳みかけるように「肉を食うくせに自分の手は汚したくないというやつか?」と理詰めで追い込み、その軟弱を詰ります。

 人の好い道綱だからこそ、敦明の挑発にも「いやぁ」と耳に手を当てパタパタさせ「耳の痛いことで、お恥ずかしい」というように笑って返していますが、相手によっては不機嫌になるでしょう。そうした反応もまた敦明は面白がるのかもしれませんが。どちらにせよ、顔見せ程度で出てきたこの場面で、強引さ、ワガママさ、少し人を苛む癖、頭の回転の速さなど、父親同様、一癖二癖あるような人物として描かれています。油断ならない親子が、次期東宮の座を狙っているのですね。

 さて、次の東宮候補として渦中にある敦康親王もまた、まったく別の憂鬱のなかにあります。彰子は、出産の里帰り前の最後に敦康との双六に興じたようです。双六を仕舞いながら「しばらくの間、里に下がりますが、親王さまは怠ることなく、学問にお励みくださいませ」と、養母として、そして彼への愛情と期待を込めた言葉を敦康かけます。しかし、敦康は黙々と片付けるだけで、その言葉に返事をしません。

 その様子に「親王さま?」と訝る彰子に、敦康は「子が生まれたら私と遊ばなくなるのでしょ?」と単刀直入に聞きます。懐妊を知ったときから、少年はずっとそれを聞きたかったのでしょう。彰子は「そのようなことはございませぬ」と即答しますが、敦康はよくよく考えた上で「遊ばなくなる」ことを前提に聞いていますから、それでは納得しません。

 目を伏せたまま、「私は中宮さまの御子ではございません」と訥々と語ると「真の子がお生まれになれば」と言ったところで、吹っ切ったように彰子の顔を見ると「その子のほうが愛おしくなるのは道理です」と柔和な表情で仕方のないことですと返します。
 するすると澱みなく述べたその言葉からして、おそらく、彼は悩み抜いたうえで、彰子にかけるべき言葉を考えてきたのだと思われます。彼は幼い頃から彰子と共に過ごし、ずっと彼女からの慈しみを独占してきました。大好きな彼女が、実の子とはいえ自分以外に笑顔を向け、その相手をすることは耐えがたいものがあったでしょう。

 しかし、聡明な敦康は、自分のその思いがワガママに過ぎないこと、彰子は敦康の母ではなく父の后であること、安心して出産し、その子と仲睦まじくあることが彰子の幸せ…など、よくよくわかっているのでしょう。少しずつ大人になりつるある少年は、好きな女性のためになること、一番喜ぶことをしてあげたいとも思っているのでしょうね。だから、彼はどうぞ生まれてくる子を大切にしてください、と彰子に万感の想いで伝えたのです。
 おそらく、そこには、彰子に嫌われたくないという怯え、そして、彰子に捨てられたと自分が哀しく思う前に、自分自身からきちんとお別れをしてしまおうという少年らしい意地も、少なからずあったと思われます。つまり、敦康親王の聡明な物分かりの良さは、彰子への強い恋慕の裏返しなのですね。

 いじらしいまでの敦康の愛情を、彰子がどこまで気づいたかはわかりません。敦康にとって彰子はただ一人の女性ですが、一条帝一筋に恋心を抱く彰子にとって、敦康は大切な人であっても殿御ではないからです。ただし、彼の物分かりの良さの裏にある真心と怯えは感じ取ったと思われます。それは、常に周囲に心を配り見ていた彰子の賢さもありますが、何よりも敦康との母子としての精神的なつながりの深さに依るところでしょう。

 彰子は、敦康を正面に見据えると「親王さまがほんの幼子であられた頃から親王さまと私はここで一緒に生きて参りました。今日までずっと。帝の御渡りもない頃から、親王さまだけが私の傍にいてくださいました」と静かに語ります。つい最近まで寂しく孤独に過ごしてきた藤壺の日々において、敦康とやり取りをするときだけが、彼女の心の慰めであり、楽しみであり、救いだったのです。そのことは、感謝してもしきれません。思えば、父道長がしてくれたことのなかで、もっとも贈り物と言えるのが、敦康の養育を任せてくれたことかもしれません。

 そして、敦康と見つめ合った彰子は「この先も私の傍にいてくださいませ。子が生まれても、親王さまの御心を裏切ることは決してございませぬ」と、かけがえのない貴方の存在が必要だから傍にいてほしいと訴えます。そして、それこそが自分が彼を裏切らない保証だというのですね。敦康は双六を彼女の袋のなかにカタンと仕舞い、、満足そうな顔を向け、彰子の真心に応えます。

 それにしても、彰子の敦康へ向けた言葉は、彼女の本心ですが、聞きようによっては恋人に向けたかのような微妙な色合いを持っています。二人の精神的なつながりの深さとして、彰子の真心を示す言葉として、それは的確です。しかし、これを聞いた敦康が彰子に恋慕を抱いているとすれば、彼を喜ばせ安心させた彰子の真心は、敦康の恋慕の情をますます膨れ上がらせ、拗らせていくことになることが危ぶまれますね。それこそ、「源氏物語」の光源氏と藤壺中宮のように…。

 この場面で、二人が遊び道具である双六を仕舞っていることは示唆的です。それは、敦康の少年時代の終焉のメタファーと思われます。少年は大人になったがゆえに、彰子とは遊ばなくなるのです。それは、敦康の新たな苦悩の始まりなのかもしれません。このように、彰子懐妊は、単なる慶事ではなく、さまざまに人々の心に割り切れない波紋を広げていくのです。


2.まひろと彰子の師弟関係が起こす波紋
(1)帝王学としての「新楽府」
 懐妊からしばらくしたある日、その日、つわりなどもないこともあり彰子は、まひろを局から自室へと呼び出します。丁度、女房らに髪を漉かせて身支度をさせていたところですが、まひろが来ると「そなたらは下がれ」と人払いをします。このとき、案の定、左衛門の内侍が不服と苛立ちの表情を浮かべていることは、ここ数回の彼女の言動と展開を考えると見逃せませんね。
 また、女房全員が下がっていくことには、さすがのまひろも戸惑っていますが、このようなことは茶飯事と思われます。元より新参者の外様でありながら特別扱いされていますから、否が応でも他の女房たちの刺すような視線は自覚せざるを得ないでしょう。それは、藤壺に来てからのまひろが、他の女房たちと親しく話すという場面がほとんど描かれていないことからも窺えます。

 今回、劇中では三度、彰子は人払いをした上でまひろと個人的な話をしていますが、おそらく召し出しは度々あると思われます。まひろの助言によって、長らく抱えていた一条帝への想いを遂げた今、その信頼は篤いでしょう。まひろは、彰子にとって恩人であり、初めて得た何でも話せる大人の女性なのです。その安心と楽しみは、日々の潤いだと思われます。

 このときも、体調を気遣うまひろへ「今日は気分がよいゆえ…」と述べた後、急に声を潜め「内緒の話をしたい」と微笑みます。既に人払いをしているのですから、ここで声を潜める必要はありません。それでも声を潜め「内緒の話」と茶目っ気を見せるのは、まひろと「内緒の話」を共有する、そのこと自体が彰子にとって楽しいことだからなのでしょう。
 こう考えると、彰子がこのように二人きりになりたがることは心情的には理解してあげたいところです。また、これは、他の女房たちがいかに彰子を見ておらず、彼女を孤独にさせていたかということでもあります。

 しかし、まひろに対する過度の特別扱いは、ただでさえ悪目立ちしているまひろへ他の女房たちの嫉妬や反感を駆り立てることになります。つまり、彰子自身が、恩人の立場を危うくする行為を無自覚に繰り返しているのです。今後、まひろが手痛いしっぺ返しを食らう可能性は捨てきれません。ただ、先にも述べたとおり、彰子の現状と気持ちを思えば、彰子自身がまひろを召し出すことは責められません。

 また、まひろにしても彰子に召されて断ることはできませんし、今が彰子の心を開いていく大事な時期と思い力を尽くすのも当然です。ですから、筆頭である宮の宣旨、あるいは赤染衛門が何らかの手を打つか、助言をすべきだったでしょう。
 それができていないということは、まだまだ藤壺は、彰子を盛り立てるため、皆が団結していくのはこれからになるということでしょう。まひろが、その輪に加わっていけるのかどうかも問われることになります。果たして藤壺が、登華殿と同じく大きなサロンとして花開いていけるかの試練とも言えます。

 話を戻しましょう。二人きりになると彰子は、早速「藤式部は何故、漢籍に詳しいのだ?」と質問します。「父が学者でございましたので、幼い頃、弟に父が漢籍を読み聞かせているのを聞いて覚えてしまいました」と笑って答えます。聞いただけで漢籍を覚えたというまひろの逸話は、生まれつきの地頭の良さを示すものです。彼女の天才ぶりを聞かされた彰子は、やや不安げに「私には無理であろうか」と問います。彰子が漢籍に興味を持ったとすぐに察したまひろ、軽く驚きながらも「学ぶことはいつからでも始められます」と即答します。

 まひろのこの言葉は、至言です。現在は生涯学習という言葉も定着し、大学や大学院では社会人入学へ門戸が開かれていますし、リカレント教育(学び直しが近いでしょうか)も積極的に行われつつあります。若いときでなければ…という分野もないではありませんが、ある程度、人生経験を経たからこそ深く理解できることもあるものです。若いとき大学で聞いてチンプンカンプンだった講義も、今聞くとすごく面白いとわかるということも珍しくはありません。つまりは、興味関心を持ったときが、学びの始めどきなのですね。まして、彰子は21歳。遅すぎることはありません。

