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「光る君へ」第34回 「目覚め」 人を癒す「物語」の力

はじめに

 物語の面白さとは何でしょうか。「面白さ」という言葉自体、かなり曖昧で大雑把、そして主観的なものですから、この問いの答えはかなりたくさんにはなりそうです。

 ただ、大きく分けると二つの観点はありそうです。
 一つは、論理性です。一貫性のない支離滅裂な作品は、たまにありますが、狙ってそうした作品でもない限り、疲れます。人は、わかりやすさをまず求めます。そして、もう一方で意外性も求めています。こうしたことを的確にバランスよく描くには、論理性が不可欠です。その論理性、技術的な巧緻の極みの一つがミステリー作品です。ミステリーにおいては、伏線の張り方、回収のさせ方、どんでん返しなど巧みな構成が不可欠です。ですから、ミステリーの面白さは、特に論理性が大切になってきます。


 一方、世の中には組み立てや表現技法は確かに上手いが、物語内容が心に響かないという作品があります。こうした作品でよくあるのが、登場人物の心情にまったく共感できないというものです。勿論、敢えて共感されない人物像を狙っている面白い作品も数多あるので一概には言えませんが、多くの人は物語の視点となる人物に寄り添って物語を読み進める傾向があります。

 例えば、「光る君へ」で言えば、まひろと道長に共感したり、もどかしく思ったりしながら見る人が多数派でしょう。ですから、こうした人物が多くの人が共感できる部分を持っていたりします。つまり、物語を面白くするもう一つの要素が、共感性ということになるでしょう。これを特に大切にしているジャンルの一つは、恋愛作品があげられるでしょう。恋愛作品が受ける理由の一つには、物語で起きた出来事や事件について、自身の経験を参照したり、自分事のように感じたりすることがあると思われます。

 当然、今あげた論理性と共感性、どちらに偏りすぎてもいいわけではありません。ミステリーでも共感性は大切ですし、恋愛作品も論理性を無視することはありません。要は、共感性と論理性の両輪を上手く回していくそのバランスが、各作品のオリジナリティになっていくのでしょう。それでは、まひろの書く「物語」は、そのあたりどうなっているのでしょうか。

 そこで今回は、「光る君へ」におけるまひろの「物語」の魅力はどう設定されているのかについて考えてみましょう。誤解してはいけないのは「源氏物語」の魅力についてではありません。あくまで、本作におけるまひろの「物語」の作中での扱いについてです。


1.興福寺の強訴のなかで

(1)志を曲げざるを得ない道長の苦悩

 興福寺別当が道長に脅しをかけたところが前回の引きでしたが、今回はその続きです。大和国で最大の荘園を持つ興福寺は事実上の国守ですが、それだけに本来の国司として新たに赴任した大和守源頼親とは、所領を巡って対立が起きていました。定澄たち興福寺側は、頼親を訴え、それを陣定に諮るよう、3000もの僧兵を引き連れ強訴に及んだのです。

 叶わねば「この屋敷を取り囲み、焼き払い奉ります」」という恫喝に対し、道長は「やってみよ、興福寺が乱暴の限りをしておることは大和守の訴状で承知しておったが…」と怯みもせず、静かに話し始めましたが、ここで声色を一気に変えると「これほどの暴挙は許しがたい!」と怒気を孕んだ物言いで突っぱねます。事情のいかんにかかわらず、武力をもって押し寄せるのは反乱に等しいからです。

 強気に出た道長に対して、定澄は溜息をつくように、やや口調を和らげ「乱暴を働いておるのは興福寺ではなく大和守源頼親と右馬充(うまのじょう)、当麻為頼(たいまのためより)でありまする」と、大和守の訴えは一方的で嘘であると訴えます。当麻為頼は、大和国の在地領主で、頼親の郎党でもある人物です。つまり、頼親主従が乱暴狼藉を先に働いたというのです。

後に開かれた陣定における道長の説明にも出てきますが、両者の争いのなか、まず興福寺の僧が一人殺され、その報復に当麻為頼の屋敷と田畑を焼き払う挙に出たのです。その件について、双方から訴えが出されました。朝廷は審議に諮り、興福寺側の暴挙に問題ありと判断、興福寺の筆頭の僧、蓮聖の公の法会参列を禁ずる裁きを下しました。しかし、その裁きを不服として再度、訴えたということになります。

 自分たちの暴挙を棚に上げ、相手の非だけを訴える定澄の弁を聞く道長の表情は厳しいままですが、それに構うことなく「彼らを訴える下文を朝廷に奉っておりますのに何故、ご審議くださいませぬのでしょうか」と、再度の訴えを受け付けもしない朝廷のやり方に異議を唱えます。公正を信条とする道長は「審議はする!」と即答しますが、交渉に長けた老僧は「明日、ご審議くださいませ、さもなくば…」と、再度の脅しを兼ね、早々の決裁を迫ります。しかし、「私を脅しても無駄である!」と、仕掛けられた駆け引きそのものをバッサリと断ち切り、話を終わらせます。

 長引きそうな駆け引きを一旦切った道長は「はあ~」と深い溜息をつくと、首をカクンと下に下げて、厳しい顔つきになっていた自分自身にリセットをかけると「本来、藤原氏とその氏寺が争うことなどあってはならぬ。御仏に仕える者として、そのほうはそれでよいと思うのか」と今度は穏やかに諭すように話します。
 道長の言葉ももっともですから、言葉に詰まる定澄。すかさず、道長派「僧どもを動かせば、そのほうが別当で居続けることは叶わぬ、興福寺そのものとてもただではすまんぞ」と逆に朝廷の権威を使って牽制し、定澄は渋い顔になります。


 ここまでの道長と定澄の駆け引きは、痛み分けに見えなくもありません。興福寺側の訴えを陣定にかけることにはなりますが、それは彼らの恫喝に乗ったからではなく、朝廷の公正さからという体面を保ったからです。また定澄が別当の立場にこだわっていることを看破して、そこを梃子に牽制もできました。道長としては、まずまずというのが実感だったと思われます。

 しかし、後日、陣定において、この件の話し合いを始めた頃合いを狙い、興福寺側は、定澄の腹心、慶理が先導して、僧たちと民衆、およそ2000人が朝堂院へと押し寄せます。視覚的、直接的な外圧によって、陣定で自分たちに有利な結論を出させようとする恫喝であるのは明白です。「な…」と驚いた道長が、すぐに「ちッ…」と舌打ちしたのは、昨日の定澄の狙いは訴えを陣定の俎上することができたらそれでよかったのだと気づいたからです。俎上に上げてしまえば、後はこうした圧力もかけられると算段していたのですね。即ち、前日の駆け引きは、完全に興福寺側の手の平に乗せられたということになります。

そもそも、武力をもって押し寄せてきた連中です。恫喝としての武威を最大限に生かさないわけがないの。しかも、前日、道長本人にはこれが効かないことが確認できました。しかし、内裏全体ならばどうでしょうか。全員が道長のように毅然としていないことは、道長自身もわかっているはずです。だからこそ、道長は、交渉を土御門殿で打ち切り、彼らが内裏に来ることを未然に防ぐ手に出たのです。「審議はする」という言葉は、彼らを内裏に来させない意味も含んでいたということでしょう。
 果たして彼らは朝堂院へ押し寄せました。彼らが狡猾なのは、僧侶だけでなく、民衆や信徒を巻き込むことで、この強訴が御仏の意思と民意であるとパフォーマンスをしてきたところでしょう。道長は、自分の目論見の甘さ、そして相手に自分の本意を見透かされたことに臍を噛んだというところでしょうか。

 事ここに至っては、帝に報告し、迅速な対応を協議せざるを得ません。帝は「何故、それを朕に告げなかったのだ!」と、自身がここまでになるまで蚊帳の外になっていたことに怒りを滲ませます。他意があったわけではないにせよ、政治は結果。道長は「只今、そのことを陣定で諮っておりました。お知らせが遅れましたこと、お許しくださいませ」と正規の手続きを取っての対処が裏目に出たことを説明しつつも「私の判断の誤りでございました」と、素直に謝罪します。
 昨今は、自分の非を決して認めない、認めたら負けだと思っている政治家や経営者がいますが、道長の爪の垢を煎じて飲ませたいものですね(笑)目の前の事態の早急な打開が求められるときこそ、自分の誤りを冷静に見て、それを認められないと次に進むことはできません。


 そして、この状況を危険と判断した道長は「無念ではありますが、検非違使を遣わし、僧どもを追い払うしかないものと存じます」と、武力をもっての解決しかないと進言します。前回、平維衡の伊勢守任官に反対したのは、武力を解決に手段にするような政ではあってはいけないという信念でした。それは単純な理想論ではなく、「今は寺や神社すらも武具を蓄え、武力で土地を取り合う世となりつつある」(第33回)という時代の流れ、現状をきちんと見据えた上で将来を憂うものでした。

