「光る君へ」第40回 「君を置きて」 為政者の孤独へと進む道長
はじめに
幸か不幸か、他人の心は見えません。だからこそ、心のなかは自由でいてよいのですし、またわからないゆえに他人を気遣うのです。裏を返せば、他人の心が見えてしまう世界は、ギスギスして殺伐とした生きづらいものでしょう。
一方、「あいつのことはわかっている」「こいつとはツーカー(死語)の仲」「あいつだけは信じられる」など、殊更通じ合っているかのような言葉は、他人の心がわからない以上、おおよそ錯覚ということになります。
そうであるにもかかわらず、人は無条件に他人を信じてしまうものです。自分も信じられないから、他人など信じられないと言う人もいますが、それは裏切られたくないがための自己防衛、他人を信じたい気持ちの裏返しかもしれません。人は孤独で寂しいのでしょう。
さて、無条件に信じてしまいたい相手、通じ合っていると思ってしまう相手だと一般的に考えられているのは、「仲のよい家族」か「親友」でしょうか。仲のよくない、信用出来ない家族も多々あり、現実困っている方もいらっしゃるでしょうから、ここではあくまで「仲のよい」というかっこ付けの家族を指すことにしましょう。
因みに「恋人」は、どこかで別れを意識している関係に思えなくもありません。裏を返せば、「仲のよい家族」と「親友」は終わらない、永遠性を感じているように察せられます。結婚の常套句「死が二人を別つまで」は、その典型でしょう。
そして、その永遠性を信じるがゆえに起きてしまうのが、相手に対する過度な甘えと依存です。甘えられる関係だからこそ、お互い様と思えるからこそ、安心を得られますが、やり過ぎは禁物。他人の心は見えないのです。
笑っているその先で、実は自分の言動に対して、相手は、我慢を重ねているかも、小さな不満を抱いているかも、本当は嫌かもしれません。相手の思い遣りと気遣いに甘え過ぎているだけ…その可能性を忘れてしまうことが、ままあります。
ちょくちょく見られる「仲のよい家族」の崩壊、「親友」の決裂とは、こうした相手の小さな不満を見ようとしなかったことが積み重なった結果かもしれません。だから「親しき仲にも礼儀あり」なのでしょう。大切であるからこそ、余計に相手の気持ちに寄り添う、その立場を慮りたいものですね。
さて、「光る君へ」の道長は、その人柄と運で多くの人の協力を得てここまで来ました。しかし、権勢を確実にするなかで、それらを失いつつあるようです。そこで今回は東宮決定の経緯における人々の思いを見ながら、道長が何をどうして失わんとしているのかを考えてみましょう。
1.一条帝が譲位を決意するまで
(1)一条帝を救う彰子の真心
ある夜、閨で帝に肩を抱かれた彰子は、「だいぶ暖かくはなりましたけれど、お上は寒い冬の日も暖かいものをお羽織になりませぬ。火取り(香炉)もお使いになりませぬ。いつも不思議に思っておりました。それはなにゆえでございますか」とその理由を一条帝に尋ねました。帝は静かに「苦しい思いをしておる民の心に近づくためだ」と答えます。
この言葉には、帝の苦しみと悲哀、それを乗り越えんと努力する胸のうちが覗きます。かつて、道長が公卿らの筆頭として右大臣になった折、彼を志を同じくすると見た帝が真っ先に行ったのは、近隣国の民の租税を下げることでした。いつの時代も、民の経済的な困窮を根本的に助けるのは、減税が最も有効な手段ということです。まあ、現在は、庶民の経済的な困窮を前にバラ撒きで誤魔化し、増税しようとする政治家ばかりですが…
ともかく、帝は民を救う政を、夢見ていた人でした。その彼が、愛する人も裁かねばならない政の残酷さに直面したのが長徳の変でした。后であり、恋人であり、姉であり、母である定子は、帝にとっては欠くことの出来ない自分の半身そのものでした。端からは依存に見えるあの頃の定子への執着は、アイデンティティ(自己同一性)の崩壊であったのでしょう。
一条帝自身も何故、ここまで定子に自分が執着してしまうのか、自問自答したと思われます。その結論が、実母詮子に自分が思うようには愛されず、期待され過ぎたことへ帰結したことは、甘えであることを考慮しても悲劇的でした。愛する母に「そういう母上から逃れたくて…朕は中宮に救いを求め、のめり込んでいったのです。すべては貴女のせいなのですよ!」(第27回)と叫んだのは、彼が自分自身を追い詰めた結果の言葉でもあるでしょう。勿論、第27回note記事でも触れたとおり、詮子にも痛切な事情があったのですが…
結局、己の志と定子への執着の狭間、そして理想と現実のギャップに苦しみ続けた一条帝は、徐々に政から遠ざかっていくようになります。その一方で、そんな自分を許せない…そしてますまさ定子へ依存していく、その悪循環をどうにもできないまま、「公卿たちに後ろ指をさされる帝になって」(第27回)と自虐するになったのです。なまじ暴君でも暗君でもないがゆえに苦しんだということでしょうか。
諫言する道長に反発し、定子を守らんと彼を牽制しながらも、道長を頼みとするという一種、矛盾したような言動をしたのは、帝に政への志と良心があったからです。しかし、その依存が、道長の権勢を後押しし、彰子の入内を許し、一帝二后によって定子の立場を曖昧なものにせざるを得なくなります。その罪悪感が、定子の死後、帝をまた過去の虜囚としてしまいます。
やがて、まひろの「物語」が、帝が懊悩と向き合うきっかけとなり、または思いを昇華していくなかで、彼はかつての志に生きた明るい自身を取り戻していくことになります。しかし、かつての失政、結果として道長の権勢に抗しきれない自身の不甲斐なさは、消えることはありません。
もしかすると、若い頃から続けていた「苦しい思いをしておる民の心に近づくため」という身体に鞭打つ行為だけが、民を忘れない方法だったのかもしれません。無論、ネガティブなニュアンスだけではなく、自己満足に過ぎないとしても、まずやれることをしたい、そんな切なる願いもあったでしょう。そして、帝足らんとすることは、敦康を守ることにもなります。
ですから「民の心を鏡とせねば、上には立てぬ」と言い添えた君主の心構えは、自慢でも教えでもなく、ただただ名君足り得なかった自分自身への自戒の意味合いでしょう。すると、彰子は「お上は、太宗皇帝と同じ名君であられます」と微笑みます。
彰子の言葉に「百錬鏡か…」としみじみした帝は「ん?」と驚いた顔になり、「中宮は「新楽府」を読んでおるのか」と問います。まさかに彰子が漢籍を知っているとは思わなかったのですね。答える彰子は「まだ途中でございますけれど…」とはにかみますが、内心「百錬鏡まで読んでおいて良かった~」と小躍りする気分もありそうですね。
そもそも、彰子が「新楽府」を学んだのは、「私も秘かに学んで、帝を驚かせ申し上げたい」という帝に何かして差し上げたいという思いと茶目っ気の二つからでした。ですから、さりげないサプライズが出来たことで、まずは目的達成です。しかも、それを知った帝は喜色満面です。これは、彰子が漢籍についても話せると知った喜びではありません。
先にも述べたように、「民の心を鏡とせねば、上には立てぬ」との言葉は、名君ではない己への戒めです。そこには、帝のこれまでの苦悩が畳み込まれています。帝のこうした古傷を彰子が、どこまで感じたかはわかりません。あるいは、自分の知っていることが、帝の口から漏れて嬉しかっただけかもしれません。
しかし、その無邪気さゆえにそこには阿りも変な気遣いもない。そういう彼女だけが、民の心を知ろうとする自分の努力に気づいてくれた。そればかりか、暗愚と後ろ指指された自分を、名君太宗と同じだと思ってくれた…それは長年、己のあり方に苦悩してきた一条帝への大いなる救いと喜びとなったでしょう。