 「以前、帝が藤式部と話しておられた…あれは…何の話だ?」と彰子が思い返すのは、藤壺にて帝とまひろが対峙した際に、帝が朗々と暗誦した帝は「高者未だ必ずしも賢ならず、下者未だ必ずしも愚ならず」のことです。あの帝の暗誦は、登華殿での拝謁の出来事(第19回)も含みこんでいましたから、どのみち二人だけにしかわからないやり取りでしたが、まひろは、とりあえず、白居易の「新楽府」の一説だと教えます。
 さらに興味津々の彰子に「唐の国の白居易という詩人が、民人の声を代弁し為政者のあるべき姿を示した漢詩にございます」と詳細を伝えたうえで、そっと「帝のお好きな書物と存じます」と言い添えます。あー、まひろ先生、誘導が巧みですね(笑)

 案の定、目を輝かせた彰子は「それを学びたい!」と笑うと、また声を潜め「内緒で」と言います。「え…内緒で、でございますか」と問い返すまひろに「亡き皇后さまは漢籍もお得意だったのであろう?私も秘かに学んで、帝を驚かせ申し上げたい」といたずらっぽく笑います。
 ここには彰子の人柄と成長が窺えます。彼女は、亡き定子に嫉妬することはしません。そもそも、自分が二人の間に割り込んだという意識があるのかもしれませんが、そうしたネガティブなものではなく、彰子が心惹かれた帝は、定子を忘れずに心に住まわせた帝だということでしょう。既に定子は帝の一部です。その哀しみも苦しみも、彼女にとって愛おしいものなのでしょう。帝から寵愛を受けるだけではなく、自分も帝をお喜ばせ申し上げたい、なにかをせずにはいられないのです。そう自然に思えるようになったのですね。

 まひろにしても、こういう彰子の想いに応じないわけにはいきません。そして、「新楽府」の講釈をすることは、まひろにとっても感慨深いものがあります。まひろの政への視野を広げ、軸となったということだけではありません。「カササギ物語」を通した形でも四条宮の女性たちには、政の話は受けが悪いものでした(第30回)。しかし、彰子は、帝を喜ばせるという私的な目的とはいえ、それに関心を持ってくれているのです、自分が「新楽府」を読み感激したあの思いを同じ女性に教え、語り合える。それは待ちわびたことだったのではないでしょうか。
 因みに紫式部が「新楽府」のレクチャーを彰子にしたことは史実のとおりです。ただ、その事実に、これまでのまひろの「新楽府」をめぐる半生が込められているところが「光る君へ」らしいところですね。

 早速、始まったまひろの「新楽府」のレクチャーで使われたのは、「則知不獨善戰善乘時 以心感人人心歸」(書き下し文:則ち知る、独に善く戦ひ善く時に乗ずるのみならず、心を以て人に感ぜしめて人心帰するを)という。「新楽府」の「七徳舞」の一節です。まひろの「太宗皇帝はただ戦が上手く時運に乗ずるのに長けていたのみではありません。人に対し常に真心を尽くしたゆえ自ずと人々の心は皇帝に付き従ったのでございます」という解説は、訳としても的確なものでしょう。君主にとって必要なものは、武勇や知恵ではなく、徳であると説く、この部分は「為政者のあるべき姿を示した漢詩」というまひろの説明どおり、まさに君主論です。

 それを聞いた彰子は「真心を尽くす…」と、漢詩の要点を噛みしめます。まひろは「政の頂にある者が人々の心を真につかむのは並大抵のことではございません」と補足します。おそらく、まひろは道長の苦労を念頭にしたのでしょうから、そこには実感が伴います。「そうか」と得心した彰子は、興味津々に「続けよ」と笑顔で意欲を見せます。

 彰子は、真綿が水を吸うように、「新楽府」の内容をどんどん吸収していくようです。彼女は、まひろの話をただ聞くだけではなく、要点を捉え、自分が得心するまで考えているようです。学びに置いて大切なことの一つは、理解し咀嚼し、自分で考えることです。彰子は、それをきちんとやりながら進んでいくようです。実にいい生徒ですね(笑)

 先にも述べた通り、「新楽府」の真骨頂は君主論であることです。帝を喜ばせたい一心で始めた学びは、結果的に漢籍の勉強だけでなく、帝王学を施すことにもなっているところが興味深いところです。後年、彰子は、道長と政治的に対立することも厭わない意思の強さを見せ、弟頼通の時代では帝となった息子たちのため、女院として政治力を発揮し摂関政治を支えることになります。それができたのは、ここでの学びが基礎になっているのかもしれませんね。

 「新楽府」を読み、そこに政の理想を見たまひろは、さらなる探求心に胸を膨らませましたが、結果的にそれは挫折し、また彼女自身は自分の志に「新楽府」を生かすことはできませんでした。勿論、その学びは「物語」のなかで大きな意味を占めていますが、彼女が政を動かすということではありません。しかし、まひろを通して「新楽府」を学んだ彰子は違います。彼女は、その立場ゆえに政にその理想を直接生かしていくのです。

 つまり、あのときの学びをまひろは直接は使えませんでしたが、時を経て人を経て、まひろの学びが生かされます。彼女の学びは、無駄ではなかったのです。女性たちの連綿としたつながりが、思いをつなげ、政にもつながっていく。「光る君へ」を下支えする、女性たちのシスターフッド的なつながりの力は、ここにも窺えるのですね。

 因みに第29回で、倫子が、行成の書として献じた「新楽府」もこの一節でしたね。倫子は、ここに描かれた君主の徳をもって、彰子を慈しんで欲しいと直訴したのです。倫子が、娘のために献じた一節を、それと知らないまひろが、その一節を彰子の心を磨くものとして彼女に教える。時と場所を超えて、不思議な呼応があるというのは興味深いところ。倫子とまひろのつながりを考えると、これもささやかな女性たちのつながりの力かもしれません。

(2)宣孝との夫婦生活で得たもの
 さて、「新楽府」からの学びは政だけではありません。土御門殿へ里下がりしてからの講義で扱われたのは「太行路」のなかの夫婦の間柄についての記述「人心好悪苦不常 好生毛羽悪生瘡」(書き下し文:人心の好惡を苦(はなは)だ常ならず、好めば毛羽を生じ、惡(にく)めば瘡を生ず)です。まひろは「人の好き嫌いの心はとても変わりやすいもの。好きとなれば、羽根が生え飛ぶほどに持ち上げて大事にしますが、嫌いとなれば傷ばかり探し出します」と穏やかに淡々と訳します。

 この訳、夫婦生活や恋人関係をそれなりに長く続けている方々、あるいは恋人と別れた経験を持つ方の多くにとっては、あるあるの話でしみじみと納得されるのではないでしょうか。え?自分たちは倦怠期はなく、ずっと新婚当初から熱々のまま??それはそれは…羨ましいかぎりで…お見それいたしました。ごちそうさまです(平謝り←
 冗談はさておき、まひろの解説に彰子は驚き目を丸くし、聞き終えると不思議な間が空きます。彰子が言葉を咀嚼し、自分のなかへと落とし込もうとしているからですが、今、帝への恋心に萌える彰子にとって、その恋心が移ろうことが信じられないのでしょう。その純な心が不思議な間として表現されているのですね。

 やがて、彰子は「私も…間もなく帝に瑕を探されるのであろうか?」とポツリと不安を口にします。なかなか受け入れ難かったのは、愛しい人に嫌われたくないという乙女心です。この台詞がいじらしいのは、欠点だらけの自分が帝に嫌われる可能性は考えても、自分が帝の瑕を探す、嫌いになる可能性は微塵も考えていないところでしょう。彼女は光る君に帝を投影しているだけあり、結ばれたことで一層、輝いて見えていることが窺えます。いやはや、五十路の独身にとって、彰子のキラキラした乙女心は、これだけでお腹一杯です(笑)

 彰子のかわいらしい不安に、まひろはふっと微笑むと「瑕とは大切な宝なのでございますよ」と優しく諭します。意外な言葉「え?」となる彰子に「瑕こそ、人をその人足らしめるものにございますれば…」と続け、貴方は案ずることなく今のままでよいのですよ、と安心させます。

 ここでまひろが言う「瑕」とは、「新楽府」の「瘡」が示す性格や言動の欠点だけではなく、過去の失敗、あるいはトラウマといった人生の傷を含んだもう少し広いものだと思われます。何故なら、「瑕」についての一連の台詞は、かつてききょうに述べた「人には光もあれば影もあります。人とはそういう生き物なのです。そして複雑であればあるほど魅力があるのです」(第29回)というまひろの人間観が凝縮されていると思われるからです。

 おそらく、みち×まひ(さぶ×まひ)派の皆さんを始め、多くの方が、まひろの「瑕」について道長との悲恋の顛末、その末にたどり着いた距離感(第31回、第35回での二人の語らい)を想像されたように感じられます。それはそれで、そのとおりと思いますが、「新楽府」の「太行路」が夫婦の話であることから、この記事では、敢えて宣孝との夫婦関係を軸に考えてみたいと思います。