 帝もその考えを理解し、伊勢守解任も了承しました。ですから、道長の進言に「そなたらしからぬ考えであるな」と、声をかけます。その声には揶揄などはなく、それでよいのかという確認を道長にするというものです。帝の言葉に道長を責める色はないのですが、問われた道長は既に無念と苦しさから、泣きそうにも見える悲壮な顔つきになっています。道長が武力に頼らない政の仕組みを準備する以前に、時代は彼の思う以上に進んでいたということです。武力を行使する決断をせざる得ない無念と無力感は、理想主義の彼だけに筆舌に尽くしがたいものがあるでしょう。

 しかし、自分の信念にこだわり、目の前の事態を打開できなければ、愚の骨頂です。「大内裏の門を押し通られては、朝廷が興福寺に屈したも同然。致し方ございません。検非違使を遣わす宣治を!」と、朝廷の権威を守り、政の安寧を図り、最小限の被害で事を収める進言をします。道長自身にとっては、多大な心労ですが、非常時にベターな判断ができる理想と現実とのバランス感覚が彼の政治家としての器量の一つと言えるでしょう。

 最終判断を委ねられた帝も本心では、武力を政の解決に使うべきではないという道長の理想には共感していました。だからこそ、彼もまら御簾の奥で、一瞬、目を瞑り無念の表情を浮かべ、そして絞り出すように「わかった、検非違使に追い払わせよ」と命じます。御簾の奥の帝の孤独感もまた相当でしょう。道長と一条帝は、政争においては緊張状態にあり、牽制し合う関係ですが、こういうときに政治的理念とその葛藤に苦しむ人間性については、似た者同士ですね。

 朝堂院に僧たちが大挙して押し寄せたことは、念のため藤壺にいた彰子を帝の在所、清涼殿へ移動させることになるなど大事になりました。しかし、道長と帝の迅速な判断、その意を受けた右大臣以下、公卿らや官僚たちの連絡、そして、実働部隊である検非違使らによって、これらは追い払われ、最悪の事態は免れました。おそらく興福寺側も都での武力の行使までは考えてはいなかった可能性はありますが、宗教的な高揚感にあてられた僧や民衆が暴挙に出ないとは限りません。ですから、治安目的の検非違使の出動という判断は大袈裟ではなく、妥当だったように思われます。

 因みに彰子の退避では、おろおろするやんごとなき身分たちの女房らのなかで、冷静に帝のいる清涼殿が一番安全と冷静に進言したまひろが存在感を出していました。少しずつ、藤壺内での位置も得ているのかもしれませんね。


 事は収まりましたが、それで終わりとはなりませんでした。改めて、興福寺別当、定澄が道長との面会を求めています。憤懣やるかたない道長は、彼を内裏にあげることは断固、拒否し、後日、土御門殿を来るように指示します。「この上…何を…」と呟く道長は、太い溜息をつくのみです。事態を収めたのは当たり前のことであり、そこに喜びなどありません。自身の見通しの甘さから、自分の信念を曲げざるを得なかったという自分の未熟だけが残るからです。

 しかし、その敗北感に浸る間もなく、定澄らと再度の駆け引きをしなければなりません。この場で定澄は、道長に申し文を提出すると「南都に引き上げるには、次のことをお約束くださいませ」と、この期に及んで、なおをも高圧的に要求を突きつけてきます。追い払われたとはいえ、自分たちの意思と力を朝廷に示したことはデモンストレーションとしては、それなりの効果を示せたからです。主導権は常に興福寺にあったと言ってよいのです。さて、定澄が提示したことは4つです。

1.興福寺の僧が当麻為頼邸を焼き払ったこと及び田畑を踏みにじったこと
 の再調査と再審議
2.大和守源頼親の解任
3、右馬充当麻為頼の解任
4.興福寺の筆頭僧侶、蓮聖が、公の法会の参列差し止めと免じる

道長はじっと聞いていましたが、定澄の口上が終わると「はあああ」とわざとらしく大きな溜息をつくと、呆れたように「いかなる理由があろうとも、屋敷を焼かれ、田畑を荒らされた方を罰するは理に叶わぬ。よって、一、二、三の申し入れは受け付けん」と、その大半を突っぱねます。問題外であるという態度です。
 「御堂関白記」によれば、これらに加え、道長が陣定で審議すると言ったにもかかわらず、それを待たずに朝堂院へ押し寄せたことも問題とされています。あくまで、武力をもって事をなそうとした点を拒否したということですね。本作の道長の信念ならば、なおのこと当然の判断でしょう。


 ただし、4つ目については「蓮聖のことを頼みたいなら…」という言い方をします。道長は、定澄の強気の4カ条の要求が、4つ目だけを通すための大袈裟なハッタリであることを見抜いたようです。ですから、お前たちの言い分はお見通しだとばかりに語気を強め「今一度、そのことだけの申し文を出せ!」と、元の申し文の受け取り自体を拒否します。くだらないブラフをするぐらいなら、最初から誠意のある態度を示せということでしょう。そして「以上である。速やかに南都に戻り、御仏の道に生きるがよい」と、今度こそ話を完全に打ち切り、二度と来るなと釘を刺して、道長はその場を立ち去ります。

 しかし、煽り気味のカメラでアップに捉えられた定澄の顔は、ほくそ笑むような表情になります。アングルもあり、その笑顔は傲岸、してやったり、というものです。帰りがけ、定澄は、慶理と「良かった…一つだけでも我らの望みが通ったならば上出来だ」と笑い合います。ここからわかるのは、定澄からすれば、一つも要求が通らない可能性も想定していたということです。つまり、興福寺側も捨て身の手段に出るしかないほど、余裕がなかったのです。

 道長は、彼らの要求の大半を突っぱね、一つだけ考慮する形で結果としては朝廷優位に見えるような形で事を収めました。彼らの本音が「蓮聖だけ」と看破したあたりもさすがの判断と言えます。しかし、定澄らが全敗覚悟で来たことを考えると、この大博打は道長の完敗です。それどころか、強訴をすれば要求が通るという悪しき先例を作ってしまったとも言えるのです。


 対する道長は、自室に戻ると疲れ果てたのでしょう。太く深い溜息を繰り返し、座り込むとこの度の出来事とその顛末に物憂い表情になると、一人で苦悩を深めていきます。道長が「二度と都に来るな」と定澄に釘を刺したのは、寺社とのこうした争いは今後もあるだろうと危惧したからです。しかも、今回同様の強訴の形態を取る可能性は高い。となると、先ほどの決断も正しかったかは、彼も疑うところでしょう。

 こうなると今回、曲げることになってしまった武力を解決の手段にしない政という信念は、今後も脅かされます。今回は消極的防衛で済み、仕方ないとは言えますが、今後もそれで済ませられるかはわかりません。また朝廷と寺社が揉めるさまを民の前で見せてしまったことは、政情不安を露わにしたようなものです。この件は、見通しの甘さ、無力、失点の現実として、道長の苦悩を深めそうです。


(2)帝と彰子についての、まひろの見立て

 ところで、興福寺の強訴の騒動で、彰子は、清涼殿の帝のもとへ退避しました。緊張した面持ちで道長から事態を聞き、宣治を下した帝ですが、傍らの彰子には「中宮大夫は大袈裟すぎる。そのように案じることはない」と不安を微塵も見せません。ここで、そんな二人の様子を別間から何となく見るまひろのカットが入ります。二人の関係性を彼女がどう見ているのか、ということが、この後のポイントになるからです。

 続けて「今、左大臣が陣頭に立っておるゆえ間も無く事は収まるであろう」と彰子を見やる帝の眼差しには、不安げな彰子への気遣いが窺えます。それでも彰子は顔を下に俯いたままです。あの大火の逃避行以前であれば、帝の言葉は、彰子から目を逸らしたまま通り一辺倒で、彰子の態度に呆れて終わったでしょう。しかし、あの日、彼女の真心に気づいてしまった今の帝には、いつものその態度も事態に怯える若き女性に見えています。

 「彰子、そなたも己が父を信じよ」と励ましながら、未だ俯く彰子を覗き込むようにすると「顔をあげよ。そなたは朕の中宮である」と諭します。かつて帝は、彰子の立后について「朕にとって愛しきおなごは定子だけである。されど、彰子を形の上で后にしてやってよいやもしれぬ」(第28回)と言いましたが、これは「彰子は后ではない」という意味です。ですから、公の場以外で彼女を中宮として遇することはなかったでしょう。その彼が、励まし諭すためとはいえ、「そなたは朕の中宮である」と認める発言をした。ここにも帝の彰子に対する心境の変化が察せられるでしょう。

ここで、そんな彼を微笑ましく横目で眺めるまひろのカットが入ることで、彼女が帝の心持ちを確認したことも窺えます。

 帝は重ねて、「こういう時こそ胸を張っておらねばならぬ」と中宮の心構えを説き、不安を取り払おうとします。感情に迫らず、理を説く、この距離感のが上手くやり取りが帝自身がどこまで彰子へ届く、そんな配慮があるかもしれません。帝が彼女への思いにどこまで自覚的かはわかりませんが、少なくともお飾りの中宮とは思わなくなっているのは確かでしょう。

そんな帝の心遣いに頑張って、顔を上げて帝の顔を見る彰子が健気ですね。しかし、帝と目が合った途端、恐れ多いからか、気恥ずかしさからか、目を逸らすようにまた伏せてしまいます。彰子もまた帝を意識していると察せられます。その彰子を見る帝の眼差しに非難の色はなく、気遣わしげです。