一条帝が求めていたのは、無償の褒め言葉だったかもしれませんんね。治天の君を褒めることは、臣下にはできません。母か対等の后だけです。しかし、詮子は彼を守らんがため厳しく突き放しました。母代わり姉代わりの定子もまた褒めるよりも、導く、諭す役割でした。帝はようやく、納得のいく形で褒められ、自分を肯定してもらえたのです。このように彰子の学びと真心は、最高の形で披露され、帝の承認欲求を満たし、彼を癒したのです。
ですから「中宮がそのように朕を見てくれていたとは気づかなかった…嬉しく思うぞ」としみじみと幸せを味わうように言い、彼女と慈しみ笑い合い、愛おしむように優しく抱こうとするのです。そこには形ばかりの中宮との関係ではなく、確かな絆があります。
思えば、定子への愛情は帝が彼女を強く慕い、定子がそれを受け入れていくものでした。定子が抱える懊悩に、若かった帝が寄り添えず、自分の想いばかりを押しつける場面もしばしば見られました。また、二人は近すぎるがゆえに、互いが互いの苦悩の原因にもなっていました。悪循環から抜け出す術を失っていたとも言えます。長徳の変以降の二人は刹那的でもありました。
今、帝はひたすらに慕い、真心を見せる彰子の愛情を自らが受け入れ、それに癒され、自らも彼女を慈しみたいと思えるようになりました。大人になった帝は、対等に愛し合えることもあるのだということを実感しているのではないでしょうか。
しかし、直後、帝は苦しげに胸を押さえることになります。心配する新たな恋人に「大事ない、いつものことだ」と諭しはするものの、その発作は尋常ではありません。その日を機に帝は急速に病魔に蝕まれていきます。ようやく、彰子と本物の夫婦になれたところに、死が忍び寄る…皮肉なものですね。
(2)最後まで生きようとする帝
咳が止まらず、御簾越しにすら道長に隠し切れないほど帝の病状は思わしくありません。薬湯など甲斐甲斐しく世話をする彰子は、学びの席でまひろと二人きりになったとき「帝は亡くなられなどはなされまいの。帝を失うやも知れぬと思うと恐い」と不安を吐露します。二人の子を産んだとはいえ、まだまだ若い彼女にとって愛しい人の死は、想像すらでき兼ねます。それだけにシンプルに、そして漠たる不安が広がっていく自分の心中を持て余します。
悪い考えに取り憑かれると余計な恐れと不安も拡大します。「お傍にいるとき、時々、お顔色が悪く、息遣いがお苦しそうなときがあったのだけれど、大事ないと仰せゆえ、薬師に相談もしなかった。此度のことは私のせいだ」と自分を責め出します。あのとき、こうしていれば…とは、事態が悲劇的であればあるほど周りが陥りやすい感情ですが、困ったことに出口も答えもなく、自分を苛むだけです。
親しき者が理不尽に唐突に死ぬという体験を繰り返したまひろゆえに「そのようなこと、お考えになってはなりませぬ」と声がけし、「きっとご回復になりましょう」と励まします。とはいえ、彰子もまひろも、この言葉が気休めでしかないことはわかっています。特に直にその様子を知る彰子は尚更にり不安拭えない彰子の様子は、事の深刻さを物語っています。
そして土御門殿では、日記(「御堂関白記」)に「お上は尋常ではあらせられない。すこぶる重く病みなされた」(「頗る重く悩み給う」)と書きつけた道長の思案下な表情をカメラはゆっくりクローズアップしていきます。彼が、帝の病を好機としようとする、あるいはその算段を思案していく、その決意の経緯に合わせるようなカメラワークです。
道長がまず行ったのは現状把握です。道長は赤染衛門の夫、大江匡衡を内裏に呼び寄せ、此度の帝の病が暗示するものを易筮(えきぜい 算木による易占い)によって判じさせます。帝が床に就く部屋の傍らで、それを行うのは、それが正当な手順を踏んだ行為だからですが、一方でその結果を帝に受け入れてもらうという狙いもあるでしょう。どのような結果であれ、帝に譲位を決意させなければなりません。占いを秘匿するのは得策ではありません。因みにこの一件は、行成の「権記」に記録されています。
「一六天上水 二七虚空火 三八森林木 四九土中金 五鬼欲界土…」と真剣に占った匡衡、易筮は「代が変わると出ましてございます」と答えます。譲位を進めたい道長にとっては都合のよい結果ですが、匡衡の様子は芳しくなく、「どういうことだ?」と聞き返します。病を押して、几帳の帷の継ぎ目からそっと覗く帝も脂汗をかきながら気がかりな様子です。
「豊の明夷 豊卦は不快」、つまり卦自体は悪くはないが、気がかりな卦がある、と口にした匡衡、神妙な面持ちで「恐れながら崩御の卦が出ております」と答えます。さすがにこれは予定外。帝も道長も衝撃を隠せません。道長も帝に死期を悟らせることになるとまでは意図していなかったのでしょう。「ご寿命のことなぞ聞いておらん」と憮然とします。
しかし「それは重々承知しておりましたが、この卦も出てしまいました以上、お伝えせねばと存じます」と沈鬱に述べる匡衡。帝がこちらを窺っているのを承知のうえで、国難の兆しを無視することは出来ないというわけです。匡衡は、国という社稷に支える責務をよく弁えた実直な人物なようです。
世辞や誤魔化しのない匡衡の言葉だけに易筮の結果は重いもの…匡衡をじっと見た後、ふいに横を向いたのは事実に耐えかねたのかもしれません。「25年にも及ぶご在位ゆえ、ご譲位はあってもよいとは思っていたが…まさか崩御…とは…」と、譲位を望む自分の意が招いたかのような帝の死期に、運命の残酷さを感じざるを得ません。当然、帝は文字通り死に物狂いで敦康を東宮にするでしょうし、死にゆく彼の望みを蹴る非情さを道長は試されるでしょう。
匡衡曰く、この卦は「醍醐天皇と村上天皇のときと同じ」で加えて、「今年は三合の厄年(暦で一年に大歳・太陰・客気の三神が合することを指し、天災などが起きる大凶)、異変の年」だと指摘します。それゆえに匡衡は「御病の御平癒はならぬかと存じます」と、この卦は逃れ得ぬ運命であることを念押しされます。覚悟を促されたようになった道長は、匡衡を労い、下がらせます。
その後、道長は、遠目で思案する表情になります。事実に衝撃は受けたものの、結局のところ、敦成を東宮にするという、やるべきことが変わるわけではない。なれば、いよいよ時が来た…静かに覚悟を新たにしたのでしょうね。
一方、己の死期を知らされる形となった帝は愕然としたまま、目を伏せ、帷の奥へ下がります。内心の動揺を道長に悟られまいとする意識もあったかもしれません。カメラはその後、俯瞰の視点から肩を落とす帝の後ろ姿を捉えてから、茫然自失の横顔をクローズアップしますが、これは過酷な運命に翻弄され、受け止め切れない帝の様を表しているのでしょう。
以前より体調が思わしくない彼は、伊周の死に際して、「敦康を次の東宮にする道筋をつけてから、朕はこの世を去りたい」(第39回)と口にしました。つまり、自分の死期は遠くないという実感があったと思われます。にもかかわらず、それがすぐ目の前に迫るとわかったとき、それは受け入れがたいものとなっていました。このことは、どこか厭世的であった帝にとっても驚きだったかもしれません。
それから、しばらくしたある夜半。薄闇のなか、冠もなく一人臥所に佇む一条帝。己の病み衰えた手を眺め、何を思うのか。弱っていく自分自身を実感しているのかもしれません。あるいは、民のための政、その志も半ばのまま、何事も成し得ずに逝こうとしている自分の一生を思っているのかもしれません。その手でできたことも、その手のなかに残ったものも、あまりにも少ない。いや、寧ろ、何が残ったというのか…死期を悟る彼は一人、答えの無い自問自答を繰り返し、我が身の運の無さ、不徳、無力感と虚しさを抱えたように思われます。