 そもそも、道長とまひろののつながりは、互いを変な奴と思う幼き日に始まり、直秀の死という失敗とトラウマという瑕が深めました。二人の恋愛は探すまでもなく、傷が前提、欠点をも愛おしむところ(傷の嘗め合いとも言えますが)から始まっています。
 人を好きになることが、その人の良いところも悪いところも含めてのことだとするなら、その点だけをみれば、まひろは初恋の時点で苦しいけれど恋愛の深いところまで体験したかもしれません。以前のnote記事で、まひろの道長への気持ちを「一生もの」と大袈裟に表現したのも、こうした面を指してのことです。まひろは道長とすれ違っても、あるいは拒絶したときですら嫌いになってはいません。

 しかし、そんな彼女にとって、宣孝との婚姻と夫婦生活は、道長との恋愛とではあり得ないことの連続でしたし、またその経緯もあって違和感と後ろめたさも抱いていたことは想像に難くありません。その違和感は、夫への不信感となり、よいところに見えていた宣孝の豪放磊落も自分勝手で無神経な浮気者と映るようになります。
 対する宣孝も同じようなもので、気に入っていたツンツンとした意地っ張りなまひろの気性が、単なる強情と癇癪持ちとして辟易。結果、二人の間は疎遠となりました。そう、瑕とはわざわざ探すまでもない。長所は短所、嫌いなれば長所は短所に見えるものなのです(苦笑)

 やがて夫婦の諍いは、やがてまひろが道長との子を宿すという致命的にも思える不実へとつながります。しかし、詳しくは割愛しますが、まひろは、その不実の果てのやり取りのなかで宣孝の本当の真心に触れ、救われます。その後、宣孝と不義の子、賢子と親子水入らず、夫婦水入らずの三人の生活という幸せを、まひろが短いながらも垣間見、味わいます。それは親子三人の月見(第29回)に象徴されていますね。

 この幸せが得られたのは、互いのさまざまな瑕を認め、受け入れ、それも人間、その人なのだと慈しんだ結果だからです。「思いと行いが裏腹なのは人間だから」とする宣孝の人生観は、短い夫婦生活、親子生活のなかで実感として染み入ったと思われます。だから、道長への助言として第31回に表れたのでしょう。何はともあれ、良いところばかり見つめ、愛ばかりを囁いたから幸せを実感したのではありません。

 このように考えると、「人には光もあれば影もあり(中略)複雑であればあるほど魅力があるのです」という言葉は、ききょうの心境や立場への配慮には欠けていたとしても、頭でっかちな上滑りの詭弁でないことは見えてくるでしょう。体験と地道な生活に根差した実感なのです。「だからこそ、まひろの言葉には説得力が自然と宿ります。「瑕こそ、人をその人足らしめるもの」との言葉に、ナイーブで孤独な彰子は自己肯定感に満たされます。その表情には納得と微笑が浮かびます。

 瑕は長所であり短所、それを慈しめばより気持ちが深まる。とすれば、それを知り合うこと、探してしまうことも不安だけではない。もしかしたら賢い彰子なら、そうした想像まで至ったかもしれません。何せ、彼女のなかには赤染衛門が仕込んだ和歌などの教養も畳み込まれています。それらがまひろの導きで、生きた知識としてつながり、開花していくこともあるように思われます。彰子の可能性は広がっています。

 そこへ彰子の妹弟たちが彰子に挨拶に訪れます。一番下の娘は道長に抱き抱えられての登場です。わざわざ道長が連れてきたところに道長の意図を感じざるを得ません。
 娘たちには入内し帝の寵愛を受けた姉の充実を見せることは、彼女たちに入内の良いイメージを付け、その憧れはハードルを低くさせるでしょう。また、息子には政とは何かを見せることになります。つまりは、挨拶の姿を借りた教育です。ここにも道長の変貌の兆しが見えますね。

 しかし、子どもたちは挨拶もそこそこに脇に控える知らない女性を不思議に思い「あの人誰?」「知らない」と不躾な言葉をかわします。中宮の御前で思い人に失礼な口をきく我が子に、すかさず道長は「これ」と嗜め、一寸、素に返ります。
 妹弟の無邪気さに笑顔を綻ばせた彰子は、くつろいだ様子で「こちらは藤式部。私の大切な御指南役ですよ」と賛辞を込めて紹介します。指南役ではなく御指南役、わずか一字の違いですが、ここに彰子のまひろへの経緯が見えますね。また「学問」の師と限定もしませんでした。帝王学から男女の心まで紐解くまひろは、彰子にとって人生の「御指南役」であると身内の前で明言されたのですね。

 こうしたまひろに対する絶大な信頼は、「物語」や漢籍という間接的な要素も取り払われます。出産間近のある日、彰子はお腹を見ながら「私も死ぬのであろうか…」と不安を口にします。訝る宰相の君に「亡き皇后さまも最後のお産で身罷られた…」と命懸けの出産に嘆息します。しかし女房たちは、彼女のマタニティブルーに気の利いた慰めが出来ません。

 結局は召し出されたまひろの出番。女房らはさがります。まひろは表情から彰子の気鬱を察し、「ご気分がお悪くていらっしゃいますか」と先に声がけします。彰子が「わからぬ」と答えるのは、体調不良ではなく気分の問題だからでしょう。マタニティブルーと見たまひろが、彼女を落ち着かせるため母、倫子を呼ぼうとしたのは適切な判断でしょう。倫子は6人も子を産んだ大ベテラン、愛娘のため心砕くでしょう。

 しかし、彰子は「母上に心配はかけたくはない」と、母を安心させたい、自立した自分でありたい孝行心から、これを断ると「そなたがおればよい」と弱音を吐きます。そう、この度の召し出しに用はありません。ただ、不安だから傍にいてほしいだけです。まひろには甘えてしまえます。
 意を汲んだまひろは「おそれながら、中宮さまのお気持ちよくわかります。私にも娘がおりますが、お産の前は不安でなりませんでした」と自分の体験から来る共感を語ります。「そなたもそうであったのか」との彰子の言葉には「藤式部先生すら不安なら私の不安も当たり前」という安堵が漂います。

 頷くまひろの「帝のお喜びになるお顔を思い浮かべてくださいませ。きっと不安は遠退きましょう」というアドバイスも体験によるものでしょう。不義の子を身籠ったまひろは、妊娠の不安だけではありませんでした。シラを通しきるか、離縁し一人で育てるか、悲壮な選択に自分を追い詰めていました。その心を救ったのは夫、宣孝の「共に育てよう」「それでよいではないか」というおおらかな真心です。産まれる子の実父、道長ではありません。

 ですから、まひろは出産の日を迎えるまで、この子を共に育てる「宣孝の喜ぶ顔」を支えたように思われます。勿論、産んだ我が子を見た瞬間には「あの人=道長」の子を生んでしまったという感慨が強かったでしょう。しかし、その感慨の一方で、不義の子を道長が喜ぶ想像は、当時のまひろには想像し難かったでしょう。現実面では宣孝の真心にすがるしかなく、それに応えようとしたのではないでしょうか。そのことは、宣孝が出張先から戻るまで名無しのままにしていたことからも察せられます。まひろの短い夫婦生活か、若き彰子の心を救っていく…すべては次代へつながっていくのでしょうね。

(3)土御門殿の居心地
 まひろにとって、彰子はかわいく、そして出来た教え子です。彼女の心を解いていくことは、日々、発見であり楽しみだと思われます。また自分の得たものを、彼女が望むままに注ぎ込む充実は、彼女に生きている意味を感じさせるでしょう。しかし、それは前章で見たとおり、周りの女房の嫉妬や反感と引き換えになっています。普段は局に籠り執筆に勤しむため、あまり女房らの視線を感じずに済むでしょう。
 しかし、どこか、後ろめたい思いをさせられながら、彼女は「物語」を書き続け、彰子の話し相手になっています。お務めの充実と女房らの評判が反比例しているというのが、今のまひろの現状です。

 彰子の土御門殿への里帰りは、まひろにとってはそんな藤壺での現状をそっくり土御門殿へ移すだけになります。彰子の里帰りは、倫子や子どもたちは勿論、祖母の穆子(86歳まで生きる彼女はまだまだ壮健)も表われ、一家総出で荘厳な出迎えとなりました。中宮の出産の誉れを受け入れる準備は万端整っています。
 彰子付女房の末席に座るまひろは、倫子の傍らに控える赤染衛門と目が合い、お互いに笑顔を覗かせます。まひろにとっては旧知の信頼できる人物に会えた安堵感、衛門の側は、彰子懐妊に寄与してくれたまひろへの労いと喜びが窺えますね。

 しかし、喜びも束の間、土御門殿邸内に用意された局へと倫子に案内されたときは、旧知の間柄でありながら神妙です。二人はかつての友人ですが、まひろが彰子付女房となった今、土御門殿の女主人、倫子とまひろの関係は、雇用主と雇い人のようなもの。立場が明らかに違ってしまいました。ですから、倫子は「夜もゆっくり休めるようにと殿のお言い付けで設えた。ここで存分に書いておくれ」と極めてビジネスライクに振る舞い、まひろもまた「ありがたいお計らいい、真に嬉しく存じます」と言葉を選んで答えています。

 一方でその目には、ここでも特別扱いされてしまう。それも藤壺以上に厚遇されることへの戸惑いの色があります。一つには女房らの妬みを買っている現状が助長されることへの不安があるでしょう。かと言って主の計らいを断る非礼もできませんから、過度な計らいと思いつつも恐縮するしかないと思われます。