 さて、その後、定澄との駆け引きが終わり、どっと疲れた道長。おそらくは自然とまひろが「物語」を執筆する局へと足が向きます。局の前で突っ立っている道長に気づいたまひろは、すぐさま道長のやつれ具合に気づき「お疲れでいらっしゃいますね」と労ります。すぐさま「大したことはない」と答える道長に「ご無礼いたしました」と答えるまひろは、彼が強がりでそれを言っていることも、そうしなければならない立場であることも察して引き下がったのでしょう。ただ、疲れた顔を思わず見せてしまうほど、道長は、まひろの前では素顔が出てしまうのかもしれません。

 ここに足が向いたのは、政にかかわる道長のもう一つの気掛かりです。「帝と中宮さまはいかにおわす?」、このことです。まひろに寄れば、お渡り自体はあるものの、それは敦康親王に会うためと「物語」の話をするためとのこと。「物語」が、お渡りのきっかけを作り、帝の心の変化を促してはいるものの、未だに中宮彰子の手も触れてはないのです。
 先の清涼殿でのやり取りに見られるように、帝と彰子の間は以前ほど疎遠なものではありません。ただ、帝にとって、頼りなくおとなしい彰子は、見た目こそ成人女性であっても、未だ子どもに見えている面もあるでしょう。入内したときの彰子は12歳でしたから、その印象が強いとも思われます。


 まひろから聞く二人の様子に「お前、何とかならぬか」と口にした道長の意図は、まひろの口から帝に彰子との関係を何とかするように申し上げてはくれぬかという無茶ぶりです。前回の対面での帝の口ぶりを見れば、帝は「物語」は勿論のこと、まひろ自身に対しても好意的です。しかも、まひろと話すためにお渡りがあるのですから、その親密さにすがりたくなったようです。とはいえ、一女房に過ぎたことを言わせるのは無理筋です。

 それでも、そう言わざるを得ない道長の心情は「このままでは不憫すぎる」という思いつめた表情にも表れています。ここには、父としての情だけでなく、生贄に捧げた娘への罪の意識が強く出るからでしょう。武力を解決の手段にせず、道理と徳をもって政をなしたいという道長の志は、興福寺の強訴では脆くも崩れ、検非違使の力を使わざるを得ない状況になってしまいました。
 興福寺対応での自身の判断ミス、帝との緊張関係、公卿らとの静かな軋轢、居貞親王や伊周の野心…道長の政は内憂外患に悩まされています。政治の安寧のために娘を犠牲にしたはずが、何もできていないのです。せめて、娘には懐妊によって立場の安定と幸せをつかんでほしいと思うのでしょう。無論、それが自身の政の安定の起死回生であることも道長は、自覚しているはずです。彼の言葉は、親としての申し訳なさと政治的な冷徹さの二重性が表裏をなしています。


 道長の思いつめた言葉に、まひろは努めて冷静に「恐れながら、中宮さまのお心が帝にお開きにならないと前に進まぬと存じます」と答えます。まひろの力で帝を動かしてほしいという道長の言葉に対して、まひろは目下の問題は彰子の言動であるというのですね。まひろの言葉がなかなか慧眼であるのは、二人の関係性を「互いに意識しているが、きっかけがなく膠着している」と看破した上での発言だということです。

 やはり、前の清涼殿のシーンでのまひろの眼差しは、二人の状況を静かに観察するものだったのでしょう。先に述べたように、帝は彰子を大切に思い始めています。しかし、扱いあぐねているのは彰子が、自分の言動をどう感じているのかわかりにくいこと、そして、まだ子どもだと感じていることが大きいでしょう。
 一方の彰子が、帝に対してときめいていることは、「物語」を読みたいと言い出した強い意思からも察せられます。ただ、帝の顔をまともに見られない…それはかつての無関心ではなく、意識し過ぎているからだと思われますが、その違いは、まひろのように注意深く見ていないとわかりにくい。つまり、彰子の心底が伝わりにくいことが、二人の障りになっているのですね。だから、彰子が帝へ想いを打ち明けることが肝要と、まひろは説いたのでしょう。

 彰子次第というまひろの言葉に、道長は「それには……どうすればよいのだ!」とすぐに答えを求め、勢い余ってまひろの文机を強くつかんでしまいます。彼らしからぬ様子とガタッという音に驚くまひろは、最初に見立てた以上に追い詰められた心境であることに気づいたでしょう。一瞬、真顔になるものの「どうかお焦りになりませんように…」と気遣います。しかし、道長の気持ちは容易に収まらず「皇后定子さまが身罷られてもう六年だぞ…焦らずにはおれぬ」と本音を吐露します。他では「ふうぅぅぅ」とため息をするだけに押し留めていた感情を、まひろの前だけでは表せます。

 まひろは、そんな道長に怒ることも、煽ることもせず「力は尽くしておりますゆえ」と言外に「もう少しお待ちください」と穏やかに諭します。自身の感情を受け止めて、真摯に答えるまひろの言葉に、道長は「ふ…」と息を漏らすと表情を緩めます。そう、自分は彼女を信じたのだから待つしかないじゃないか、と初心を思い出したのかもしれませんね。
 まひろに少し、心を救われた彼は「お前が頼みだ、どうか頼む」と改めて、深々と礼をします。前回、藤壺に無理矢理引き留めようとしたことからも察せられますが、結局、道長の心を救うのは、まひろの存在そのものなのでしょうね。今後はわかりませんが、今のところは、たぶん「物語」は、道長を救わないようです。というのも、彼はあの「物語」を読んでも、それを通してまひろそのものを見てしまうように思われます。重すぎると言えば重すぎますね(笑)

 ただ、まひろは、道長の一礼に戸惑った表情をします。というのも、自分の職場である局で左大臣に頭を下げさせてしまったからです。私的な場では昔からのことですから構いませんが、会話が半ば謀議とはいえ、ここは公務の場です。自身の公私混同に気づいた道長は、「あ…」と苦笑いすると空々しく「邪魔をした」とそそくさと立ち上がり、その場を去ろうとします。

 去り際に思い出したように「弟がおったな、何をしておる?」と聞いたのは、まひろへの申し訳なさと、その場を取り繕うことの両方があったからでしょう。彰子と帝の件で、まひろを手助けすることも叶わぬ自分にしてやれるのは、弟を多少取り立ててやることぐらいだからです。「任官するまで大層時がかかりまして、今はようやく中務省にて内記として働いております。左大臣さまにもお目にかかったことがあると申しておりました」と、出来が悪いけれど、道長の役に立てると頑張っていると答えたまひろの側も、道長のそうした意図は察したでしょう…って結局、公私混同な気もしますが、一応対価となりますか(苦笑)


 後日、帝は3名欠けていた蔵人の任官について「朕は伊周の嫡男、従五位下の道雅を入れたいと思う」と推挙します。道長は従いますが、伊周の強引な取り立てについては公卿らの反発を買った経緯もあるため、「亡き関白の孫ゆえ誰も異は唱えまい」と先例に煩い彼らに対する理屈も添えます。この推挙理由は「御堂関白記」に記されていますが、敦康親王の後ろ盾としての中関白家の立場を補強するといったところでしょう。政の中核である陣定へ伊周召し出した件ほどには、道長への牽制の意図はないでしょう。

 ですから、道長も首肯し「道雅はまだ16歳でございますゆえ、六位の蔵人に年長の者を入れるのが宜しかろうと存じます」と代わりに自分の意向を通すよう、その理を唱えると、「只今、中務省で内記を務めております藤原惟規も入れてはいかがでしょうか」と提案し、帝からの裁可を得ます。たぶん、帝は維規がまひろの弟とはまったく気づいていないでしょうね(笑)帝の意に乗ることで、自分の意をねじ込んだというわけです。
 因みにこのとき、惟規と共に六位蔵人となったのは藤原広政ですが、「御堂関白記」によれば、当時、蔵人所に務める蔵人もそれを補佐する者も総じて若かったためとあります。縁故採用とはいえ、適材適所も頭にあったということになるでしょう。


 この人事こそは当人ら以外には悟られてはいないでしょうが、まひろを頼みとする道長の様子は「左大臣さまと藤式部、足を揉むのかとも思いませんけれど」と、口さがない女房らの噂になってしまっています。現在のまひろと道長には、艶めいた関係はなく、専ら、帝と中宮をつなぐ「物語」の執筆という仕事の会話しかしていません。昼間だけにやましい面もありません。

 それでも「お親しそう…(笑)」と言われてしまうのは、それほどに道長は足しげく通っているのでしょう。道長は、まひろを心理的に頼みにしていますし、そのため仕事をまひろに会いにいく口実にしている面もありそうです。ですから、女房らが「ひたひたしている」という邪推はあながち間違いではありません。「ひそひそでしょ、ひたひたよ(笑)」と、敢えて強調されていますが、彼らの話は謀議ですから「ひそひそ」ですが、その会話の根底にあるまひろと道長の心のやり取り、長年の信頼関係は、それに留まらないものがあります。
 女房らがそれを知る由はありませんが、その関係の湿っぽさを感じ取っているのでしょう。まあ、実際は「ひたひた」どころか、一時は「ずぶずぶ」にも「どっぷり」にもなった上で、「ひたひた」というソウルメイトになったのですけど。ただ、この噂が何らかの形で倫子の耳に入らないか…これだけは心配ですね(苦笑)