ただ、帝が自分はまだ何もしていないと後悔や無念を感じるということは、逆説的ですが、まだ生きていたいという思いがあるということだともいえるでしょう。以前の彼ならば、死期が近づいていることは、決して哀しいことではありませんでした。定子とあの世、あるいは来世での再会を意味していたからです。実際、「枕草子」に心囚われていた頃、「生まれ変わって再び定子に出会い、心から定子のために生きたい」(第30回)と宣いました。今すぐにでも定子を追いかけたいというのが本音だったのです。
しかし、過去から解かれた帝は、今を生きています。それは、彰子の存在、そして元服した敦康の将来が大きく作用しているでしょう。彰子と共に子どもたちの将来を見届けるのも悪くないと思えるようになっていたと思われます。何よりも彰子は、彼の半生を「太宗皇帝と同じ」と認めてくれたただ一人の人です。生きていてよかった、彰子との縁があったことを心から喜べた瞬間だったのかもしれません。深く愛したいという気持ちが湧いたことは、閨での彼の言動に表れています。
とはいえ、それは叶わぬこととなりました。生きていることの喜びを感じたとき、死期を告げられる…運命の皮肉を感じざるを得ない。そんな感情も、今の彼にはあるかもしれません。
やがて、顔を上げた帝に浮かぶのは、穏やかな微笑です。そこには我が身の不運を嘆く自虐の色はわずか。寧ろ、わずかに残った命を生き切ろうとする静かな覚悟があるように思われます。たしかに、生きようとしたときに死が訪れることは無念です。
ただ、生きようと思えるようになったのは、彰子が認めてくれたことが大きいでしょう。何故なら、彼がずっと望んでいたものを彰子が与えたからです。言い換えれば、彼が見ていた病み衰えた手には何もないのではなく、たしかな自己肯定が、彼を受け入れてくれる彰子の無償の愛があるのでしょう。
もしかすると自分はちゃんと大切なものを手にしているということを感じたのかもしれません。それゆえに、彼は残りの命を「定子の遺児、敦康親王を東宮にすること」、これにかけようと前向きになれたのではないでしょうか。
幸い、「私はお上の心と共にありたいと願っております」(第37回)と中宮彰子は、自分の意向に寄り添ってくれています。それだけで十分、頑張れるような気分になっているかもしれません…無論、その一方で、自分をただただ慕う彰子を置いて行く侘しさもあります。ですから、その微笑には一抹の寂しさも宿っているでしょう。
こうして、5月27日。一条帝は、道長を清涼殿に呼び、震える身体を必死で押さえつけ、毅然とした態度を示すと「譲位すると決めた。ついては東宮と会って話がしたい」と道長に告げ、敦康を東宮に据えるため、最期の命を燃やそうとします。ただ、「承知つかまつりました」と答える左大臣道長は、その帝の意を挫く算段を始めているのですが…
2.友情の終焉の始まり
(1)帝の重病が招く波紋
帝が悲壮な決意を固めるなか、思わぬ形とはいえ、窺っていた機会が訪れたことを悟った道長の動きは、決意さえしてしまえば迅速です。早速、陣定で公卿らを招集すると、前置きもなくいきなり「御譲位の備えを始めたいと思うが、いかがか?」と本題を切り出します。顕光、実資、道綱の三人が心底、驚きの表情を見せ、対して四納言らがほぼ動揺を見せないのが対照的です。既に彼らは、道長が敦成を東宮にしたいという意向をプライベートの酒宴で聞かされています。言うなれば、あの宴は、このときのための根回しだったということです。
実資は即座に「帝はまだお若い!お加減が少し悪かったからといって御譲位に備えろとは何事か!」と、言語道断とばかりに激しく反論します。右大臣顕光は「帝が御譲位をお望みなのであろうか」と、風見鶏の発言。欲深い割に、自分の確固たる意見もなく、長いものに巻かれる彼の性質は、ここにも表れます。「そうではない。されどご在位から25年。東宮さまの御年も…」と帝の状況や意向を隠して、応じる道長を、実資は「考えられぬ!」と遮り、激高を隠そうともしません。
慣例や道理を重視する実資らしい意見ですが、それは裏を返せば、道長のやろうとしていることは、道理に適わない強引なものであるということを象徴しているのです。まして、敦康親王が東宮になることが既定路線を覆すことは問題外というところです。
そんななか、「東宮さまと離れられるのは嬉しいけどな~(笑)」と自分が居貞親王から圧迫されることから逃れられることだけを喜ぶ近視眼的な道綱が、公任に横目で冷ややかに見られ、実資に睨まれて恐縮するところだけが、このシーンでわずかに緩んだシーンです。おべっかを使って平身低頭するものの、居貞親王と敦明からプレッシャーしか感じていないのが道綱らしいですね。己を知る彼は、分以上の期待も仕事も栄華も望んでいません。ある意味、賢い生き方なのですけどね。
ただ、譲位の話で驚いた三人のうち、明確に異論を唱えたのは実資だけです。後は、意図的に呼ばれなかったであろう、敦康親王の後見人、隆家がどう言うか、ぐらいでしょう。「実資どののお考えはわかった」と、特に異論に対して怒るでもなく、「何か意見はあるか」と逆に広く求めようとします。
すると、俊賢は、待っていたかのように「左大臣さまの仰せのままに」と恭順の意を示します。続いて、出し抜くなとばかりに斉信が「御譲位もよろしいかと」と続き、その流れを念押しするように、公任が「仰せのままに」と述べ、三人は阿吽の呼吸で、この場の大勢をまとめていきます。これは、前回の宴のなかでのやり取りと呼応していて興味深いですね。
こうしたなか、宴の座でも曖昧に愛想笑いにするに止めていた行成だけが、不満と不審を顔に出し、何か言いたげにしますが、結局は何も言いません。無論、左大臣である道長の顔を立て、この場では反論しなかった、いうこともあるでしょう。
同時に、あからさまに帝の意向を無視した流れに、これでよいのか。これが道長の望むことだとしても、それが本当に道長のためになるのか、そして、帝を裏切ることが道長の真意なのか…言葉にならない思いが多々あったのではないでしょうか。帝への敬愛もあり、敦康親王の別当として心を砕き、そして、何よりも道長を想う行成は、他の三人の四納言たちよりも複雑な思いを抱いています。
帝の重い病状は、道長が何もせずとも、さまざまな人々がそれぞれに次の御代へと考えを巡らせます。だからこそ、道長は率先して動かざるを得ません。出し抜かれては、元も子もないのですから。
さて、その動きは、竹三条宮でも同様です。「父上のお加減はいかがであろうか」と心配する敦康親王には、父を心配する思いはあっても野心はありません。そうしう彼の心に添い「朝廷をあげてご快癒を祈っておりまする。ご案じ召されるな」と慰める隆家も、道長の権勢に逆らう意向はありません。前回、身を守るため喪中にもかかわらず、道長に拝謁したのも、その意思を明確にするためです。
それでも、敦康は「私はこの先どうなるのであろう…」と万が一について考えざるを得ません。元服前から道長からあからさまに邪見にされるようになっている身としては、致し方ないことでしょう。寧ろ、道長のせいです。事情を察することができる隆家は、敦康を痛ましげに見るだけで、何も言いません。どの答えも悲観的にならざるを得ないからです。
そうしたなかで、自信満々に「皇后さまがお産みになった第一の皇子さまが東宮になられるのは古くからの倣い」と正論を語り始めるのは清少納言です。ここまでは単なる正論ですが、その後に続く、「亡き皇后定子さまのお忘れ形見敦康さま以外のお方を帝がお選びになるなぞありえません」と、ある種恍惚とした物言いは、かつての一条帝と定子との華やかな美しい関係のみを思い浮かべてのものと思われ、少納言が現実を把握して発言しているか、やや危ういように思われます。彼女は自分の理想を語っているだけのようにも見えるのですね。
そのせいか、渋い表情をして「先走るでない!」と少納言を窘めたのは、隆家です。内裏の政治とは、少納言が口にする正論、道理だから通るというような単純ではありません。道長の今の権勢は、正論だけを振りかざす、あるいは強引な手法を取る…そうしたことだけで築いたものではありません。陣定を通して公卿らの心中を計り、掌握し続け、己の意を通すよう、深慮遠謀で心を砕き続けたからです。強運による一朝一夕で出来たものではない。