 因みに「夜もゆっくり休めるように」という道長の命は、かつてまひろが夜も寝られず集中できないと里帰りを強行したことが反映されていますね(笑)あのとき、道長は彼女が戻ってくるか、「物語」を書き上げてくるか、悶々とした数か月を送っています。ですから、あのような思いは二度と御免、逃すまいという強い意思が感じられますね(苦笑)また「御産記」を書かせる腹づもりが既にあったかもしれません。

 倫子は「人見知りで口数も少なく、笑顔もお見せにならなかった中宮さまが帝のご寵愛を受け見違えるほど明るくなられた、藤式部の「物語」の力が帝の御心を変え、中宮さまを変えたのだと殿から聞いておる」と続けます。前半は、久々に会った娘の朗らかさを目の当たりにした驚きが窺えます。後半の道長のまひろげ口添えは事実ですが、まひろとしては彼らの気持ちの背中を押しただけのことです。過分な褒め方にさらに恐縮しきりです。

 そして、「母として私は何もしてやれなかったが…そなたが中宮さまを救ってくれた」と、目を伏しがちに自嘲の言葉を漏らす倫子に、まひろは目を丸くします。まひろにとって倫子は若い頃から「あのような人はいない」と尊敬する憧れの人でした。その彼女から弱気の言葉、そして「心からありがたく思っておる」と深々と一礼されては、「そのような…お方さま、勿体のうございます」と慌てるしかありません。
 倫子の自嘲も、まひろへの深い感謝も本心から出たものでしょう。ただ一方で、それは「どうかこれからも中宮さまを頼む」という続く言葉のための労いとして述べていることは留意すべきでしょう。つまり、今後も務めを果たし、愛娘を守り、導くようにという職務的期待の言葉です。相変わらず、土御門殿の女主人としてのパフォーマンスに長けた人です。やはり、ここの主は道長ではなく倫子であると思わせます。

 ただ、彼女に旧友への愛着がないわけではありません。今後も中宮を守ってほしい旨を伝えると、それまでのビジネスライクとは打って変わって破顔します。そして、口調をいささか和らげると「我が屋敷はそなたも若き日より慣れ親しんだところ。自分の家のように過ごしておくれ」と、ここではくつろいでほしいと心からの労いを口にしてニッコリとします。

 つまり、まひろに過ごしやすい局を用意したのは、道長の命や「物語」執筆という務めのためだけではなく、彼女の旧友への心遣いもそこにはあったということです。女主人としての立場を崩すことはできませんが、せめてものことはしてあげたいとの思ったのでしょうね。ですから、最後にこうして本音を少し覗かせたのです。勿論、このささやかな口調の変化も、まひろの心を動かす計算と取れなくはありませんが、ここは若き日のシスターフッドな友情を信じたいところです。

 まひろも倫子の心づくしには素直に感じ入るところがあるはずです。しかし、倫子が去った後のまひろの表情に浮かぶのは、喜びだけではない複雑なものです。先に述べた他の女房からに嫉妬と反感もあるでしょう。しかし、物憂いその様子は、道長の嫡妻から厚遇されることへの後ろめたさがどこかで感じているように思われます。

 まひろが出仕して後の道長とまひろの関係には、性的なものはなく、世間体的にやましいところはありません。ただし、精神的なつながりとなると話は別です。時折感じる心の通じ合い、気の置けない会話と距離感、二人にだけわかる褒美と道長への情はより深まっています。
 それは、肉体関係としての不義よりも罪深いもので、現在進行形であることを考えれば、旧友への裏切りとも言えます。そこまではっきりした自覚があるか否かはわかりませんが、どことなく居心地の悪いような、申し訳ないような気分が抜けないということはありそうです。

 しかし、そうしたどことなく後ろ暗い気持ちも、彰子の話し相手となり、漢籍の師となる充実のなかで薄れていったように思われます。ある日、何らかの務めで渡りを歩いていたまひろは、「見舞いの品を送っておけ」と部下に命じながら歩いてくる道長と、渡殿でばったり鉢合わせします。
 これは、第13回のラストシーンの思いがけない二人の出会いの再現、オマージュです。あのとき、二人は驚きの余り固まりました。まひろは主に道を譲り、道長は知らない者のごとくその前を通り過ぎていきました。去ったあと、まひろは道長の本心を思い、わずかに笑むのですが、出会いそのものは固い表情のまま過ぎました。

 しかし、今回は違います。道長は「お、お前か」とでも言いたげな表情でまひろをそれとはなく注視します。彼の視線が合ったまひろは、ささやかに微笑んだうえで、前回同様に道を譲ります。同じ屋根の下、なんとなく通い合ってしまったことを噛み締めるまひろは、その思いを秘めたまま去っていった道長を目で追ってしまいます。その様子には幸せすら感じさせます。
 まひろは土御門殿のなかで少し浮足立っているのかもしれません。道長の「御産記」の依頼といい、子どもたちへの彰子への挨拶といい、そこには道長の野心家への展望の兆しが見えますが、彼女は、道長に愛し、信じるがゆえに親心の面しか見えていないかもしれません。

(3)不穏の予兆
 まひろの充実と緩みの裏側で、まひろの足をすくうような事態も起こりつつあります。一つは、やっぱり左衛門の内侍の動向です。ある日、勤めの最中にあった彼女は、通りがかった赤染衛門を待ち構えていたようにつかまえると「衛門さま、このようなことでよろしいのでございましょうか」といきなり挑発的に問いかけます。「衛門さま」と言いながらも詰るような不躾な物言いには、内侍の溜まりかねた不満が窺えます。
 振り返る衛門に「悔しくはございませんの?あなた様は指南役の座を奪われ、私は中宮さまのお傍に仕える務めを奪われたのでございますよ」と、イライラを隠そうともせず、不公平と不満を煽ろうとします。

 しかし、不満を煽れる相手と衛門を甘く見た浅はかさ、自分の不満を他人の威を借りて解消しようという姑息さが丸見えの左衛門の内侍の挑発に、衛門は乗りません。意に介さないように「中宮さまが藤式部をお求めになれば致し方ないことです」と莞爾と笑い、取り合おうとせず、その場を去ろうとします。女性ばかりの世界である後宮において、同調圧力、嫉妬といったものは日常茶飯事。一々かかわるのは無駄ということでしょう。
 まして、衛門はまひろが若い頃から優秀であったことを知っています。同じ学才の徒としての仲間意識、頼みにするところはあっても嫉妬を抱く気持ちはありません。適材適所、なるようになるのです。

 乗って来ない衛門に苛立つ左衛門の内侍は、去ろうとする衛門を追い、「衛門さまは昔から藤式部をご存知なんですよね」と話題を転じて、食い下がろうとします。笑顔で肯定する衛門に「では、お聞きしますけれど、左大臣さまと藤式部はどういう間柄なんでございましょう?」と、とっておきの毒を吹き込みます。聞き捨てならない物言いに、思わず振り返った衛門に、内侍は思わせぶりに「ただの主従ではありませんわよねぇ…」と薄ら笑いを浮かべます。
 道長を倫子の理想的な殿方と信じ、まひろに信頼を寄せる衛門は、真顔で「あり得ませぬ」と即答しますが、薄笑いを浮かべたままの内侍が自信ありげなのは、そうした噂が既にあり、二人が仲良く月を見上げて話しているのを盗み見ているからです。そして、「藤壺でも左大臣さまは藤式部の局にしばしばしばしばお立ち寄りになるようになって毎度ひそひそひそひそと…」と呆れるように話します。「しばしば」と「ひそひそ」を繰り返し、二人にただならぬ関係があることを殊更強調するような物言いが嫌らしいですね。

 ただ、わざとらしい協調は、かえって左衛門の内侍のまひろを誹謗中傷したいだけのやっかみが透けて見えたのでしょう。まひろや道長への信頼を崩すには至らず、「大事なお話があったのでございましょう」と一笑に伏し、改めて「では」と言うとさっさと内侍を置いて行きます。どんなに言い募り、煽っても乗って来ない衛門の泰然自若にますます苛立ちを募らせる結果となった内侍は憤然として去っていきます。

 ただ、内侍からは見えませんが、カメラが真正面から捉えた赤染衛門の表情は、やや厳しいものになっていることは見逃せません。衛門は、この場では、左衛門の内侍の讒言を信じてはいないでしょう。しかし、宮中にそうした噂が立つこと自体が問題とは言えます。また、一度吹き込まれた疑念の毒というのは、じわじわと心を侵食するものです。事実か否か、確かめずにはいられなくなるものです。

 まして、衛門は先に述べたように、倫子に対する想いが強い人です。今、教育係として彰子に尽くしてきたことも、とどのつまりは、それが倫子のたっての願いであり、彼女のためになることだからです。衛門にとって、倫子を哀しませるような事態だけは避けたい。となれば、疑っていなくても、まひろと道長への観察の眼差しは自然と鋭いものになってしまうでしょう。そして、衛門のこの眼差しは、第36回終盤において、決定的な瞬間を捉えることになります。

 さて、まひろにとっての不穏の種のもう一つは、まひろの与り知らぬところ場所から始まります。彰子懐妊で内裏や貴族らが湧くなか、定子の次女、媄子内親王が9歳で亡くなりました。結果的に母の命を縮めることになってしまった次女がこれまた幼くして亡くなるとは因果なものです。何のために産まれてきたのか、そんなことすら思わせる人生が哀れです。それについて、清少納言(ききょう)が、伊周の元へわざわざお悔やみに来たのは、同じく落胆しているであろう伊周と哀しみを分かち合おうというところでしょうか。