2. まひろのカウンセリング

(1)「物語」に対する彰子の疑問

 ある日、道長の推挙で蔵人になった惟規が、挨拶にやってきます。父のお下がりの直衣を見せる惟規に「よく似合うわ」とからかい半分、身贔屓半分のまひろのニンマリとした笑顔に、まひろの祝福する気持ちがよく表れていますね。かつて、不出来な弟が擬文章生になったときには複雑な思いを抱いたまひろですが、今はそうした気持ちはありません。為時の「おなごでよかった」と藤壺での充実した日々が、まひろに一種の余裕を持たせているのでしょう。

 照れ隠しに「ちょっとかび臭いけどね」と軽口を叩く惟規に「いとが大切に取っておいてくれたのよ」と釘を刺すのは、いつもの姉弟ですが、無遠慮に「案外狭いところだなぁ」と言い出したときは、ぎょっと顔をして「しーっ」と弟の口を封じます。惟規、姉想いのいい奴ですけど、この呑気でお調子者な性格で失敗しそうです(苦笑)

 相変わらずの呑気さに「蔵人になれたのは左大臣様のおかげよ、お顔を潰さないでね」というのは老婆心と道長への感謝が入り混じっているからですが、「わかってるって」という惟規の言葉はいつもどおり生返事です。お小言は慣れ切っていますからね。ですから、「さっきの女房、悪くないなぁ」と、道綱を局へ案内した宰相の君への関心へとすぐに話題が移ります。弟のこうした性格はよくわかっていますから、「大納言道綱さまの姫さまよ」と身分の高さだけを伝えます。

 「六位の蔵人じゃ相手にされないか」と諦めた顔をする弟に「そうね…」と言いかけたまひろですが、すぐに「でもわからないわよ、惟規には身分の壁を超えてほしいもの」と意外なことを言い出します。姉から褒められることがあまりなかったであろう惟規は「何それ?」と乗り出します。するとまひろは「私の夢よ」と朗らかに笑います。

 前回、帝への拝謁の折に帝が口にしましたが、かつて、まひろは帝に「私には夢がございます。(中略)全ての人が身分の壁を越える機会がある国は素晴らしいと存じます。我が国もそのような仕組みが整えばといつも夢見ておりました」(第19回)と言上したことがあります。彼女の教養の高さに感心した帝は、当時をして「あの者が男であったら、登用してみたいと思った」(第19回)と言わしめました。ただ、それは女性である彼女は、もしも身分を超える制度があっても、その恩恵を被ることができないことを意味しています。それでも彼女は、その仕組みに憧れ、宋のことを知りたいと越前へと為時に付いていきました。

 結局、その夢はさまざまなことで破れますが、ただその学びと思いが今の「物語」執筆、そして彼女の人生の意味となっています。ですから、自分が実現できずとも、周りや後世に紡がれ、誰かが叶えてくれればよいのです。蔵人に抜擢された弟は、その彼女の夢を叶えるきっかけを得たのかもしれません。だから、励ましを込めて、まひろは「私の夢」を語ったのです。


 聞いた惟規は、それをバカにすることはなく「すごい夢、託されちゃったなぁ…」と笑います。彼が素直にこれを受けたのは理由があります。「実はさ…」と言いかけると、まひろ「え、誰かいるの?」と驚きます。散々、この作品では書かれましたが、婿入り婚である平安期において、出世の近道は家柄のよい女性の元へと婿入りすることです。だから、まひろはそんな良縁があるの?と聞くわけです。そこそこ、女性と遊んでいるらしい弟ですから、そういうこともあるかと納得する部分もあるかもしれません。


 すると、「神の斎垣を越えるかも、俺」と意味深なことを言います。斎垣とは、神社など神聖な場所。相手は、そういうところへ仕える女性であることが仄めかされます。予告編で中将の君が「惟規さま~」と叫んでいましたので、これは間違いなく、惟規の恋人だったという斎院中将(中将の君)でしょう。彼女は、村上帝の第10皇女にして加茂神社の斎院となった選子内親王の女房です。
 彼女とどんな恋愛沙汰があったのか、それは次回描かれるようですから、ここは伏せておきましょう。因みに彼女の手紙の内容に紫式部が腹を立てるという一件(惟規は直接には関係ありません)もあるのですが、それが描かれるかどうか。

 さて、まひろとしては続きを聞きたいところでしたが、ここに「中宮さまのお越しにございます」との声がかかります。「え?」と姉弟が顔を見合わすのは、一女房の職場へ直々にお出ましになるのは異例だからです。惟規は早々に退散、まひろは「お呼びくだされば参りましたのに…」と慌てて出迎えます。

 「藤式部の局が見たいと仰せになって」と説明する左衛門の内侍ですが、彰子に「そなたはよい」ときっぱり言われたことには驚きを隠せません。彰子が強い意思を示すことも珍しいですが、しかも自分を追い返そうとしているとなれば、左衛門の内侍には何を言われているのか、一瞬わからなかったろうと思われます。まごまごしている左衛門の内侍に彰子は「下がれ!」と改めて厳命します。まひろと二人きりで話したいという意思表示ですが、すごすごと引き下がった左衛門の内侍は、身分の低いまひろを自分より優先したことは、内心面白くないかもしれません。

 まひろの局に二人きりとなった彰子は、「そなたの物語だが、面白さがわからぬ」と単刀直入に感想を述べます。遠慮のない物言いに、彼女の率直さが表れていますが、書き手としては結構、グサリと突き刺さる痛い一言ですね(苦笑)彰子の言葉に虚を突かれたまひろは「さようでございますか…」と何とも言えない顔をしていますね。しかし、彰子の面白さがわからない理由が「男たちの言っていることがわらかぬ」「光る君が何をしたいのかもわからぬ」であるとわかれば、「は…はあぁ」と納得せざるを得ません。

 翻訳にせよ、大和和紀「あさきゆめみし」にせよ、何らかの形で「源氏物語」に触れたことがある方であれば、おわかりでしょう。「源氏物語」は、どんなに無難な言葉を選んでも、性的な描写について赤裸々過ぎるとしか言えません(苦笑)戦前までは、軍国主義な傾向に合わないこともあって、「源氏物語」を卑猥な悪書とする傾向がありました。「若紫」と「末摘花」が、小学校の教科書に掲載されたときは、不敬罪、その恋愛観など騒動になったものです。また、戦後、「源氏物語」ブームを牽引した谷崎潤一郎訳も戦前に出たバージョンでは危ない箇所は削除されています(発禁を恐れたためと言われます)。

 現在こそ、学ぶことが必須の古典として高校の教科書には必ず載っていて、授業で扱いますが、それでも一番、心情に切り込む面白そうなところは扱われませんし、「桐壺」冒頭のヤバい描写の部分は、かなりマイルドな訳で何だかよくわからないものになっています。まあ、私が昔、生徒に教えたときは、明け透けに全部話してしまいましたが…そのほうが面白いので(笑←


 話が逸れました。とにかく、男女の睦み合い、男たちの明け透けな女性評が描かれた「雨夜の品定め」など、まひろの書いた「物語」を箱入り娘として大切に育てられた彰子が読んだところで、下品と思うことも嫌悪感もなく、それ以前の問題でしょう。気の毒に、終始、「????」という疑問符しか浮かばなかったでしょう。一応、入内前に赤染衛門から閨房の技を一通り伝授されていますが、カクカクと壊れた玩具のように衛門の真似をしていた彰子はあれがなんだかまったくわかっていないと思われます。

 当然、理想の女性を求め、奔放な恋愛遍歴を重ねていく光源氏の言動など、さらに理解不能になるでしょうね。私も中学生で初めて読んだときは「なんだ、この下半身だけで生きている男は」と思いましたから。ですから、彰子の率直な「わからぬ」という気持ちには、視聴者のなかにも、かつて若かりし頃に自分が「源氏物語」に初めて触れたときの「なんだこれ?」という感想を思い出された方もいるのではないでしょうか。

 さて、まひろも彰子の「わからぬ」理由はもっともと思うものの、さてどうしたものかという表情になってしまいます。「物語」に描かれた赤裸々な心情だけを説明するとしても、それもなかなか骨が折れそうですしね。ことに「光る君」に一条帝を投影している彰子ですから、「光る君が何をしたいのかもわからぬ」という困惑は、そのまま帝のお気持ちがわからないということにつながるので、実は深刻なお悩み相談だと言えそうです。つまり、まひろの想定した形ではありませんが、理解不能な「物語」に突き動かされた彰子は、自分の本音と心の内をこれまで以上に、まひろに打ち明けたのです。

 やがて、彰子は「帝がそなたの物語のどこに惹かれておいでなのであろう」というストレートな質問になります。自分の関心が帝一人にあると白状しているようなものですね。まひろも、彼女の本当に聞きたいことは、帝のことなのだと気づきます。ですから、「さあ?帝の御心ははかり知れませぬ。されど、私の願い、思い、来し方(過去)を膨らませて書いた物語が、帝のお考えになることとどこか重なったやもしれません」と仄めかすように答えます。