だから、彼は皇子が生まれたぐらいで左大臣の権勢は揺るがないと明言してきたのです。もし、衆目の考えるとおりに敦康親王が東宮になれたとしても、後ろ盾の弱い彼がその立場を維持できるかは極めて微妙です。ましてや、少納言が望む中関白家の輝きなどは夢のまた夢。
安易に敦康親王に夢を見させるような発言は、かえって敦康の心を惑わし、伊周の二の轍を踏ませるだけです。そこを隆家は危惧するのでしょう。幸い、二人のやり取りを眺める敦康は、いたって穏やかです。彰子が真心を注いで育てた敦康は、思慮深い若者となっています。
ただ、少納言の語る「第一の皇子が東宮になるのが筋」という正論については、衆目にはとっては疑うべくもない考え方だったようです(道長の野心を警戒する一条帝と伊周には安心できる規定路線ではありませんが)。ある日、仕事中、宰相の君に玉遊びをしてもらっている敦成を目に止めたまひろは、ふと以前、道長が彼女に漏らした「敦成親王さまは次の東宮となられるお方ゆえ」(第37回)という言葉を思い出しました。明らかに失言だったあの言葉は、本気なのかどうか…帝の病が思わしくない今、まひろもまた、あのとき自身が絶句した道長の野心めいた言葉が気になり始めます。
彰子の傍らにいれば、彼女が敦康こそが東宮と思っていることは間違いありません。帝が彼を可愛がっていたことも、藤壺にいればよくよく目撃していたことです。一方で、道長は「光る君の真似なぞされては一大事である」(第39回)など邪険にしています。果たして、道長は帝や彰子の思いを曲げてまで、自分の孫、敦成を東宮にするのだろうか、と思うのでしょう。まひろは、道長の心根の部分の優しさを信じているからです。
このように瞬間、悶々思いあぐねたまひろは、たまたま通りがかった宮の宣旨に「次の東宮さまは敦康さまでございましょうか?」と不遜な質問をして、宮の宣旨をぎょっとさせます。一条帝がご病気とはいえご存命、譲位の意も示していない段階で、次の東宮について語るなど不敬にもほどがあるからです。ただ、そこは知りたくなるのが人情、「恐れ多い、控えよ!」と一先ず叱ってから、囁くように「我々が考えるのも恐れ多いことであるが、まあ、敦康さまであろう。第一の皇子におわすゆえ」と笑います。
こういう、規律決まりに厳しいだけでないところが宮の宣旨の懐の深さですね(笑)噂話の好きな、口さがない女房たちの倣いなどは百も承知でいるのでしょう。自分の考えを述べた後、「そのことより帝のご平癒を祈るがよい」と釘を刺すのを忘れないあたりもさすがですね。
ただ、まひろはこの宮の宣旨の言葉で、衆目の多くが、次代の東宮は敦康親王と考えているだろうと察します。無論、まひろにもそれが道理であることはわかっています。それでも確かめずにいられなかったのは、道長が無謀なことをしているのではと心配になったからかもしれません。
(2)理想と現実の狭間にいる行成の懊悩
その道長は、道理のほうを自分に合わせるために、腹心である四納言たちを土御門殿へ呼びます。今日は宴の用意はされていません。先の陣定めの御譲位の話題、そして近々の宴での「できれば、俺の目の黒いうちに敦成さまが帝とお成りあそばすお姿を見たいものだ」(第39回)という道長の言葉を知る彼らには、用件は承知しています。公任が「今宵、我らが呼ばれたのは敦成親王さまを次の東宮にするという話しか?」と聞くのは、単なる確認です。
道長は公任の問いに、まず「易筮(えきぜい)によれば、今後、帝がご政務に戻られることはない」と、最早、禅譲は既定路線であると伝えます。これに対して、斉信が「易筮が出たことを言えば良かったのに…」と不思議そうにするのは、最初からそう言っておけば陣定がスムーズに進み、実資も強硬な反論をすることもなかったと思うからです。
「まずは皆がどう思っておるか、知ることが大事と思ったのだ」と答える道長は慎重です。皆の意見を知ることが大事とは、聞こえが良いですが、最終的には反対意見をねじ伏せるつもりですから、聞く気はありません。道長の言葉は、要は観測気球を上げて、反対者が誰か、その程度を見て、対策を立ててから本格的な譲位の議論に臨もうということです。結果的には、強硬に反対するのは実資のみ。後は隆家次第というところです。
しかし、思わぬ反論を言い出したのは、ずっと怪訝な表情をしていた行成です。彼は「次の東宮は、第一の皇子であるべきと考えますが…」と控えめな物言いをしながらも正論を述べ、この流れを諫めようとします。
しかし、既に前回、「お力添えいたします」と真っ先に賛同した俊賢が「第一の皇子の敦康さまの後見人は隆家どの。あの罪を得た家の者でありますぞ」と問題点を指摘します。許されたとはいえ、罪人の家が後見の皇子が東宮となるのは、無用の混乱を招き、縁起が悪いというのです。
俊賢自身が、安和の変で失脚した源高明の息子です。父への敬愛は今も変わりません(第34回)が、事実上の流罪となった自身の家がいかなる苦労になったか。ここまでの地位になることすら並大抵ではなかったでしょう。罪を得た「家」の復権が何故難しいか、それを俊賢はよく知っていて言っているのです。明子と道長が結ばれたことは、彼からすれば家柄ロンダリングの意味合いもあったでしょう。
俊賢の理屈には一理あるうえ、俊賢は行成が蔵人頭になるときに推挙してくれた恩人。反論は憚られるところですが、それでも行成は「されど、強引なことをやって恨みを買えば、敦成さまにも道長さまにも何が起きるかわかりません」と懸念を示し、今度は情で訴えます。
行成が引き合いに出したのは、先の呪詛騒ぎの一件です。ただ、道長がこうした禍を覚悟してでも敦成を東宮にしようとしていることもよくわかっていると察せられます。ですから、行成の本意は、道長は謀によって慣例を曲げるような遣り方ではなく、正攻法で正々堂々とした政をすべきだと諫めることかもしれません。
そんな行成を道長は静観し、何も言いません。行成の正論は百も承知。敦康親王の別当であり、帝の信任篤い、心優しい行成が、このような反論をするのも織り込み済みでしょう。一々、もっともな意見である彼の反論に口を挟まず、この謀に積極的に加わらせないようにしようと考えているのかもしれません。寧ろ、こうして反論を率直に言う行成を大事にしておきたい。それゆえに道長は、行成を叱ることも説得することもしないのでしょう。
議論では埒が明かないと見た斉信は「ここでこの話を聴いた以上、俺は敦成さまを推す」と、ここでも俊賢に乗っかる形で協力を申し出ます。道長が、こちらを頼りにするならば乗ろう、それが自分たちの繁栄になると賭けるというわけです。
腕を組む公任は、元よりそのつもり。寧ろ、他の三人よりも、道長がここに自分らを呼んだ意図を理解しています。道長の策は、陣定の総意をもって、帝を圧迫することで帝から敦成を東宮にする言質を取るというものでしょう。公任らを呼んだのは、その根回しを依頼するためです。ですから、「実資さまと隆家は我らが説得いたそう」と、陣定内での障害を取り除くことを約束するのです。
調略を得意とする俊賢は、公任の言葉に合わせるように「お任せを」と自信を覗かせ、自分たちは道長と一心同体であることを強調します。それぞれに売り込みが上手いところですね。公任は、実資と同じ小野宮流の家系で縁が深く、隆家に対しても以前、伊周のことを報告するよう指示したことがあります。また俊賢は、かつて、出仕しない伊周・隆家兄弟を口車に乗せて参内させたことがありました(第19回)。彼らに任せておけば問題ありません。