 お悔やみの言葉を述べると、少納言は「私は、皇后さまほどお慕いし、お尽くし申し上げた方はございません。今も竹三条宮で修子内親王さまにお仕えしつつ、毎日、亡き皇后さまを思い出しております」と泣きそうになりながら近況を語ります。
 彼女の装いは、今なお鈍色です。9年近く経ってなお、彼女は定子の喪に服しています。つまり、少納言の時間は、定子が死んだあの日のまま止まっているのです。定子は少納言のすべてでしたから、その菩提を弔い、輝かしい過去の反芻だけを糧に生きることは、定子を永遠のものとするために不可欠なことであり、少納言にとって至極当然の使命なのです。

 今なお定子を思ってくれる少納言の思いは、伊周にとっても尊いものです。それだけに「秋には中宮にお子が生まれよう。何もかも左大臣の思いのままだ。帝の御心さえも…」と、帝の心変わりを詰り、道長への恨みを募らせます。少納言は「信じられません。皇后さま一筋の帝が何故…」と純粋にわからないと不思議そうにします。まあ、まひろが聞けば「人の心は移ろいやすいものです」との一言でしょうが、過去に強く囚われる少納言には、何故、それが変わっていくのかが理解できないのです。

 少納言の疑問に、伊周は「藤式部という女房が帝の御心を捉え奉る物語を書き、次第に帝のおみ足が藤壺に向かわれるようになったらしい…」と答えます。「藤式部…それはどういう女房でございますか」という少納言の問いは、そこまでの文才を持つとは何者かという純粋な興味からのもので、それを恨むような気持ちはなかったでしょう。当然湧いてくるだろう質問に、伊周も他意はなく「前の越前守の娘…と言ったかな…」と、記憶を手繰るように応えます。

 それがまひろのことであることは、すぐにわかります。少納言は、いや、ききょうは驚愕の余り目を見開き、口も声が出そうな感じで開きます。意外な反応に「いかがいたした?」と伊周は訝りますが、少納言は取り繕うように「あ…その方が…帝の御心惹き付け参らせる物語を書いたのでございますか?」と確認するのですが、その目には涙が滲んでいます。
 その感情が、単にまひろがそこまでのものを書いたかという衝撃だけなのか、それとも信じていた旧友に裏切られたというショックなのかは、まだわかりません。前者であれば、ジャンルは違えども純粋に文才を競うようなライバル心ということになります。そして、後者であれば根の深いものとなるでしょう。


 清少納言は、まひろの友ききょうとして、極めて個人的に「枕草子」を真っ先にまひろに読ませました(第29回)。そこには強い感謝の念もありました。定子の影を書くか書かないか、で意見を違える面はあったにせよ、まひろは「枕草子」に込められた思いを十二分に知っているはずです。定子の心を癒したかった願い、美しく煌びやかな様子だけを遺そうとする鎮魂の思い、道長へ一矢報いる復讐の念などです。にもかかわらず、その思いを塗り替えるようなものをまひろが書いたというのは、自分の気持ちを踏みにじるように感じられたかもしれません。
 しかも、「まひろさまも騙されてはなりませんよ。左大臣は恐ろしき人にございます」と十分に釘を刺し、その恐ろしさを諭しておいたのに、道長に協力するなど裏切られた気分になるのも致し方ありません。彼女は二人の関係を何も知りませんから。

 少納言の滲む涙を、伊周は自分と同じ無念と取ったようで「帝はそなたの「枕草子」を破れるほどにお読みになっておったのに…今はその者の「物語」を。いたくお好みだそうだ…」と残念そうに気遣います。しかし、伊周の気遣いは、もはや少納言の耳には入っていません。しばし息をするのも忘れたように呆然とした後、思い出したように「…は…」と息をつくと、「伊周さま、その物語を、私も読みとうございます」と願い出ます。

 その目は、挑戦的、挑発的なかつてのききょうのものであるのが興味深いですね。定子を失い、「枕草子」を奏上した時点で彼女の残りの人生は余生となるはずでした。しかし、まひろの「物語」の存在は、彼女の心に火をつけます。一体、何が書かれているのか、まずはそれを確認しなければなりません。そして、その出来も、その先にあるまひろの考えも…すべてはそれからです。皮肉な形で、清少納言(ききょう)に生きる力を与えてしまいました。二人の対峙は間近に迫っています。

 このようにまひろの仕事は「物語」執筆も、彰子の指南役も共に充実していますが、それゆえの反動の芽が育ち、彼女を危機に陥れるかもしれない…という状況になっています。


3.皇子誕生と野心家道長誕生の連動
(1)道長の心の闇を作ってしまったまひろという光
 その日は唐突にやってきました。彰子の出産、その慌ただしさがまひろの淡々とした独白でその様子が説明されていきますが、先の場面で依頼された彰子の産記「紫式部日記」によるところです。出産前から土御門殿では怪異があったとそうですし、彰子は30時間に及ぶ難産だったそう。当時、難産は物の怪の仕業とされましたので、物の怪を退散させるため今回のような大仰な儀式が執り行われます。まず12人の僧侶を集め、一人2時間の読経を持ち回りするという不断の御読経がなされました。

 さらに明け方からは、「五壇の御修法(ごだんのみずほう)」という五大明王(不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉)を祭壇に祀った祈祷も始まります。こちらは何十人もの祈祷僧が争うように「陀羅尼(だらに)」を唱えるもので、かなり騒々しいことが窺えます。
 しかし、多くの視聴者の印象に強く残ったのは、祈祷僧らが、中宮彰子に取り憑いている物の怪を憑人(よりまし)とされた女房らに借り移す様でしょう。真に取り憑いたのか、パニックと暗示でそう思い込まされているのか、はたまた芝居かはわかりません。

 ただ、本作の場合は、裏で伊周が全身全霊をかけて延々と彰子を呪詛している様子が描かれます。その姿は、鬼気迫るもの。祈祷僧らの読経との対決するように緊張は高まっていきます。
 一時は彼の呪詛が届き、彰子が苦しむような場面も挿入され、彼の怨嗟と物の怪が連動しているかに見える演出がなされてもいます。もしも「道長~!」と叫ぶ女房に取り憑いたのが真に怨霊であれば、道隆かもしれませんね。親子で道長の栄達を呪っているということになるのでしょうか。しかし、穏やかに貴子に看取られた本作の道隆(第17回)は、怨霊になる気はしませんが。


とにかく道長らを恨む絶叫が邸内に響き渡り、その荒れ具合には、斉信すら軽く恐れおののき、それらが伝播したかのように彰子付の女房たちも恐慌状態になります。物の怪が取り憑いている!…そんな集団心理が、邸内を支配するなかでも比較的冷静なのは、恐慌状態に対応した宮の宣旨、一心不乱に祈る衛門、この騒ぎを「うるさいこと」と一蹴しながら娘の彰子を励ます倫子、淡々と推移を見守る道長、そして薄目を開けてまわりを逐一観察しているまひろだけのようです…いや、祈祷に参加しようとやってきた道綱と顕光を案内した百舌彦も淡々と職務をこなしていましたね(笑)それぞれ、立場と役割がある人たちだけは、この恐慌の空気には飲まれていません。


 あまりに物々しく、騒々しく、荒れている土御門殿の様子に、意気地のない右大臣、顕光は、やってきた途端に気圧され、「これはちょっと…帰ろうか」と及び腰になります。一方、共に訪れた道綱は、驚き息を呑むものの、「私は…やります!」と決意し、座り込むと自らも一心不乱に読経を始めます。目に見えて恐ろしい難事を前に怯まず、かわいい弟とその娘のため「家族」として読経に加わる道綱の人柄が際立ちますね。彰子の御子が皇子でないと願う居貞親王にすら難色を示した彼の心根は真っ当です。
 その善性は、自らの現在の境遇を道長のせいと逆恨みし、しかも罪もない彰子を執念深く呪詛し続ける伊周の怨念との対比になっています。そして、さまざまな思惑があるとはいえ、土御門殿に集まった多くの人々の彰子の出産の無事を祈る気持ちは一つとなっていく、道綱の登場はそれを象徴していますね。


 さて、祈祷もクライマックスを迎えようとしています。道長は、彼を呪い叫び続ける怨霊(を下ろした憑人の女房)を哀れむように、申し訳なさげに見下ろすと、多くの人の心が一つになった祈祷の力を背景に、「どうか、お静まりくださいませ」と懇願します。

 彼は、長徳の変を経たあたりから、自分の政がどんなに志が高くても、その反動として恨みを買うことを体験的に知っており、それを受け入れる覚悟はしています。ですから、兼家であれば恐れおののいたであろう怨霊に対しても、申し訳なかったと詫びる謙虚さがあるのですね。
 勿論、そこには娘を巻き込まないでくれという親心もあったでしょう。ともあれ、道長の真摯な懇願がなされたとき、ギャー!という怨霊は叫び退散…直後、赤子の鳴き声が響き渡ります。


 その同刻、自邸で呪詛を続けていた伊周もそれが打ち砕かれたことを察し、呆然とします。彰子の30時間の難産の間、呪詛し続けた伊周の道長を恨む怨念は、相当に強いものです。しかし、所詮は彼一人の後ろ暗い行為、多くの人々の願いに守られている彰子が、これまで心を砕いて真摯に政を勧めた道長の声望が、その怨念を払い除けていくのは必然であったということになるでしょう。陰陽師、安倍晴明が末期の際に「呪詛も祈祷も人の心の有り様」(第32回)と言ったとおり。多くの人の未来に向けた願いが、過去ばかりに目を向けた怨念に勝った。そういうことなのでしょう。