 まひろは、帝の過去をよく知ったうえで、自分の経験も使い、これを書き上げています。ですから、「物語」をわからないなりに思いを巡らせていくと、いつか何か見えるかも、と指南します。そして、それは彰子自身が自分の思いに気づくきっかけになるかもしれません。まひろの仄めかしに「ふーむ」と思案気な彰子は、帝への思いを巡らせているようです。

 そこへ、彰子大好きっ子の敦康親王が「中宮さま、今日は双六をいたしましょう!」と闖入してきます。「私では敦康さまのお相手になりませぬ」と苦笑いする彰子に、「今日は中宮さまが勝てるようにします!」と意気込む敦康は、何がなんでも彰子と過ごしたいのです。結局、「早くいきましょう」とぐいぐい引っ張る敦康に連れられ、局を去らざる得なくなります。

 とはいえ、話は途中、「物語」が何か、帝は何を考えているのか、彼女の関心と悩みはまだ尽きません。ですから、「また来てよいか」と問います。彼女の積極的な思いにまひろは「勿論でございます」と応じます。少しずつ、自分の気持ちを明かしてくれるようになっていく彰子に、まひろも手応えを感じているようですね。


(2)帝の心に寄り添い、ほぐすこと

 また、とある日のこと。「物語」の新たな展開について、あれこれ思いを巡らせているまひろの元に、宮の宣治が「帝がお出でになりました」とお渡りを知らせにきました。それにしても、お抱え作家に等しいとはいえ、作家にほいほい会いに来れる垣根の低さは、2020年代の世の中ではありませんから羨ましいですね(昭和の時代はあったそうですが)

 「是非聞いてみたいことがあって参った」と言う一条帝の今日の問いは、物語そのものについてではありません。「なぜそなたはあの物語を書こうと思い立ったのだ?」と、その動機のことです。いつかは聞かれたであろうことに、まひろは「お上に献上する物語を書けと左大臣さまが仰せになったのでございます」と最初から帝をターゲットにしていたこと、そして道長の意思があったことを正直に答えます。

 謂わば「物語」が極めて政治的なものであることを白状した形ですが、宮中への出仕こそ道長の政略に乗っていますが、「物語」執筆については、彼女自身は政治的な意図が発端にありません。また、彼女に執筆を依頼した道長の本心にも「「枕草子」に囚われるあまり、亡き皇后さまから解き放たれぬ帝に「枕草子」を超える書物を献上し、こちらに御目を向けていただきたかったのだ」第(31回)と、過去に囚われた帝を前向きにしたいという真摯な思いが含まれています。ですから、やましいところはありません。

 よしんば、やましい理由があったにせよ、帝の御心を動かすのが、まひろの役目。曇りのない心で対峙することが肝要ですから、正直に話したでしょう。嘘の物語を書くまひろの真芯には、逆に人間の真実を求める欲求があります。作家としての本念が、まひろの正直さとささやかに響き合っているように思われます。

 まひろの答えに「左大臣が?」と、やや驚いた表情をした一条帝の心情ははっきりとしたものは見えません。「やはり左大臣の策だったか」という納得もあるでしょうし、「物語」献上が道長の策とは理解していても「自分のためにわざわざ書かせる」ことまでしたことには驚きがあったように思われます。そこまでするからには、道長には政治的野心以上の真摯な思いがあるからです。道長への牽制に余念がない帝でも、それは感じるでしょう。

 思えば、、道長は「物語」について献上はしたものの、「物語」をこう読めとかこうしてくれといった自身の願望を強要することはしませんでした。「お読みいただけましたか」と聞いたぐらいで、彼の意に任せていました。
 このとき帝の頭に浮かんではいないでしょうが、帝に献上した「物語」を委ねた道長の態度は、「「枕草子」をお読みくださり、どうぞ華やかで楽しかった日々のことだけをお思いくださいませ」(第30回)と巧みに自分の都合へと「読み」を誘導した伊周とは対照的ですね。

 まひろは、続けて、「私は物語を書くのが好きでございましたので、光栄なことだと存じ、お引き受けいたしました」と自身の動機を語ります。その上で「されど、何が帝の心を打つか思いいたらず、左大臣さまにお上のことを、あれこれ伺いました。そこから考えた物語にございます」と、書くためとはいえ、恐れ多いことをしたこともきちんと語ります。

 ただ、帝が「朕を難じている」と腹を立てたこと、つまり批判的にモチーフの一つであったことは明かされましたが、それだけでは「次第にそなたの物語が朕の心に染み入ってきた」の説明にはなりません。

 まひろは「書いているうちに私は帝のお悲しみを肌で感じるようになりました」と、帝の抱える悲哀を自分のもののように感じるようになったと言います。人様の気持ちを「わかる」と軽々しく言うものではありませんが、まひろの共感は感性と書くことを通じた深い理解の二つに支えられたものです。

 第33回noteにて、まひろの「物語」の魅力は、「人には光もあれば影もあり(中略)複雑であればあるほど魅力がある」(第29回)という人間観、「楽しさ」や「笑い」の裏には哀しみや辛さが潜んでいるという作劇の信念に支えられていることをお話しました。このうちの前者は、直接的には「物語」に登場する人々の人物造形に活かされると思われますが、同時にモチーフになった人、出来事への深い共感ともつながっているようです。
 ご存知のとおり、まひろも哀しみや苦しみの多い半生であり、それは彼女の人間観と深く関わります。それゆえ、出来事に込められた人々の思いが、中宮彰子に語った彼女の「思い、願い、来し方」を通して自分事として共感されたとき、物語の要素として醸成されるのかもしれませんね。

 そう言えば、まひろは自分の溢れ出る創作意欲について、「書きたいものがどんどん湧き上がってくるの。帝の御為より何より、今は私のために書いているの」(第32回)と語っていましたが、あの言葉は、多くの人々のさまざまな思いという言の葉が、彼女の思いと過去と重なり、一度、自分事へと還元された結果なのかもしれません。だから、帝のために書くことと自分のために書くことが半ばイコールになったのではないでしょうか。

 さて、帝の哀しみを自分事にしたと言い切ってしまってから、まひろは自らの大胆にも不敬な発言に気づき、「しまった」というような落ち着かない表情になります。しかし、帝のほうは、まひろの言葉に得心したように、しみじみと、そして穏やかな表情になり、思わず「この先はどうなるのだ?」と気になる先の展開のあらましを聞いてしまいます。それだけ、まひろの書く「物語」に引き込まれていると思われます。

 もっとも聞かれたまひろは、「一言では申し上げられません」としか答えられません。道長に「まだまだ続きます」と宣言した「物語」の構想は多く、またそれらは複雑に入り組み重曹的になります。読んでもらう以外にはないのですね。帝も思わず聞いただけで、明確な答えを要求するつもりはなかったのでしょう。「そうか」と一言で収め、「朕に物怖じせず、ありのままを語る者はめったにいない。されど、そなたの物語は朕にまっすぐ語りかけてくる」と、読んだ思いを反芻するように話しかけます。

 帝は「自分に、ありのままをまっすぐ語りかけられる」のを待っていたと言います。帝という立場は、人々の欲望を叶える機能を備えたシステムです。一条帝は人であって、人ではありません。彼の周りにいるのは何らかの思惑を持っている者ばかり。聡明にしてナイーブな彼は、常に周りの思惑に意識的になって生きてきました。
 そんな彼が必要としたのは、その孤独と葛藤を包み込み癒す存在でした。母、詮子は彼を守るために政治的かつ強権的でした。それは帝への愛情からでしたが、一条帝の望むものとは真逆でした。その代償行為もあって、彼は定子に心身共に溺れ、政を疎かにし、さらなる葛藤を抱え込み、苦しむことになります。

 母詮子は、こんな帝に同情、共感といった寄り添いはせず、かえって叱咤激励を強め、さらに彼を追い詰めました。遂に「父上から愛でられなかった母上の慰み者でございました」という心ない放言で、詮子の心を折り、母子には埋められない溝だけが残りました。
 結局、彼が欲したのは、自分の心に寄り添う存在でした。ただ、人である限り、帝の御心に正しく近づける者はなかなかいないのが現実です。母親すら例外ではありませんでした。また道長は実務において信頼はできますが、政治的な関係ゆえに馴れ合えません。他の公卿らはなおさらです。気を許せません。


 定子は、帝の御心に正しく添うことの難しさを一番理解していたでしょう。だからこそ、彰子立后を詫びる帝に対し、自分も我が家のことしか考えられなかったことを詫びていますね(第28回)。勿論、定子は帝を愛し、慈しみましたが、それは帝が彼女にのめり込み暗愚と呼ばれる手助けをしただけにもなりました。皇后に相応しい賢妻となれなかったのは、我が家が頭にあったからです。
 定子が「彰子さまとて見えておるものだけがすべてではございません」と述べ、真っ直ぐに彰子の人柄を見極めるように諭したのは、自分と同じ立場の彰子への不憫からです。しかし、それだけではなく、どこかで定子がなし得なかった帝に正しく寄り添える役目を、彰子がなせることを期待する気持ち、あるいは帝の将来を心配があったかもしれません。ただ、その思いも、帝の未だ強い定子への執着心と彰子の不器用から、なすには至りませんが。