皆を見回した道長は、ただ「頼む」とだけ。彼の覚悟が確かなものであることは、四納言に伝わったでしょう。ただ、自分の必死の諫言も、いなされる形で道長には聞き流されてしまった行成の胸中は複雑で、憮然として俯くしかありません。さすがに気の毒に思っただろう斉信は「お前は無理せずともよい。俊賢に任せておけ」と気遣います。
瞬間、不安げに俊賢を見、そして道長をチラリと見て顔色を窺う行成の表情には、苦悩の色が見えます。道長の役に立ちたいという無償の思いもまた行成の本心です。道長が権勢を盤石にしようという肝心、要のときに何の役にも立たないことへの忸怩たる思い、申し訳なさが表情に表れます。彼はただ、何の憂いなく、自分が憧れた優しく真っ直ぐな道長の役に立ちたくて、諫言したのではないでしょうか。
ある意味において、彼は未だ少年のような憧れをもって道長を見ていたかったのかもしれません。そう考えると、道長の同期のなか、彼だけ未だに髭を蓄えていないのは、一番年下というだけではなく、その純真にあるということも察せられますね。
さて、会談後の渡りでの四納言、公任は「恐らく崩御の卦も出ておるのだろう」と、道長の謀の背景をも察します。これには行成も気づいていたようで「言霊を憚って道長さまはそのことを仰せにならなかったのだと存じます」と応じます。「光る君へ」の道長は、信心深い史実の道長よりも死を恐れない傾向がありますが。それでも不吉を避けようとしたのは、この一大事だけは失敗が許されないとの覚悟から万難を排している思われます。
ふと気づいたように斉信が「お前…言ってしまったじゃないか、今…」とギョッとしたようにツッコミをいれますが、当の公任は「いけない、いけない」とうそぶきながらも、まったく悪びれていません。公任が道長へと平然と寄り添えるのは、たとえ相手が帝であっても政は政であると割り切れるドライさがあるからでしょう。
公任の様子に「崩御なら話は一気に進みます」と、先を歩いていた俊賢が、三人に背を向けたまま答えるのが印象的ですね。俊賢は、公任ほど不謹慎でもドライでもないからこそ、敢えて口にしているのです。振り返った俊賢は静かな真顔で「それもやむ無しかと」と述べ、三人に覚悟を決めるべきと促します。腹を決めた俊賢は一礼して帰ります。覚悟の定まらぬ行成は微妙な顔にならざるを得ませんが、公任はそんな彼の肩を叩き「大丈夫だ、俺たちに任せろ」と言うように気遣います。
(3)自身の選択に傷つく行成
道長に譲位の意向を告げ、東宮と会う算段もついたある日、帝は敦康親王の別当である行成を呼び出します。「病に臥し、譲位も決まり、最早、己のために望むものはない」と話し始めた帝の言葉に嘘はないでしょう。先にも述べましたが、そこには因果を思う諦めと、その一方で不甲斐ないながらも必死だった自分を彰子が認めてくれた…その救いがあったと思われます。十分なものを得たと思える面があったから、己の命すら執着を持たなくなったのでしょう。
ただ、わざわざ行成にそれを切り出したのは、自身の命にすら執着がなくなってもなおある心残りのためです。クローズアップされた震える帝の表情は、必死で身体を持たせようとして悲壮感が一層、高まります。そして、絞り出したのは「ただ一つ、敦康を東宮に…」、このことです。
皮肉にも、帝からの信頼が篤いゆえに、行成は望まない選択へと追い詰められてしまいます。御簾越しの帝は、表情を曇らせる行成に気づかず、できる限り穏やかに、そして丁寧に「どうかそなたから左大臣に…」と懇願しようとします。道長を敵に回しては、たとえ敦康が東宮となったとしても先はありません。そうわかるからこそ、穏便な手段を帝なりに講じようとしているのです。そのためには、行成だけが信頼できる頼みの綱。だから、真心を伝えようとするのです。
無論、行成には、帝の苦しみと必死さも、敦康親王への思いも、死を前にした悲壮感も、そして、難しい依頼を行成にしなければならない申し訳なさも、ひしひしと伝わってきたのでしょう。曖昧な答えも誤魔化すような物言いも、非礼になるだけです。事ここに至っては、行成も覚悟を決めるしかありません。行成も、政を安定させる方法は、道長の側にあることを理性ではわかっています。
行成は、まず「お上の敦康親王さまをお慈しみになる心、真にごもっとも。この行成、ひたすら感じ入りましてございます」と、帝の思いを聞いた自身の偽らざる思いを一気に吐き出します。この言葉に、味方を得たように微笑し「ならば…」と言いかけ、一縷の望みにすがった表情が、あまりにも哀しく切ないですね。
そして、そんな帝の言葉を「されど!」と遮る行成の悲痛な思いも哀しいものです。帝の思いを痛いほどわかるゆえに語った帝への敬意は、彼なりの帝への決別の言葉です。死を前に息子を思う必死な人間に、情ではなく屁理屈をもって、説得にかかるのです。
「お考えくださいませ」と続ける行成は、淀みなく「清和天皇は文徳天皇の第四の皇子であらせられたにも関わらず、東宮となられました。それは何故か。外戚の良房公が、朝廷の重臣であったゆえにございます」と、人臣で初めて摂政となった藤原家中興の祖、藤原良房の先例をあげます。彼が摂政になったことは、即ち、皇族と藤原北家との関係が逆転したことを象徴しています。
帝とは、治天の君でありながら、藤原家なくば、その立場も存在も維持できない…これが現実なのです。以前のnoteでも触れましたが、天皇親政と言われた醍醐帝の延喜の治ですら、藤原時平の妹を中宮とし、その子を東宮とすることで成立していました。
行成は、世の倣いによる政の現実的な道理を説くと、「左大臣さまは、重臣にして敦成親王さまの外戚。敦成親王さまが東宮になられる道しかございません!」と、敦康親王が東宮になる芽はまったくないと明言します。
行成が哀しいのは、古典にも歴史にも造詣が深く、和歌にも長けた教養人の彼が、誰よりも帝を説き伏せる材料も理屈も雄弁さも兼ね備えていたということです。ただ、その心根の優しさ、道理を弁えた控えめな人柄ゆえに、そうした強引な手に出ることを好まない。出来てしまうからこそ、帝を深く傷つけることをやりたくなかったのでしょう。しかし、東宮を巡る道長と帝、それぞれの強い意思は、結局、嫌がる行成を、その駆け引きの最前線に引きずり出してしまいました。
行成の説くことは、道隆の専横を止められず、道長の権勢に阿らざるを得ない自身の現状から、帝自身がよくよくわかっていることです。そもそも、行成に道長への根回しを頼んでいること自体、道長の権勢なくして、東宮位も形にしかならないことを自覚しているからです。
単に敦康を東宮にするだけなら、強引に宣旨を出せばよいだけです。伊周亡き今、敦康を帝にするためには、最早、東宮になった敦康を、道長が引き続き後見してくれる以外にはありません。
今更、言われるまでもない理屈を、確かな根拠を用いて、筋道立てて説得に出た行成に対して、帝はそれに抗する術はありません。まして病み衰えた彼には、腹芸など駆け引きをする余力もありません。苛立ちから「朕は敦康を望んでおる!」と激昂し、感情的に脅すことしかできません。しかし、感情を高ぶらせた反動で激しく咳き込む彼は、自身の怒りを保つことさえままなりません。
その痛ましい姿に気遣わしげに顔を歪めた行成は、それでも説き伏せる手を緩めることな「恐れながら、天のさだめは人知の及ばざるものにございます」と述べ、天運を持つ者の意には、誰も逆らえないのだと伝えます。ここで行成の言う「天のさだめ」を持つ者とは、帝位に就く人物ではなく、政の頂に立つ道長を指します。
これは強ち間違いではなく、説得のための方便とばかりではないでしょう。道長は嫡妻の産んだ三男。本来であれば政の頂に座る可能性は限りなく低いものでした。それが相次ぐ兄の死で、その座に上り詰めるに至ったのは運という他ありません。
「光る君へ」の道長も、当夫婦共々出世はほどほどにしか望まず、内覧右大臣になったときも本人にその意思はなく、当人が道兼の死で放心状態のうちに決まりました(第18回)。詮子が奔走したに過ぎない…そういう描かれ方をしました。