 さて、無事の出産の直後、屋内では倫子の「皇子さまにございます!」という朗報が響きます。途端、天使の祝福をイメージしたかのようなBGMが流れ、その皇子が皆に祝福された、未来を約束された子であることが印象付けられます。後ろ盾なく、出家した中宮から生まれたゆえに周りの祝福を受けなかった敦康親王とは対照的ですね。
 倫子からの朗報を耳にした頼通は喜び勇んで飛び出し、その場にいる人々に皇子誕生を触れて回ります。俊賢も、道綱も、百舌彦も感動に打ち震えた顔になり、土御門殿全体が祝福ムードに支配されていきます…


 そんななか、人知れず後ろ暗い、そして確実な変化が道長の内面で起きます。道長は、その朗報に喜ぶでなく、安堵するでもなく、「皇子であったか…」とその事実の重さに呆然とします。その瞬間、真正面からクローズアップされた道長の顔は、その6割ほどが闇に染まったもの、光よりも影が強いコントラストの表情として映し出されます。

元より、政の頂に立ったそのときから、道長の言動は、民を思う公明正大な政の側面と、自身の権勢を維持するための冷徹な駆け引きという二面性を持たざるを得ませんでした。政治の持つ両義性、二律背反は宿命的なものです。これまでは、そのバランスを、道長の私利私欲に走らない無私の志という人間性によって保ってきました。勿論、そこには道長の孤独な葛藤があったわけですが、その苦悩が彼の政を善政足らしめ、周りを納得させてきたのです。ですから、もしも以前の彼をこの場面のように光と影のコントラストで示すなら、影が3割程度だったでしょう。

 しかし、皇子が生まれ、絶対的な権勢を目の前にした彼の心理のバランスは影が色濃く表れました。ようやく、自分の志す政ができる…その思いは、兼家や道隆が行った専横へと近づくものです。かつて、道長が光を手に入れたことについて、晴明は「これで中宮様も盤石でございます。いずれあなた様の家からは、帝も皇后も関白も出られましょう」(第32回)と太鼓判を押しました。あれはまさに予言とも言うべきものでした。今、晴明の言葉が正しかったことを実感しているのではないでしょうか。晴明にこれを告げられたとき、道長は自身の理想の高さ、直秀を失ったときの後悔、詮子の無念から、「幾度も言うたが、父の真似をする気はない」(第32回)と、自信をもって言い返したものです。

 しかし、その志の強さを聞いてもなお、晴明は、遺言として「光が強ければ闇も濃くなります。そのことだけはお忘れなく」(第32回)と言い残しました。note記事では、権力の虜になることなく、その行使に気を配りなさいという道長への忠告であると触れましたが、いざ、その力を目の前にしただけで、道長はその誘惑に抗しきれなくなっています。


 先に述べたとおり、既に彰子懐妊の時点で、道長が権力へ誘惑されている兆しはありました。敦康親王の後見を止めないと明言できず、彰子以外の娘たちの入内も念頭に置き始めて、まひろに「御産記」を依頼したこと…これらは、これまでの道長が考えもしないことだったはずです。それを平然と頭の隅に置くようになっていたのです。その揺れを権勢欲の側へとぐっと押し倒す決定打が、皇子誕生だったのです。彼の心が、確実に利己的な権勢欲を求める野心家の側へと傾く…それを象徴するのが、闇が強めの光と影のコントラストが聞いた表情なカットだと思われます。


 何も知らぬまひろは、素直に弟子たる彰子の出産を祝福し、誇らしい気持ちになり、また道長に対してもよかったですねと労わんとする笑顔を向けましたが、道長はそれでも「皇子…」と呟き、自分が手にしようとしている権力を人知れず噛み締めているようです。そう、今、教科書的な史実で皆がよく知る絶対権力者、藤原道長への道が開かれたのですね。

 皮肉にも彰子は、愛しい帝との間の子を産んだだけではなく、その子を利用する絶対権力者をも生んだのです。その彼は、彼女が慈しみ可愛がる敦康を蔑ろにしようと考え始めています。そして、もう少し穿った見方をするなら、彰子が帝と結ばれるよう導いたのはまひろです。まひろが野心家の道長を生んだとも言えるでしょう。つまり、「光が強ければ闇も濃くなります」との晴明の言葉を借りるなら、まひろという光があまりにも強く、道長の道を照らすだけでなく、道長のなかに権勢の渇望という心の闇を創り出してしまったのですね。


 さて、産屋にて初孫を見る倫子は「美しい皇子さまですこと…」と思わず、顔が綻んでしまいますが、皇子役の赤ちゃん、本当に整ったお顔のイケメンでしたね(笑)「お手柄ですわ」との母の褒め言葉に、赤子を見ながら幸せそうに微笑む彰子は「私の今日は藤式部の導きによるものです。礼を藤式部に」と分かち合うべき人を気にします。娘の健気に、目を細める倫子は「もう散々申しましたわよ」と笑います。彼女とて旧友を頼もしく、大事に思っているのです。
 ところで、かつて定子が子を産むたびに、清少納言とのシスターフッド的な心のつながりが強調されていましたが、まひろと彰子の師弟関係はその対比になっていますね。こうしたコントラストは、来週用意されている、まひろとききょうの対峙へと生かされていくのかもしれませんね。


 そして、その夜、まひろは満月を眺め、盃を一人傾けながら、「めずらしき 光さしそう盃は もちながらこそ 千代にめぐらめ」との和歌を詠みます。この和歌は「紫式部日記」に収められたものですが、皇子の誕生を寿ぐための和歌と指名されときのために用意していたものです。結局、その機会はなかったのですが。本作では、彰子の出産に感慨深く月を眺めるまひろの心に自然と浮かんだものとして描かれているようです。

 そこに丁度、表れた道長は、まひろを探してここに来たのでしょう。彼女が和歌を口にするのを耳にしながら、柱越しにその隣へとふわりと座ります。まるでそこが定位置かのように。まひろは、道長を一瞥しますが、それを受け入れています。そして、道長は、想い人の気持ちが知りたくて「その歌の心、聞かせてくれ」と聞きます。…って土御門殿がいくら広いとはいえ、倫子のいる住まいですから、二人、油断しすぎな気はしますね(苦笑)

 さて、まひろはその歌意を「中宮さまという月の光に皇子さまという新しい光が加わった盃は今宵の望月の素晴らしさそのままに、千代も巡り続けるでありましょう」と呟くように話します。ちなみに「さかずき」は「月」と、「持ち」は「望月」と掛けています。なかなかに技巧に凝ったものです。一通り説明したところで、まひろは振り返り、道長の反応を窺います。道長は、呆けたような顔をしていましたが、やがてしみじみと噛み締め、「よい歌だ…」と笑います。まさに今の自分の心を表したようなものだったのでしょう。

 ただ、「千代にめぐらめ」の解釈は、二人にズレがあるかもしれません。まひろは、彰子と子どもの幸せがいつまでも続きますようにとの願いを詠んだと思われます。しかし、権勢欲を露わにし始めた道長にとっては、彰子と皇子が開く我が「家」の権勢が長く続くことを夢見たものだったように思われます。


 道長は、まひろの和歌をいたく気に入ったようで「覚えておこう」と言います。それは、歌のみならず、まひろとこの幸せな夜に月を共に見たことだったかもしれません。しかし、望月の歌と言えば、この10年後、娘、威子が後一条帝の中宮へ立后されたときに詠んだことで有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」を、多くの人が思い浮かべたことになるでしょう。
 この作品では、まひろの和歌のオマージュとして詠まれるのでしょうが、その思いはどんなものとなるのか、果たして権勢欲の権化としてか、あるいはその欲から離れたものか、興味深いところです。

(2)皇子誕生の裏側で
 産後が落ち着いた頃、一条帝は産まれた我が子を見るため土御門殿へ行幸します。出迎えた彰子のイメチェンが印象的ですね。前髪が上げられ、表情が明るくなり、そしてお召し物は彼女の好きな青で誂えています。まひろの導き、そして出産を通して、彼女からは自信を持てるようになったのでしょう。好きなものは好きと恐れず、口にするようになったことが窺えます。
 その様子からは、可憐さではなく艶やかさが漂い、その笑顔と共に大人の女性としての魅力が溢れています。大輪の華が咲いたというところでしょうか。これまで周りには隠れていた彰子の内面、感情が表に出てくるようになれば、藤壺の女房たちとの関係も自ずと変わってくるでしょう。

 さて、土御門殿を訪れた帝は「朕に抱かせよ」と、早速、我が子を彰子から譲り受け、抱き抱えると、自然な笑みを浮かべます。その様に彰子は素直に喜び、一同も笑顔を浮かべます。彼らは知りませんが、視聴者は敦康が生まれたときの無邪気な喜びようとの落差を感じるはずです。そもそも、この行幸は、帝に彰子を労う気持ち、我が子の誕生を喜ぶ気持ちがあってのものですが、それ以上に左大臣への配慮という政治パフォーマンスの色合いがあります。