そういうなかで帝の心に寄り添ったのが、批判的だけれど染み入る、まひろの「物語」です。それは、彼が母に求めて得られなかった厳しくも優しい慈しみになっていたのかもしれません。
 そして、その作者が実際、自分の哀しみを自分事として共感し、それを書いたと知れたことは、なおさら「物語」への愛着を深めたことでしょう。「また来る」と言い置いたのは、その愛着を象徴しているでしょう。

 ただ、まひろの胸中は「私ではなくて中宮さまに会いにいらしてください」と内心、心穏やかではありません。道長から託されたものがあるからでもありますが、それ以上に彼女だけが、帝と彰子はお互い惹かれつつあることに気づいているからでしょう。そして、「物語」は心を救うものではあるけれど、それ以上に物語の種でもある人同士の睦み合いとその真心が大切であると、まひろは気づいているようにも感じられます。

 さて、帝は彰子に会うことなく藤壺から引き上げてしまったようです。自室でぽつねんと座る彰子。傍らに女房が控えるものの、心情的には一人でいるのと同じでしょう。その様子は、遠巻きに見れば、昔と同じものです。しかし、他人に構われようと構われまいと、特段気にすることのなかった少女時代とは異なり、今は日に日に帝への気持ちが増しています。ですから、今は自分の気持ちを持て余す寂しい姿に映りますね。


3.曲水の宴で見えるそれぞれの思い

(1)作品の楽しみ方を決めるのは?

 帝の意向もあり、頒布されるようになったまひろの「物語」は、さまざまな人たちに読まれるようになっていきます。その広がっていくさまを、まひろの原稿が風に煽られパタパタとめくれる様と第三帖「空蝉」の内容をリレー形式で朗読していく形で表現したのが巧いですね。公任は夫婦の水入らずの団欒の話題として、行成は黙読し、しみじみと感じ入るように堪能し、斉信は女との寝物語として、そして宮中の女房たちは回し読みしながら「キャー」と女子トークの材として…「物語」は受け手それぞれが、それぞれの楽しみ方をしています。

 以前のnoteでも話しましたが、作品は作家によって書き終えられた瞬間から、作家とは独立して独り歩きします。それをどう読むか、どう楽しむのか、それは受け手に委ねられています。作家の意図、作家の思いなどは、作品の材料として溶けてしまい、作品の読みを縛るものではありません。作品と受け手の関係を端的に示す場面としても興味深いものになっていますね。

 ところで彼らが朗読していた「空蝉」の一節は、表題にもなっている女性、空蝉が忘れられず、何とか彼女と再度契りを交わそうとする光源氏が、忍びこんだ明かりの落ちた部屋で軒端荻(のきばのおぎ)を空蝉と間違い、そのまま帰るのまこの女に失礼と思って契ってしまうというくだりです。公任に「とんでもないな、この男」と評されるように最低極まりない光源氏の一端が窺えるものです。

 ただ、妻の敏子が「貴方にも似たようなこと、おありなのではございません?」と公任をからかっているように、結構、平安期の男性陣には身につまされるネタだったかもしれませんね。特に、本作の場合、道綱は焦るかもしれません(すっかり忘れている可能性もありますが)。どうも、石山寺で道綱がまひろに夜這いをかけたつもりが、さわと間違ってしまった件がモチーフになっているように思われるからです。

もっとも彼は、いい加減な言い訳をしてさわを抱くことはせず、逆に彼女を傷つけています。光源氏の行為はそれを反転させたものです。どちらにせよ、女を間違えるような男は最低ということですし、こんな話、彰子に読ませる話ではありません(苦笑)

 因みに空蝉のほうは、後ろ盾がないため心ならずも親ほど離れた受領の後妻になった女性と設定されており、一度は光源氏と過ちを犯し、彼に惹かれる気持ちもありながらも、身分違いから頑なに光源氏を拒絶し、逃げていきます。その境遇から紫式部自身がモデルとも言われるキャラクターですが、本作の場合、まひろの過去のさまざまな葛藤が投影されているように見えますね。

 さて、先に述べた「作品の楽しみ方、読み方は受け手次第」という考え方は、1007年3月3日に開かれた土御門殿の曲水の宴、この場面でも顕著に語られます。この曲水の宴は、ナレーションの説明にもあったように、中宮懐妊を切に願う道長の思いから開かれました。

こうした事情ですから、道長は集まった貴族らに対して、宴が始まる前に素直な謝意を示しています。土御門殿の大々的なイベントは政治的な意図が見え隠れしていますが、道長は宮中の行事とは違う私事であることは弁えているようで、彰子の裳着の儀でも居並ぶ公卿らに感謝の言葉を述べています。政の場とは違い、腰が低く気さくな対応をしているのも興味深いですね。これは道長の人柄によるところが大きいですが、こうした地道な気配りができることが、人望や求心力につながるのでしょうね。

 目的が目的ですから、彰子も内裏から土御門殿へ行幸しています。脇に控えるのは、赤染衛門とまひろの二人というのが、藤壺らしい気がします。藤壺の女房たちは総じて高貴な出自ということもあり、中宮である彰子に対しても悪意なく敬意がありません。ですから、プライベートに近いようなイベントの参加に自ら進んで付き従おうとしないのだろうと察せられます。

 ただし、このことは今回の場合、彰子にとっても良いほうに作用しているようです。いるのは幼い頃から過ごし慣れている衛門、そして、心のうちを気安く話せるまひろだけ。他の女房らの気づまりな目線もありません。ですから、のびのびとした様子で笑顔を浮かべ、「母上もお出でになれれば良かったのに」と残念そうにします。彼女にとって気の許せる人たちだけの里帰りですから、そう思うのも自然なことでしょう。

 この年、倫子は6人目の子、嬉子を出産しますが、所謂、産後の肥立ちがよくないのか、病に臥せっており未だ本復とはなっていないのです(史実です)。この出産のとき、彼女は40代。現在にしても高齢出産ですから、40歳で長寿の儀を行う時代であればなおさらでしょう。当時の医学を考えると高齢出産も、体調不良に関係していたのかもしれません。今回、黒木華さん演ずる倫子が出てこなかったことで、心配になった視聴者もいらっしゃったかもしれませんが、心配無用です。彼女は90歳まで天寿を全うします。まだ、これから今の年齢の倍は生きるのです。

 因みに倫子の母、母の穆子も出てきませんが健在。彼女は、彰子の生んだ子、曾孫が帝になるのを見届けて86歳で生涯を閉じます。そして、彰子もまた87歳まで生き、弟の頼通(彼も83歳まで生きます)と共に摂関政治を支えます。どうも穆子の系統を色濃く継いだ人は長寿になるのかもしれませんね。あ、系統は違いますが、明子女王も85歳までとこちらも長寿で、彼女の長男せ君(教通)も80歳まで生きています。どちらも当時からすると恐るべき壮健さですね。

 話を戻しましょう。せっかく始まった曲水の宴ですが、急な雨によって中断することになります。道長は自ら、貴族たちを屋内に招き入れ、労います。丁度、彰子のいる隣の部屋に「酷いことになった…」と逃げてきたのは、俊賢、行成、斉信たちです。まひろは、濡れた彼らに拭くものを提供しています。そこへ道長も遅れてやってくると、今日は部下としてではなく旧友として「このような空模様となってしまいすまぬ」と詫びます。俊賢は、「いやいや、左大臣さまのせいではございませぬ」と答え、行成も頷きます。天候ばかりはどうにもなりませんからね。

 ここで、隣の部屋の彰子が彼らを御簾越しに見ている彰子主観のカットが挿入されます。実は道長たちは、隣に彰子がいて、彼女が御簾越しに見ていることには気づいていません。ですから、何の気兼ねもなく、素の表情をしています。


 彰子主観のカメラは、雨の様子を窺う道長と行成を中心にしています。彰子の関心が父に向けられているのですね。おそらく、幼い頃も彼女の眼差しは、道長を追うこともあったのでしょうね。その左脇にいる斉信から「昔は雨に濡れることなど平気であったが、すっかり弱ったな」と愚痴めいた言葉が出ます。道長の手前に座る俊賢も「ああ、年を取った」とそれに相槌を打ちます。
 すると、斉信は、相変わらず外の雨を見ている道長の肩にポンと手をやると「しかし、道長は昔も今もいい身体をしておる」と声をかけます。え?という感じで道長が振り返り、カメラは御簾越しのまま、道長にフォーカスします。きょとんとした道長に「上に立つ者は、きりりとしておらねばならぬゆえ」と言い、道長が為政者として頑張っていると労うように言います。

 ここでカメラは少し引き、彰子をナメる形のロングショットになり、彼らの仲睦まじい姿を客観するように見ます。「きりり?」とおうむ返しに答える道長に一同からは笑いが漏れますが、釣られて破顔した道長は「そのようなこと考えたこともなかったわ」と笑い、4人は朗らかにな空気になって大笑いします。