また内覧右大臣になったとはいえ、それは一時的なもので、時が経てば、直系の伊周がその座に就く可能性は高く、そうなっていれば、敦康親王は東宮になる規定路線は守られたでしょう。
では、道長は己の首座のために伊周を争ったかと言えば、そうではありません。伊周は、道長の預かり知らぬところで勝手に自滅しました。斉信と詮子の暗躍は道長の意思ではありません。だとすれば、道長が今、政の頂点にあるは、天の配剤と言えます。結果から言えば、道長は己の宿命を受け入れ、たゆまぬ努力をしてきたのです。
天命を受けたのは、帝ではなく道長…この不遜とも思われる行成の発言に、帝は思わず睨むように見ます。しかし帝位に就く天運にありながら、その宿命に耐え兼ね、逃げようとした一条帝は道長の真逆を進みました。今更、道長の権勢に叶うはずもないのですね。
それゆえに「敦康親王さまを東宮とすることを左大臣さまは承知なさるまいと思われます」という行成の言葉は、最後通牒として帝に深く突き刺さります。天命を受けた道長の意は、帝の意を上回る…その現実の重さに帝は愕然とし、激しい怒りに駆られます。
「なにとぞ…」と賢察を促す行成の言葉に身体を震わせ、溢れる感情に声も出ません…しかし蝕む病魔に勝てぬのか、これが自分の運命と悟らざるを得なかったか…やがて、ガックリと肩を落とすと「わかった…下がれ」と、遂に諦めの言葉を漏らします。それは同時に敦成を東宮にすることをしぶしぶ認めたことを意味します。
無論、帝も自分が決定をくだしたことを理解しています。行成が下がると、死期の近い我が身の運命、不甲斐なさと無力感、そして、何より敦康の将来を思い、悲嘆に暮れます。かつて、帝は「女一人守れぬのですよ」と母詮子に己の無力を自虐しましたが、その息子すら守れなかった。その胸中、察するに余りありますね。
因みに、この行成が帝を説き伏せるくだりは、史料に倣うものです。ここでは出てきませんでしたが、敦康の処遇について行成は、格別の年官、年爵を授けて、相応に扱うよう進言しています。これは、帝への譲歩、交渉条件と考えられます。
しかし、本作の行成は、帝に申し訳ない気持ちを終始抱きながら、涙ながらに帝の心を折った人物です。その彼が、この後に敦康の処遇について進言したとしたら、それは罪滅ぼしだったかもしれません。行成は、敬愛する帝を、道長のために傷つけたこの説得は、行成自身を深く傷つけたのではないでしょうか。
さて、帝から内々の言質を取った行成は、人目を憚るように小走りで、道長の執務室へ急ぎます。有益な情報は迅速に扱い、必要最低限以外に秘匿しておくことが望ましい。謀に動いたときの行成の言動は適切です。他の四納言も及ばぬ有能さ、そして決して道長を裏切らない忠節さが、こうした些細な描写にも表れます。一事が万事です。
そして、声を潜めながら「お上がただいま…敦成様を東宮にと仰せになりました」と報告する行成に、驚きで目を見開き、固まります。やがて文机を叩き、さまざまに押し寄せる感情に耐えるように背を丸めます…おそらく道長は、難儀するであろう帝の説得について、あれこれ思案しては悩み、不安を抱えていたのでしょう。
公任らが公卿を説得してくれ、公卿全体の意見で譲位を迫るにしても、敦成の東宮位を正当化するか方法、理屈はなかなか思いつかなかったと思われます。行成の理屈も行成だから上手くいくのであって、道長が言えば、強者の開き直り、盗人たけだけしい、になりかねなものです。しかし、肝心要の一手を打つのは自分しかいないと重い極めていたでしょう。引導を渡す罪深さも為政者の務めですから。
その悩みも不安も憂鬱も、行成の報告で一気に解けていきます…しかも、今回ばかりは手は借りられないと思っていた行成が、最大の難事を引き受けてくれたのです。安堵と友情な対する感謝で道長は「…く…なんと…」と初めは言葉になりません。
やがて、気持ちを落ち着かせた道長は行成を見ます。行成は、間違いないとばかりに頷きます。道長は一言、「またしてもお前に救われたか」と感慨深そうに言います。そう、行成が、政の重要な局面で何度か道長を救っています。その最たるが、一帝二后での帝の説得です。ですから、この場面は、その報告の場面(第28回)と対称をなしています。
一帝二后のとき(第28回)、行成は道長をひたすらに信じ疑念を持つことはありませんでした。あのときも帝に対して行成は、かなり厳しい諫言をしていますが、それは過去に囚われ政を疎かにする帝を正しき道に戻したいという思いがあったのです。つまり、道長の策は帝の御ためにもなっていました。だから、それをなしたときの行成の表情は、喜びに溢れていましたね。
しかし、今回は利するのは道長のみ、死に逝く帝は心を深く傷つくだけです。さらには無理を押し通すだけのもの。報告する行成の心は晴れません。臣下として敬愛する帝の一番の望みを挫いたこと、敦康親王の別当でありながらその将来を閉ざしたこと…帝を説得した行成もまた此度のことで深く深く傷ついているのです。
そんな行成に道長は自ら近寄り、「行成あっての私である」と肩に手をかけ、微笑します。その微笑と肩に手を置く気安さには、「反対してくれてもやっぱり行成は俺の味方だな」という安心と「持つべき者は友」という感謝が滲んでいます。それはよく言えば「信頼」、悪く言えば、無邪気すぎる友情観かもしれません。何故なら、道長の感謝には、意を曲げた行成の傷心が見えてはいないようだからです。
因みに似たような場面は、あの時(第28回)にもありました。道長は、若き日からの行成の手助けをよく覚えており、「今日までの恩、決して忘れん」とガッシリと手を握りました。行成もまた「おお…」と感嘆し、道長を見返したものです。
さらに道長は「そなたの立身は勿論、この俺が。そなたの子らの立身は、俺の子らが受けよう!」と、俺とお前は末代まで一蓮托生だと永遠の友情を誓いました。行成が感激したのは言うまでもありません。あのときの二人はたしかに通じ合い、二人ともその友情を信じたと思われます。
しかし、今、道長の微笑に笑い返す行成の表情には無理が見えます。行成の思いが複雑なのは、道長の窮地を救った満足、喜ぶ道長を見られた喜びも行成にはあり、それもまた真実であることです。ですから、無理もあるその笑顔に嘘も愛想もありません。
ただ、道長の幸福の影で悲嘆にくれた帝の様子は御簾越しでも行成の心に焼き付き離れないでしょう。その悲嘆の姿がもたらす耐え難い罪悪感。無上の喜びと奥深い罪、その二律背反の苦しみが行成の複雑な笑顔は表しています(渡辺大知さんの名演)。
道長は、行成の笑顔の奥にある懊悩が見えません。それよりも、行成の示してくれた友情への嬉しさから、善は急げと「ようし…中宮さまにご譲位と敦成さまが東宮となられることお伝えして参る」と言い、立ち去ります。行成の温情を無にしないという、道長なりの配慮ですが、それは行成の心情とはすれ違うものでした。
それは、道長が去った後、一人部屋に残された行成が、板挟みの果てに自分がしてしまったことの重さに天を仰ぎ、俯く…といった仕草に表れています。風に揺られる葉の音が、穏やかならざる行成の胸中を仄めかしているように思われますね。行成は一人でこの思いを抱える他ありません。
もしも、道長が行成にかける言葉が感謝ではなく「すまぬ…」という詫びを含む労いであったのであれば、罪を共有する分、行成は救われたかもしれません。
かつての道長はそうした可能性があります。しかし、今の道長にはそれが思いつかない。行成の献身を当たり前にしてしまう、為政者の無意識の傲りが察せられます。道長という光は、行成の心、そして、二人の友情に影を落としたのではないでしょうか。
3.敦成東宮決定の反動
(1)彰子の慟哭