 また、敦康の誕生は、帝として後継者を成し、皇子を皇子をと望まれ続けたプレッシャーから解放されたました。そのほっとする気持ち、やってやったという満足もあったでしょう。しかし、今は違います。そんな浮わついた喜びはなく、あるのは今抱き抱えた我が子が、東宮の座を巡り敦康と争う関係にあるという事実です。帝の思いは定子の遺児、敦康に寄っていますが、生まれたばかりのこの子も大人の意向に左右されているだけ。それはかつての自分と同じ…となれば、赤子にも不憫に思う気持ちも湧くのではないでしょうか。
 この日、この子は親王宣旨を受け、敦成親王となります。我が子の行く末を思い、その不安定さと不憫さを覚える帝は、誕生を素直に喜べず、自然と喜びと憐憫と愛想の入り交じった薄く優しげな笑みにならざるを得ません。

 因みに、敦成親王誕生を喜べない者は道長の身内にも存在します。高松殿の明子女王です。皇子誕生の報告に来た兄の俊賢は、今や御嶽詣でにまで着いていく道長の忠臣に収まっています。ですから、「うむ、これで左大臣さまも磐石だ…フフ」とほくそ笑み、自身の安泰も噛み締め、素直に寿ぎます。
しかし、宙を見つめる明子(既に恐い)は「うちの寛子も必ず入内させまする」と自信満々に言い放ちます。それを聞いた俊賢が呆れたようにため息をつくのは、裳着も済ませていない幼子の行く末を決めつける気の早さに対してです。

 俊賢の苦言にも明子は「土御門には負けられませぬ」とピシャリ。そもそも、身分はこちらのが高いとの意識が高い明子女王は妾に甘んじていることに満足していませんでした。ですから、自身のプライドを満足させるため息子たちの教育にも余念がありませんでした。子どもたちの好きに任せるおおらかな土御門殿とは対照的に幼少期から漢籍を学ばせるもの。三人の息子たちは道長よりも明子の顔色を窺う有り様でした。

 そんな土御門殿への対抗意識が決定的になったのは、道長が高松殿で倒れ危篤になったときです。このとき、倫子は嫡妻と妾のけじめをつけはしたものの、明子を殊更、煽ることはしませんでした。
 しかし、第28回note記事で触れたように明子は倫子の嫡妻としての存在感に自ら怯む仕草をしてしまいました。プライドの高い明子にとってこれは屈辱です。それを打ち消すため、明子は高松殿への対抗意識をより膨らませることになったと思われます。その後、詮子の四十の賀で、我が子厳君が倫子の子、田鶴よりも舞を上手くこなすことに喜ぶなど、自分の子の優秀さをアピールするようになりますが、これも己のためです。

 子どもらより自分のプライドが先立つ妹を見た俊賢は、御嶽詣で道中、軽寺に泊まった際の道長との会話を思い出したでしょう。この夜、俊賢は頼通の聡明さを誉めちぎるついでに「明子のところの頼宗もなかなかのしっかり者に育っております。どうぞご安心くださいませ」と、それとなく甥の成長をアピールしました。
 道長は、頼通がいないのを確かめてから「明子はわたしの心をわかっておらん」と切り出し、「地位を上げることだけを幸せとする」、「頼通と頼宗を競い合わせようとする」という子どもの気持ちを無視し、価値観を押し付ける明子のプライドの高さに苦言を呈します。道長は土御門殿、高松殿の子どもたちの無益な争いは好みませんし、傍流の子らにはのびのびと育ってほしいのだろうと思います。政にかかわれば、心をすり減らすだけですから。

 こう言われては俊賢は恐縮するしかありません。彼自身も指摘され、あいつならやりかねんと思い当たるところもあり、最後には「ち…」と首振り、ため息をついたものです。改めてそれを思い出した俊賢は呆れたように「子らを政争の道具にするな、と左大臣さまも仰せになっておられるぞ」と、道長の言葉通りを伝えることで、釘を刺すのですが…

 明子は艶然と微笑むと「殿の言いなりにはなりません…フフ…ハハハ…」と高笑い。我が道をいくと宣言します。第30回で、明子の野心とプライドの高さにうんざりした道長は、夜半にもかかわらず高松殿を立ち去ります。道長を強く慕う明子は追いすがるのですが、道長はその手を冷たく剥がして去りました。明子はこのとき、強く見捨てられたと思ったのでしょう。惚れ抜いていただけにそれが反転すると、その気性の激しさは道長に仇なすことになると、以前のnoteで触れましたが、危惧したとおりになりそうです。
 俊賢が、何かを言いかけて止め、ガックリ肩を落とします。言って聞くような妹ではないからです。明子はこのまま無軌道に暴走するのでしょうか。波乱含みの展開が予感されますね。

(3)五十日の宴で起きた波紋
 11月1日、土御門殿で行われた皇子誕生五十日の宴(いかのいわい)は、祖父が赤子に餅を含ませるというもの。倫子が抱き抱えた敦成親王に道長が餅を含ませます。初孫への共同作業を終え、にこやかな顔を向ける倫子に彰子は朗らかな顔を返し、倫子と共に笑います。そんな母子を見た道長もまたいつになくにやけ顔です。ようやく訪れた土御門殿一家の春、解放感、そしてこれから訪れる未来の可能性に緩みっぱなしというところでしょう。

 気が大きくなった道長は、招待した公卿らに「無礼講ゆえ、皆々、心ゆくまで楽しんでくれ」と無礼講を許し、「いっ…くらでも酔ってくれ」と念押しする砕けた口調とニヤニヤした顔つきから察せられる浮かれぶりは、左大臣としての厳しさも威厳もありません。
 そして道長、直々の無礼講宣言に公卿らも羽目を外します。ここで描かれる公卿らの醜態は、「紫式部日記」の記述がベースになっています。まず比較的酔いが回っていない隆家は、女房を柱の辺りへ引き込み抱き抱え座り込みます。そのちゃっかりしたさまを見た道長は酒を片手に声を立てて笑います。

 「おなごはどこかな~」と、助平心丸出しの右大臣顕光は、酩酊状態のまま女房の顔を見ようと垂れ絹を引きちぎってひっくり返る有り様。馬中将の君や左衛門の内侍らの顰蹙を買います。飛んだセクハラ野郎ですが、娘を一条帝に入内させていた彼にとり、皇子誕生は自分の権勢の芽を摘まれたことでもあり、複雑な心境で宴に参加しています。酔わなきゃやってられないということですが、それでもこいつのアルハラと破廉恥は許してはいけませんね。
 そして実直な実資は…酔いが回りながは、女房の五衣の袖口の枚数を数え色を観察しています。実はこれ、セクハラではなく、女房たちが過度な重ねをせずに、贅沢禁止令を守っているかを確認する風紀チェック。こんなときまで職務に忠実なところはご苦労様です…なんですが酔い潰れかけて仕事にならなくなっています。大納言の君に「大納言さま、寒うございます」と嗜められるって冗談みたいなことになってしまいました。

 まあ、どちらにせよ、女房らには迷惑なものだったようです。実際の紫式部は、憧れの実資との会話を楽しんだとも言われますが、本作のまひろはトラブルを避け、几帳を立てた物陰で宰相の君と静かに過ごしていました。
 そこへ、これまた酩酊しかかった公任がふらりと現れ、まひろたちを見つけます。「紫式部日記」で有名な「あなかしこのわたりわかむらさきや侯」(意訳:恐れ入りますが、このあたりに若紫はいらっしゃいませんか)のくだりです。この酔った公任のからかいに、紫式部は「源氏に似るべき人も見え給はぬに、かの上は、まいていかでかものしたまはんと」(意訳:光源氏に似た人を見かけないので、紫の上などいるはずもないでしょう)と肘鉄食らわしたとされます。

 このやり取りが、「源氏物語」の存在が最初に確認された文献だと言われ、敦成親王五十日の宴の日、11月1日は「古典の日」になりました。公任の不用意な戯言が、記念日を生み、後世に「源氏物語」の存在をしめしたのです。しかし安易に人をからかうのは危険ですね。後世にまで恥ずかしいことが残ってしまいます。
 さて、「光る君へ」の公任は「紫式部日記」の彼よりもいささか慎みに欠けました。「このあたりに若紫はお出でかな」はともかく、酔った勢いで「若紫のような美しい姫はおらんな…ハハハ」と、あからさまに容姿を揶揄するハラスメントをつけ加えたのです。挑発されたまひろは、真顔ですくっと立つと、まなじりをあげ「ここには光る君のような殿御はおられませぬ、ゆえに若紫もおりませぬ」と意趣返しをします。お前たちこそくだらぬ男ばかりではないかと冷や水を浴びせたのです。

 意外な逆襲に面食らった公任は、酔いが回っていることもあり「あ…ああ…」と情けない反応しか返せず、しょんぼりした感じになってしまいますが、これはこれで貴重。しょぼしょぼな情けないイケメンもよいものです(そうじゃない←
 ここで遠巻きにこれを見ていたらしい道長が「藤式部!」と手招きし呼びつけます。まひろが酔っ払った公任に絡まれていたのを適当な頃合いで救い、また公任もこれ以上醜態を晒さずに済みましたからいいタイミングの介入です。酔いが回った様子がないことから、一人飲みながら周りの様子を観察していたのでしょう。

 しかし呼びつけた道長もまた、いつもと様子が違います。いきなり「なんぞ歌を詠め」と座興で場を盛り上げるよう命じます。衆目の前で急に道長に仕掛けられた戯れに、まひろは戸惑います。ただしあの「物語」の女房が祝いに添える余興としては、妥当なものです。
 おそらく道長の脳裏にはら皇子誕生の日のまひろの和歌があったでしょう。即興で詠めるならば、此度も大丈夫と見たのでしょう。ただ、まひろの才を皆に披露したいという欲があったとしたなら、やはり浮かれていたと思われます。