 一段落したところで、カメラは道長たち4人と彼らの世話をしているまひろのいる部屋そのものへと映ります。まひろとは初対面らしい俊賢は「そなたは今、流行りの物語を書いている女房か?」と声をかけると「何故、光る君を源氏にしたのだ?」と率直な質問をします。この辺りはまひろは、考えた上での造形だったのでしょう、「親王さまでは、好き勝手なことをさせられませぬゆえ」と茶目っ気を交えて答えます。既に前の朗読リレーで、光源氏の奔放な恋愛模様は周知されていることが説明されていますから、それを踏まえての機知に富んだ答えです。

 俊賢はこの答えに得心すると、光る君の聡明さと美しさの描かれ方について「臣下の席に下ろされた亡き父、高明を思い出した」と目を細めます。彼の直感は、あながち間違っておらず、源高明は光源氏の元とされています。ただ、ここで大切なのは、彼が父を「思い出した」と言ったことです。

 源高明は安和の変で藤原氏の謀略によって、太宰府に流されます。妹の明子女王によれば、その父の無念の死に震えるほどの怒りを抱いたそうです。しかし、苦悩の末、「月日は流れた。自ら命を絶てぬならば、生きていく他はない。生きていくなら力のあるものに逆らわぬがよい」(第13回)と悟った彼は、父の無念へ怒りを封じて、生きるために積極的に藤原家の風下に立つことを選んだのです。
 忍従を強いられたこともあったでしょう。幸い、「これほどの心意気の方とは思わなかった」(第18回)と道長の器量に惚れ込めたことで、自分の才を生かしていくことができました。ただ、一方で父のことは過去と割り切り、思い出さないようになっていたでしょう。

 しかし、まひろの「物語」は、俊賢のなかに長年眠っていた、在りし日の父の思い出を呼び起こしたのですね。そして、「物語」を読みながら、自分が父をいかに敬愛していたかも甦ってきたことでしょう。それは喜びであり、嬉しい再発見だったはず。
 だからこそ、俊賢は「父は素晴らしき人であった」と万感の思いを、作者であるまひろにささやかな謝意すら込めて伝えるのですね。俊賢の抑え込んできた無念も、父への敬愛も「物語」によって解き放たれ、彼自身も癒されたということでしょう。「物語」に救われたのは、帝だけではないのです。

 そんな彼の読みと思いにまひろは「どなたのお顔を思い浮かべられても、それはお読みになる方次第でございます」と笑顔で添えます。彼女にとっても、またこのように読み手がそれぞれに楽しみ、救われていくのであれば、それが一番なのです。思いも寄らない読み方をしてくれることが、寧ろ喜びなのでしょう。

 まひろの言葉に「光る君は俺のことかと思っておったぞ!」と自信満々に答えたのは斉信です。実に彼らしい自信過剰ですが、それもまたOKです。ただ、まひろを除く一同が一瞬、固まったことがすべてを物語っています(笑)周りの様子に妙な顔をする斉信に、行成はもう吹き出す寸前、道長はあっさり爆笑してしまいます。脇にいた俊賢も朗らかになり、空気は和んでいきます。

 因みにこの辺りから、まひろはおそらく御簾越しに彼らを見ているだろう彰子に目を送るカットが入ります。「男たちの言っていることがわらかぬ」と言っていた彼女に、その一端はこんなものよと見せたいのかと察せられます。

 さて和む空気に押されたのか、普段は道長びいきが過ぎる行成が珍しく「少なくとも道長さまではありませんね」と軽口を叩きます。現在、世間一般では「光源氏=藤原道長」説は根強いと思われますが、そこを否定してくる行成の理由が「道長さまは笛もお吹きになれないし…」と、それなりに説得力を持っていて面白いですね。勿論、本作のまひろは、道長も光る君へ投影させているはずですが、行成の解釈はまひろ本人としては安心するところかもしれません。二人の過去は、どこまでも秘めたものでなければなりませんから。

 行成のあんまりな言葉に「いや、俺だって少しは吹けるぞ」と、まったく自分をフォローできていない言い訳をする道長に一同は逆に笑ってしまいますが、このちょっと抜けた感じが本来の三郎の頃の道長を彷彿とさせますね。間抜けな言い訳をする道長に、俊賢が「では笛を持ってこよう」などと容赦のないツッコミを入れるものですから、一同の笑いはさらに弾けます。道長の幼馴染である行成、斉信はともかく、俊賢もこういうときに道長とこのように話せるようになっているというのも、またほっとしますね。

 そして、彼らを見ていた彰子の目は驚きに開かれ、へーと言わんばかりに興味深げな表情になっています。初めて男たちが楽し気に会話するさまを目の当たりにした彼女は、自分自身のことと同時に、人がどんなものであるのかということも少しずる知っていくのでしょう。まひろは、そんな彰子の驚きを御簾越しでも感知したのでしょう、微笑ましい眼差しを送ります。


(2)まひろの指南

 雨は止み、曲水の宴が再開されます。途中、大江匡衡の漢詩が読み上げられ、それを扇を口元に寄せながら、じっと夫を見守り、その出来栄えに口元で微笑んでいると思われる赤染衛門が印象的ですね。まひろに言った「夫はいても大してあてにはなりませんけれど」「帰ってこない夫を待つのも飽きた」(第32回)の言葉も真実ですが、今なお夫に向ける熱視線もまた衛門の本心でしょう。二つの思いに葛藤し続けたのは、兼家の妾だった寧子も、まひろも、倫子も、衛門も同様です。だからこそ、「思いと行いは裏腹」なのですね。

 さて、宴も酣(たけなわ)となってきたころ、彰子の元の御簾もあげられますが、すぐに彰子の主観のカットが入ります。その眼差しの先にあるのは、父道長です。父の姿を認めた彰子は、心からの微笑を浮かべると「さっき、父上が心からお笑いになるのを見て、びっくりした」と素直な思いをまひろに伝えます。これは、衛門は夫に夢中、倫子も不在…まひろと二人きりになったからこそ、言えたことかもしれません。衛門も倫子も身内過ぎますから。

 彰子が驚いたのは、自分の父が、あのような笑い方をする一面があったことを初めて知ったからでしょう。おそらく、彰子の前では、道長はよき父親としての顔しか見せなかったのでしょうね。特に彰子が自分に似て引っ込み思案なところは心配もしていましたから、余計にただ優しい父だったと思われます。そして、入内してからは、気遣う表情ばかりで、あまり笑顔はありません。
 だから、今日の様子に驚いたのでしょう。そして、父の意外な姿を見たことは、彰子にとって、人とは、男性とはさまざまな面を持つということを知る機会になったと思われます。


 すると、まひろは「殿御は皆、可愛いものでございます」と囁きます。随分と達観した、余裕すら窺わせる言葉ですが、こう言えるようになった理由は二つあるでしょう。一つは、やはり道長に愛されている、宣孝にも愛されたという実感があるからでしょう。二人ともまひろに対して、非常識なこともしてしまうほど必死でした。また道長は、今も昔もまひろにだけは、自身の弱さも見せます。そんな弱さを見せる彼を愛おしく思い抱き抱えたのは、二人で直秀の墓を作ったときでした(第9回)。思えば、彼女が心を傾けるのは哀しさや弱さへの愛着でした。

 そして、もう一つの理由は、「物語」を書くようになったことです。例えば、「雨夜の品定め」の元になった出来事は、まひろにとってはトラウマになるほどショックを受けたものです。わざわざ意趣返ししたくなるほど根に持ってもいました。しかし、そして作中人物として造形し、作品を書くなかで、その背景や人物像に思いを巡らせているうちに、男同士でマウントの取り合いをする愚かさも強がりも、人間的に興味深いものとして見えてきたのではないでしょうか。


 まひろの思わぬ言葉に、驚いた彰子。そして、恐る恐る「帝も?」と聞きます。その言葉を待っていたように笑ったまひろは「帝も殿御におわします」とあっさり返します。それを聞いた彰子は「そうか」とややほっとした表情になります。これが、まひろの狙いでしょう。
 今回、清涼殿で一条帝は怯える彰子に対して、心を砕きました。そこには、帝なりの彰子への情があったのですが、彰子は頑張って帝の顔を見ようとしたものの、帝の心まで見ることなく伏せてしまいました。それは、彰子が、帝を一人の人間ではなく、「お上」として意識し過ぎていることに一つ原因があるでしょう。

 まひろは、その意識過剰をほぐそうとして、「殿御は皆、可愛い」「帝も殿御」と恐れ多くもなんともないと殊更、強調するのです。とどめは「先ほどご覧になった公卿たちとそんなにお変わりにないように存じますが」という言葉です。あの楽しそうな父と友人たちの様子、帝にもあのような朗らかさがあるのかもしれない…その思いは彰子をときめかせます。帝への興味関心もより強くなってきます。

 その心を見て取ったまひろは「帝のお顔をしっかりご覧になって、お話し申し上げたら宜しいかと存じます」と、恐れずに自分から近づくとよいですよと助言します。まひろは、道長に言ったとおり「中宮さまのお心が帝にお開きにならないと前に進まぬ」ため、「力は尽くして」いるのですが、それは無理強いではいけません。あくまで、彼女の自然な気持ちの流れを促し、それに添って、言葉を添えてやるだけなのです。表現豊かなまひろだけに、その遣り口は巧いものです。