敦成が次の東宮…喜び勇んで藤壺へ報告に上がる道長は、敦成の母である当の彰子から「なにゆえ、私に一言もなく、次の東宮を敦成とお決めになりましたのか!」と思わぬ叱責を受けます。まあ、「思わぬ」と感じているのは道長だけで、視聴者から見れば、さもありなん。我が子が東宮に就くことを喜ぶものとばかり思っていた道長は、これまでにみたことのない彰子の怒りに目を丸くして戸惑います。真剣に何故、怒っているかがわからないのです。
ここには、道長の「常識」が窺えます。一つは、東宮を決める政に何故、彰子の意向を確認する必要があるのかということです。彰子の入内については、とりあえず母倫子の意思を確認しましたが、これはまだ彰子が私人だったからです。それでも、政のためと決めた以上、決定を通告するだけでした。今回は、徹頭徹尾、政です。
政は男の生業…そう信じているからこそ、彰子への事前の根回しの必要性を感じていません。無論、これは道長に限らず、当時の貴族たちの大半の当たり前ですから、致し方ありません。ただ、この場面では、政は男の生業…この理屈が、彰子の心を挫きますから注目しておいてよいように思われます。
そして、もう一つは道長の「常識」は、「母というものは我が子が一番かわいいに違いない」という無意識の思い込みでしょう。そもそも、母親が産んだ子に先天的に愛情を注ぐという発想自体、現代では悪しきジェンダー観というものですが、ここでは産みの親より育ての親、産みの母より育ての母、という話でしょう。
ただただ敦康の彰子への思慕を危険視し、たびたび牽制するのは、まひろの「物語」にかぶれているからだけではありません。義理の親子であっても、年月と交わし合うやり取りで強い絆が生まれる…それは、生まれたばかりの我が子との関係以上になることもある…そんな簡単なことを道長は見落としています。
彰子の怒りに道長は「帝の仰せにございます」と伝家の宝刀で収めにかかりますが、これが火に油。「病でお気持ちが弱っておいでの帝を、父上が追い詰めたのですね」と確信をもって答えます。この言葉からは、彰子が、帝と道長の間に緊張関係があることを承知していること、父親が手段を選ばないことを察していることが窺えますね。
しかし、幸い、行成が帝をどう説き伏せたかを知らない道長は「帝のお考えと申しております」の一点張り。「信じられぬ!」と叫び「帝は敦康を次の東宮にと、私にも仰せであった。お心が変わるはずがない!」と返す彰子は、閨にて帝の意向を聞いています(第38回)。当然、道長の手には乗りません。
因みに彼女は、帝の意向に対して「お上の心と共にありたいと願っております」(第38回)とその思いを告げています。そこには、愛しき帝への純情と、「闇を照らす光」となってくれた敦康への親心があります。
つまり、彰子の激しい抵抗は、父への怒りだけではなく、「お上の心と共にありたい」という決意を貫き、弱った帝に代わって、敦康を守ろうという戦意もあると言えるでしょう。
そんな娘の強い決意を知らぬ道長には、癇癪を起こしたようにしか見えず、「お怒りのわけがわかりませぬ。敦成さまは中宮さまの第一の皇子であらせられますぞ」と、喜ぶべきことではないかと訝りながら宥めに入ります。一見、正論ですが、道長の発言は、帝と彰子の間でようやく育まれた夫婦の情愛があることに全く気づいていませんね。
しかし、帝が前向きになり、彰子との間に二子を設けるに至ったのは、彰子の真心に帝が気づき、その後もその真心を貫いているからです。今回、彰子の「帝=太宗」という発言に、帝が素直に感動したのは、既に彰子に胸襟を開いているからです。かつて、まひろが、「物語」は何もしていないと語ったとおり、彰子が帝と愛情を育み、道長の栄華はそれに支えられていると言えそうです。道長が、こうしたことに気づけないのは、彼自身が二人の妻から強く慕われながらも、深い関係を築こうとしなかったからかもしれません。夫婦関係に疎いのは必然でしょう。
まひろが横目で顔色を窺った彰子は、道長の空々しい正論にも怯まず「まだ4歳の敦成を今、東宮にせずとも敦成にはその先が必ずあります」と、理をもって堂々と反論します。幼子である孫を政治に利用するのか、という敦康の実母としての非難を言外に含ませた、この言葉は道長の語る理屈に対して反撃になっていますね。彰子は、周囲が考えていた以上に賢く、その聡明さは日に日に増しているのでしょう。
「それに!」と強調する彰子の反論は、ここからが最重要。「私は敦成の母でもありますが、敦康様の母でもあるのです!」とねじ込むと「敦康さまをご元服の日までお育て申し上げたのは、私でございます」と、自分には敦康の将来にものを言う資格と責任があると告げます。
ここには、敦康親王に愛情を注ぎ、精根を傾けたのは父上ではなく自分、貴方は何もしていないではないか、という自負も覗かせていますね。
ここに来て、ようやく道長も彰子の反論の理由を理解した表情になります。彼は、詮子の助言で嫌々、敦康を人質にしたのですが、ただ、それは彰子に敦康を押しつけ、後はたびたびご機嫌伺いをするというもので、彼自身は距離を置いてきました。だから、彰子が情をそこまで情を注ぐとは考えもしなかったのでしょう。人は往々にして、人も自分と同じ見方をすると思いがちですから。
さて、「二人の皇子の母である私になんの相談もなく、次なる東宮を敦成とお決めになるなぞ、とんでもなきこと!父上はどこまで私を軽んじておいでなのですか!」と、この決定は、中宮としての彰子、母としての彰子、どの彼女の立場と自尊心も傷つける不敬な行為であると糾弾します。
彰子の怒りとは裏腹に、彼の顔は無表情になっていくのが印象的ですね。冷徹な為政者の顔になっていくそれは、同時に耳朶を打つ彰子からの非難に対する動揺を押し隠す意味合いもあったように思われます。特に「どこまで私を軽んじて」いるのか…という言葉は、道長は普段から自分を軽んじていると彰子が認識していたことを指し示しているからです。この言葉が道長に響くのは、少し前に妍子から似たような指摘を受けていることかささやかに関係していそうです。
その日、東宮に会いたいという帝の意向を伝えるため居貞親王のもとを訪れた折、親王の勧めもあり、彼に嫁いだ次女の妍子を訪ねました。この機会を利用し、道長は、浪費に精を出す娘に忠告しましたが、妍子は「つまらんことしか申されぬのならもうお帰りください」とけんもほろろ。
それどころか、「父上の御ために我慢をして年寄りの后になったのです。これ以上は我慢はできませぬ」と、自分を道具にするからこうなった、浪費は父上のせいだとうそぶきます。さらには「あーあー…どうせなら敦明様がようございました〜」と本音と不満を当てつけ、道長を「あ、あつ…」と絶句させます。
彰子入内は、国の安寧をはかるための苦肉の策でした。当時、定子の衝動的な落飾と帝の厭世的な態度によって、朝廷は機能不全を起こしていました。晴明や詮子が勧めたように、あのとき、それ以外の最善の打開策はなかったのです。良心と娘を思う親心から、道長も散々、思い悩みました。入内を心に決めて後、「これは…生贄だ」(第28回)と倫子に言ったのも、娘を政に捧げる自分の罪を意識していたからです。
ときが立ち、彰子入内によってもたらされた幸福は、あのときの悲壮感を忘れさせているのではないでしょうか。妍子の東宮への入内には、そこまで差し迫った状況はありません。にもかかわらず、当たり前のように娘を嫁がせています。倫子も特に反対はしていないようです。つまり、道長は妍子の意思を踏みにじっている、人生を犠牲にしている自覚が薄いだろうと察せられます。
父の忠告を聞き流す妍子の妄言は、自分をぞんざいに扱う周りに対する鬱屈から来るものです。敦明に向ける熱い思いを隠そうとしないその様には危うささえ感じさせます。