 まひろは焦りますが、御前の彰子の涼やかな様子を見ると腹が座ります。そして…「いかにいかが数へやるべき八千歳のあまり久しき君が御代をば(意訳:どのように今日の五十日の儀を数えましょう 八千歳も続く若君の御世を。いえ私達は生きて数えられません)」と、敦成親王の健やかな長寿を願って詠みます。
 「いかに」「いかが」 の二つが五十(いか)に掛け言葉、「あまり」が「八千歳余り」と「あまりにも長い」に掛け言葉。さらに言えば、「いかにいかが」で韻も踏んでいますね。さまざまな技巧が施された一首を即興で詠んだまひろの才覚に、周りからは感嘆の吐息が漏れます。

 静かに聞いていた倫子も満足げに笑います。「さすがはまひろさんね」というところでしょう。周りの好評にほっとしたまひろはようやく緊張を解きます。不評は、面白くない左衛門の内緒がイライラしながら「用意してあったのよ」と根拠のない中傷を馬中将の君に囁いているくらいです。
 すると座っていた道長がふらりと立ち上がり「さすがであるな」と誉めると、どっかと隣に座ります。まひろもギョッとしますが、倫子もまたまひろが見事の歌を詠んだのに何のつもりかと妙な顔つきになります。

 道長はおもむろに「あしたづの よはひしあらば 君が代の 千年の数も かぞへとりてむ(意訳:鶴のように、千年の寿命があったら、若宮の千年の歳も数え、お見届できるだろう)」と、まひろの和歌への返歌を読みます。
 まひろの敦成の長い御代を「どう数えようか」という問いに対し、「鶴のように千年の寿命があればよい」と答えている形になっていますから、一同はあっと驚き、まひろ先生の和歌に見事な返歌をした父に素直に感心した彰子は笑顔を綻ばせます。

 ただ、この和歌には「敦成の御代を見届ける=敦成の御代を作り支える」という決意が込められており、自覚せずとも彼の野心が垣間見えますね。それは敦康の後見をやめることになりますから、もしも彰子がそれを察したら父に不審を抱いたでしょう。
 もっとも、これを作ったときの敦成を支えるという気持ちは、祖父としての単純な意味だったようで、それよりもまひろに向けた「どうだ?俺もなかなかだろう」と言いたげな軽いドヤ顔には、想い人への浮わついた気持ちのが出ているように思われます(苦笑)

 「千歳」は、先のまひろの皇子誕生歌の返歌にもなり得ることからすると、あの和歌に対する返歌をそれこそ考えていたのかもしれません。その場合、まひろと皆の前で披露したかった可能性さえあります。しかし見事であればあるほどそれは阿吽の呼吸に見え、内外にまひろは私のものだと喧伝するようなものです。あるいは内心の想いが滲み出たということであれば、やはり緩みがあるでしょう。

 現に倫子は思案するような、夫の真意を探るような顔つきです。左衛門の内侍に二人の仲の怪しさを吹き込まれていた、赤染衛門は深刻な表情でまひろと道長を見ています。疑念は疑念ではなくなった…不味いことだという心境でしょう。また倫子が気づいたかもしれない、そんか危惧もあるでしょう。
 そして、馬中将の君の「阿吽の呼吸で歌を交わせるなんて…」という驚嘆は二人の仲に何かあると彼女に思わせたかもしれません。さらに言えば、馬中将の君は明子女王の姪、彼女が口を滑らせると、明子女王にまひろの存在を意識させることでしょう。

 道長の阿吽の呼吸の返歌を周囲がどう思うか…まひろにすれば、このことが問題です。彼への想いは秘めたるもの、過去は終わったことでなければ、「物語」を書く環境は失われてしまいます。どう答えたらよいのか、まひろは困った顔で黙っています。倫子が、こもまひろの困った様子を見たか否かはわかりません。ただ、何かを察した、何らかの思うところがあった倫子は急に席を立つと退席します。もしも、まひろの困った顔を見ていたのであれば、もっと明確に道長が彼女に向けた想いを察知したような気はします。

 ともあれ、倫子の退席はあまりに急なことで彰子は「母上?」と訝るほどでした。それだけに倫子の様子にようやく我に返ったのか、道長はまひろに一礼するとそそくさ立ち、その場を去ります。何も答えずに済んだまひろは、道長が不用意に起こした危機をすり抜けほっとします。まひろも、倫子や彰子を傷つけたくはありませんから。ただ、何故、道長がここまで抑えが効かなくなっているのかは理解できないでしょう。


おわりに
 彰子懐妊と皇子誕生は、道長を誰も犯すことができない絶対権力者へと押し上げるイベントでした。公明正大、公正さを旨とし、禁欲的に政を行ってきた道長にとって、その絶対的な権力は民を救う政のために有効活用されるはずでした。己が権勢欲を満足させ、我が「家」の反映をこの国の未来に優先させるためのものではない。父のようにならぬと誓っていた道長は、そのように考えていたと思われます。

 しかし、現実にやりたいことが、思うままにできる力が手に入るとなったとき、彼はそれを独占的に使い、維持することを考え始めます。この国の未来のため…という免罪符で。そして、皇子誕生の瞬間、彼のなかでそれまで眠っていた野心と権勢欲が目を覚まし、彼を闇に染めていくことが象徴的に語られました。

 興味深いのは、その野心は、これまで道長を禁欲的にしてきた彼のなかの強い自制心をも脅かそうとしているように見えることです。結果、五十日の宴では、酒の勢い、権力者の座につかんとする心の緩みから、まひろに対する独占欲、あるいはまひろと自分の関係を口外したくなるような気分にいつの間にか駆られています。タガが外れかけているというところでしょうか。彼は無意識のうちに、野心と権勢欲に翻弄され始めているのです。なんでもできてしまう権力の誘惑を理性で抑え込むことは難しいことなのでしょう。
 その結果、道長の想い人であるまひろは、本人のミスではないところで窮地に立たされそうな気配を見せています。

 今回の最後、なんとか五十日の宴を乗り切り、やれやれといった気分のまひろを赤染衛門が呼び止めます。衛門は厳しい顔のまま、しかし決して感情的になることなく、「藤式部、左大臣さまとあなたはどういうお仲なの?」とズバリ聞いてきます。
 衛門は、まひろの学才も心映えを認めていて、おそらく好感も抱いています。ですから、左衛門の内侍の中傷にも動じず、庇いましたし、道長との関係を問い質そうとする今も、詰問するのではなく、事実を確認し受け止めようとする理性を感じさせます。

 そもそも、あの返歌を聞き、二人の関係をただ疑ったのであれば、まずまひろに聞くということはせず、問答無用で実力行使に出たでしょう。また、冷静に見れば、あの歌の応答は、示し合わせていないことが窺えますし、まひろの側は戸惑うばかり。道長の側に原因があるのは、明らかでしょう。そうしたことも、賢明な衛門ならばわかっているかもしれません。
 ただ、彼女の優先順位として、まずは倫子を哀しませないこと、次に彰子に迷惑とならないことがあります。まひろへの好意とは別のこと。だから、厳しく接しますし、返答次第では彼女の出仕を止めねばなりません。

 衛門の真摯な問いにまひろがどう答えるのか。それはわかりません。賢子のことなど話せない内容はありますが、ある程度話してしまうほうがよい気もします。賢明にも出仕してからは、具体的な色事はありません。さすれば、入念に釘を刺される形になるかもしれません。女性同士の絆で乗りきれなくもないと思われます。
 因みに五十日に宴での倫子の退席は、「紫式部日記」と「栄華物語」の双方に書かれています。そして、二つの記述を引き比べ検討すると、歌の応答に対しての嫉妬が退席の原因ではなく、宴席での浅慮で偉そうな振る舞いに気分を損ねたことが原因だとされています。

 「光る君へ」での倫子の退席理由が、歌の応答に見える阿吽の呼吸への嫉妬心だった場合、「紫式部日記」と「栄華物語」はそれを隠したという解釈になります。ここで思うのは、赤染衛門が「栄花物語」の作者の一人だと言われていることです。もしかすると、今回のラストから次回につながる展開での二人の会話によって、新たな絆が生まれ、示し合わせて二つの記述が書かれることになるという解釈ができたら、興味深いですね。まあ、これは深読みのレベルの話で、当てる気はまったくありません。

 それにしても、まひろすら無自覚に危機に陥れてしまう、今の道長の野心や権勢欲は、今のままであれば、タガが外れ、政を野心の食い物にしかねません。そうなると、いつかはまひろ自身が道長と対峙するときが来るかもしれません。史実通り、道長と彰子の間に政治的緊張が生まれるのであれば、道長か彰子かを選択するときは来るかもしれません。
 とはいえ、まだ野心に目覚めたかのような光と闇のコントラストが強い道長の顔には光もまだあります。彼の権勢欲は、民を救う政という志のためにあるはずです。もし、その初心を忘れなければ…まだ救いの道はあるのです。あるいは、その闇を作ってしまった、まひろの光の当て方が変われば、彼もまた変わるかもしれません。まだ、物語は決まってはいません。

道長の人柄を信じ、最後には「何も恐れることはありません。思いのままにおやりなさいませ」と、この国の未来を託した晴明の期待に道長は答えられるでしょうか。また、まひろとの約束を叶えられるでしょうか。先はまだわかりませんが、しばらくは権力の誘惑に翻弄され、自制心を失いそうですが。





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