 そして、まひろの助言で、秘めた帝への思いが頭をかすめたのかもしれません。彰子は、自分の思いに戸惑うように、お菓子を口にしてそれを誤魔化しますが、まひろはそれすらもかわいい様子と微笑ましく見守ります。


 そんな二人の様子を対面から見ている道長。道長主観の映像がカットとして挿入されますが、それはあの不愛想でだんまりだった彰子が、まひろと歓談しながら、笑顔をほんのり浮かべて、お菓子を食べているというもの。目を見張る道長の様子からすると、倫子とですらこうしたことはなく、道長にとって初めて見るものだったと思われます。彰子が父の心からの笑顔に驚いたように、彼もまた娘の意外な笑顔に驚いているという対比が面白いですね。二人の話題が、まさか自分だとは露ほどに思っていないでしょう。

 そして、まひろが自分との約束どおり「力を尽くして」くれていることも実感したでしょう。それも、自分が考えている以上に彰子の心へ深く、柔らかく入り込み、そして優しく彼女を導いています。それは、もしも彼女が自分の妻となって、子をなしていたら見せたかもしれない母としてのまひろを想像させたかもしれません(実際の娘とは軋轢がありますが)。人知れず、道長の顔には笑みが零れてしまいます。


4.道長に忍び寄る不穏な空気

 まひろの「物語」を巡る状況は、少しずつ好転している一方で、道長の政は、興福寺の強訴を力で退けて後、不吉なことがいくつも起きます。その一つが、相次ぐ火事です。斉信が邸宅の火事で放心状態でしたが、この火事では彼は屋敷から何も持ち出せなかったのです。これまでの半生で大切にしてきたものがすべて失われた思いはいかばかりか。公任が、道綱に「そっとしておいてやってください」と言うのも当然なのですね。また、すべてを失ったため、道長は直衣一式を斉信に用意したのです。

 続いて、道綱の屋敷も焼け落ちました。彼もまた呆然としていましたね。その彼の火事の直後、敦康親王も病に伏せります。霍乱(熱射病か胃腸炎)だとも言われています。彰子が甲斐甲斐しく面倒を見ていますが、随分と辛そうです。そんななか、彰子が薬湯を勧めるのですが、そのときの敦康の彰子を見上げる信頼と愛情の強い眼差しが印象的です。
 今回は、成長した敦康の彰子への強い情が強調されていましたが、思春期の彼の思慕は恋慕にも近いものになっているようです。「源氏物語」を意識すると、どうしても藤壺中宮と光源氏の関係も想像させるものです。

 さて、病の敦康親王の元に、伊周が見舞いにやってくるのですが、彼が来たという報告を受けた時点で顔を背け、拒絶する態度を露わにしています。やってきた伊周がいけないのは、敦康が顔を背けているのに「思ったよりお元気そうで安堵いたしました」と言っていることです。真剣には気にしていないように見えてしまうでしょう。
 そのうえ、見舞いの品に持ってきたのは、源為憲「口遊(くちずさみ)」という児童向けの学習教養書(九九などが載っています)…大体が遊び盛りの年齢です。しかも、病気に臥せって苦しんでいるときに勉強道具を持ってくるなんて、幼心にも敵にしか見えないでしょう。

 相変わらず、伊周は自分の都合と考えだけで事を進める傾向が変わっていません。他人の心情を慮る。漢詩に長けた教養人でありながら人望がないのは、こういう自己中心的な性格です。これは、実の息子も同様で。蔵人に任じられた嫡男、道雅は「この機を生かすのだ」という父に対して、「この機を生かすって何ですか、父上の復讐の道具にはなりませんから」と露骨に反発をしています。伊周の教育は、息子を早々に捻じ曲げてしまったようです。

 ただ、伊周の見舞いの品を「要らぬ!」と叫ぶように敦康は拒絶し、傍らにいた彰子をかえって驚かせたことは、伊周の自分本位な性格を嫌ってということだけではなさそうです。素直な敦康がこういう態度を取ることはあまりないでしょう。
 また、前回の行成の発言からしても、伊周は目立って敦康のところを訪れることはありません。その薄情を詰った可能性もありますが、彼がそれを気にするとすれば、藤壺での生活に不満があった場合のみです。しかし、敦康にとって藤壺での彰子との生活は幸せなものです。劇中で描かれていることだけを見れば、伊周を特別、拒絶する理由は描かれてはいません。

 あくまで推察に過ぎませんが、今のところ考えられるのは、彰子への極端な思慕の強さだと思われます。敦康は、自身が彰子の実子ではなく、亡き皇后定子の子であることは知っているでしょう。しかし、物心着いたときから彼を慈しみ、遊び相手になり、育ててくれたのは彰子です。彼にとって、母とは彰子でなければなりません。また、時折、訪れ、遊び道具を献じてくれる左大臣道長もまた、彼にとっては大切な人です。実際も道長と敦康の仲は良かったと言われていますが、彰子の父でもあるこの左大臣は、彼にとっては祖父のようなものです。
 つまり、敦康の彰子への並々らぬ思慕の情は、彰子の本当の子でありたい、また道長の孫でありたいという思いになっているように思われます。
 こうなると、あまり自分の元へ訪れるでもなく、たまに来たところで自分の気持ちを慮らない伯父は、自分が彰子の実子ではないのだということを思い知らすだけの鬱陶しい存在でしかないでしょう。口にはできないその思いを、伊周を拒絶するという態度で敦康は示しているのではないでしょうか。

 伊周の見舞いの品を拒絶したそのとき、丁度、伊周にとっては運悪く、道長がやってきます。彼は敦康の後見人にして、彰子の父でもある左大臣です。敦康の見舞いに訪れるのは当然です。すると敦康、まだ体調も整わないのに臥所を飛び出し、道長へ駆け寄り、その袖を引きます。敦康のあからさまな当てつけに目を剥く伊周。彼には幼い敦康がこうも自分を嫌うのは、道長たちが吹き込んだからだと誤解するでしょう。

 直後、敦康は、無理がたたり咳き込み、吐いてしまいますが、道長は、汚れるのも構わず、優しく対応します。しかし、その甲斐甲斐しい姿も、伊周には見せつけられたと勝手に思い込むだけでしょう。伊周は、親王を奪われたという屈辱に顔を歪ませます。こうして、道長の意図しないところで、伊周は恨みをさらに募らせていきます。


おわりに

 まひろの「物語」は、帝やその他の人々の心をそれぞれに楽しませ、癒し、心を朗らかにしていきます。その連鎖が回り回って、彰子の心をもまたほぐしていくようです。そうした実感は、まひろを次のステージに進ませます。
 曲水の宴の後、まひろは再び、道長から褒美として下賜された扇を広げます。場面的なつながりからすると、まひろは「殿御は皆、可愛いもの」という彰子に言ったとき、その脳裏に道長が掠めたかもしれません。まひろ自身も道長が朗らかな顔に笑うのを久しぶりに見たことでしょうから余計にです。

 そして、あの日の出会いを思い返すなかで、ふと「小鳥を追った先で出会ったあの人…あの幼い日から恋しいあの人の傍でずっとずっと一緒に生きていられたら、一体どんな人生だっただろう…」と思いを巡らせます。
 彰子を導くまひろを遠巻きに見た道長が、おそらくあり得たかもしれない自分の妻となって子を導くまひろを想像したように、まひろもまたまったく別なところから、似た思いを巡らせる…この対比が興味深いですね。どこかで何かが響き合ってしまう…ソウルメイトだからでしょうか。

 思いを馳せていると、庭で雀が鳴いて小枝に止まり、また飛び去る様子が目に入ります。そのとき…まひろの心象風景と目の前の風景が重なり、あの日の自分とよく似た少女が現れます。瞬間、まひろの脳裏に新しい物語が閃きます。
 書きつけたのは、大方の人の予想通りでしょう…「雀の子を、犬君が逃がしつる、伏籠の中に、籠めたりつるものを」、「若紫」の一節です。「物語」は、人々の心を動かし、そしてまたその反応が、まひろを新たな「物語」へと導いていくのかもしれませんね。


 一方、道長は、不吉な事が続き、彰子の懐妊の兆しもないため、「我が生涯最初で最後の御嶽詣」に参ることにします。100日に渡って精進決裁し、酒、肉、欲、色を絶った上で険しい道を行く強行軍は、かなり命懸けの行為です。それだけ、何とか事態を打開したい決意が強いということです。まひろにばかり頼っているわけにはいかない、自分も何かせねばと思っているのやもしれません。こうして、父に認めてもらいたい嫡男、頼通と俊賢が随伴して、吉野の金峯山へ旅立ちます。

 しかし、敦康親王が自分になつかず、追い詰められた伊周が、膨れ上がった復讐心を抑えきれず、旅立った道長をいよいよ暗殺しようろ暗躍し始めました。こればかりは、まひろの「物語」の力ではどうにもなりません。結局は人間性が彼を救うことにはなるとは思いますが…

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