道長は、敦康が「光源氏(敦康)→藤壺中宮(彰子)」を危惧していますが、妍子の恋慕が高まれば「藤壺中宮(妍子)→光源氏(敦明)」という逆光源氏が起きかねない様相だったりします。さすがにないと思いますが、万が一、敦明との間に不義の子が生まれれば道長には手痛いしっぺ返しになりますね(苦笑)
話を戻しましょう。道長は、妍子から軽口めいた言い方ではありますが、入内した女の鬱屈を直に聞かされました。それは、質を異にするとはいえ、姉詮子も抱いていたものです。そして、今、生贄と覚悟して差し出した彰子から、娘を蔑ろにしていると指摘されたのです。これは痛恨だったのではないでしょうか。
ワガママな雰囲気の妍子と違い、彰子はおとなしく従順な娘でした。入内して後も決してワガママから周りを困らせることはしませんでした。それがまた不憫にも見えたものですが、それは、強い意思を示して来ない彰子に甘え、彼女の憂鬱の真を知ろうとしなかった怠惰と表裏をなしています。
「仰せのままに」としか言わない娘を、意志薄弱だと決めつけて嘆きはしても、その奥底にまでは踏み入ろうとはしませんでした。そもそも、意志薄弱ではなく、自分なりの考えを抱え、思慮深くしていただけたということも、道長は知りません。そもそも、それがさだめだと受け入れ、従順であるからといって葛藤がないわけではありません。
また相手にされないことを仕方がないと頭で理解していても何も感じないわけではありません。おそらく、ひたすらに長い時間を孤独に過ごすことは耐え難いものがあったでしょう。彼女を気にかけ、たびたび訪れる母、倫子はともかく、自分をここへ送り込んだ父、道長には複雑な思いを抱くこともあったでしょう。
また、敦康が彼女の光となったのは、藤壺での孤独を侘しく、寂しく感じていたからです。このことは、第38回に閨のなかで、彰子は帝に話していますね。彰子のなかにある本当の心に気づいたのは、まひろでしたが、もう一人いるとするなら、彼女の真心に触れていた敦康親王だけです。
彰子と敦康、寂しく孤独な二人が互いを支えあい母子として、日々を過ごし、気持ちを通わせて生きてきたのです。そこに真の親子愛が生じることは不思議ではありません。母の愛が産んだ子に対する自然発生的なものと思う道長には、長い年月を経て育まれた二人の関係の深さは予想外だったのでしょう。
こうして道長は、今更になって、彰子もまた、入内を快く受け入れたのではないこと、軽んじられていると感じていたという事実を知ったのです。そして、自分が与えた彰子の孤独感ゆえに、敦康との間に強い絆が生まれたことも突きつけられました。
憐れな娘を何とかしたいと奔走した道長の気持ちは本物ですが、彰子の気持ちを知り、寄り添おうとしたものではありません。ですから、その親心は彰子には届きません。
道長は、彰子の入内で感じていた、娘を生贄とする己の罪深さを再び、思い返すことになったと思われます。しかし…道長に後戻りは許されません。単なる現状としても、多くの公卿を味方につけ、準備は万端です。ここまで来て情に流され、方針転換しては、政に混乱を招き、自身の求心力を失います。それほど権力は水物だと、慎重な道長は考えているでしょう。
また、敦成を東宮に据えることは、民を救う政という長年の志の一貫です。その志のために、倫子に婿入りし、明子を妾にし、彰子を入内させるなど手を汚し、苦渋を飲み、苦難に耐え、多くを犠牲にしたのです。それらを無にすることだけは、道長にはできません。まひろとの約束が彼のすべてだからです。
ですから、「帝にお考えをお変えいただきます!」と、出ていこうとする彰子の袖を、道長はガッチリ掴み、引き留めます。中宮に対して不敬とも取られる行為を実にあっさり、平然と行います。政が第一、目的のためであれば、さまざまな慣例も決まりも障害とはなり得ない。かつての兼家にも通ずるそれは、道長が長年の政のなかで自然と身につけた為政者としての振るまいです。
カメラは、同じ横ラインに並ぶ道長と彰子を真正面に捉え、やがて道長が立ち上がって彰子と並ぶさまを映します。二人が対等の立場で対峙したことを画面構成で示します。道長は、初めて父娘ではなく、形ばかり中宮として奉るではなく、政敵として彰子を眺めます。
左大臣としての冷淡な表情を彰子ナメのレイアウトで強調された道長は、中宮を見下げるように「政を行うのは私であり、中宮様ではございませぬ」と平然と言い放ちます。心ならずも左大臣として政敵を潰し、人の心を踏みにじった経験から得た冷徹な顔には、父の表情はありません。涙と怒りと驚きの入り交じった彰子、彼らのやり取りを見守るまひろ、冷たい眼差しのままの道長がそれぞれに映され、緊張が高まります。
結局、道長の長年の経験に裏打ちされた為政者の圧力、そして「女は政に関われない」という現実を目の当たりにした若き彰子は、それらに圧倒され、敗北します。左大臣の手を力一杯振り払うことだけが、彰子に出来た最後の抵抗でした。道長は敦成が東宮になることを一方的に通告し、去っていきました。
非情な振る舞いをし、去っていく道長を目で追うまひろでしたが、傍らの崩れ折れ座り込む音で彰子へと眼差しが映ります。ここには、道長を思いながらも、弟子(=彰子)への深い情もあるまひろの心境が表れていますね。彰子を捨て置くことはできません。
泣き崩れた彰子は「中宮なぞ何もできぬ!愛しき帝も敦康さまもお守りできぬとは…」と、初めて全力で戦った末の完敗に慟哭します。 なんの権限も持たない名ばかりの中宮という立場の虚しさ、悔しさ、怒り…どこにもそのやり場はない。まひろは彰子に寄り添ってやることしかできません。かつて、自分も味わったその無力感と虚しさは、容易に言葉にはならないことをまひろは知っています。まして中宮という女性のなかで至高の座にいる彰子です。その挫折感は、まひろのそれを超えているやもしれません。わかるだけに軽々しくかける言葉は思いつかないといったところではないでしょうか。
無言で寄り添う師まひろに彰子は「藤式部、なにゆえ女は政に関われぬのだ?」と根本的な問いを投げ掛けますが、まひろもその答えを持ちません。彼女自身が、ずっとその答えを探してきまし、今なお問い続ける生涯のテーマの一つでしょう。
文字を女児に教えても、貧窮に喘ぐ彼らには意味を成しませんでした。出来の悪い弟の出世に、女性である限りどれほど漢籍を学んでも虚しいと人知れず悩んだこともありました。宋の国に希望を見出だしたものの、現実はそれも挫きました。さまざまな挫折を味わいながら、まひろは少しずつ進んでいるはずですが、答えは悠久の彼方か、まるで見えません。
ただ、まひろが抱えた、女性に生まれたことの鬱屈は、「物語」を書きある程度は昇華され、また彰子に「新楽府」を教えることで次代につなぎました。出来のいい弟子が真綿が水を吸うように学ぶその姿は、初老に手が届こうかというまひろにとって希望になりつつあったと思われます。共に「新楽府」を朗読したとき、ある種の一体感もあったでしょう。
一方で彰子が「新楽府」を学ぶなかで、いつか女性と政との問題に直面する予感はあったのではないでしょうか。まさか、それが道長から与えられるとは、まひろにも予想外だったでしょうが。
因みに彰子が「女性と政」の問題に直面したことで「新楽府」は本当の意味で彼女にとって血肉になる学びになったと言えるかもしれません。学びとは、知り、理解することだけでなく、生かそうとすること、疑問を持つことが大切です。彰子は、今回、その疑問を持ちました。その意味では、彰子はようやく師であるまひろと同じ問題を共有し、本当の師弟になったかもしれませんね。
これからは、彰子たちが、自分たちの答えを見出だそうとし、そしてまた次代につなぐよう動いていくでしょう。まひろは時に同志のように、時に師として、彰子に助言していくことになるのではないでしょうか。もっとも挫折直後の今は寄り添い見守るしかない。それをまひろは経験則でわかっているように思われます。
ところで、「為政者が入内した娘を軽んずる」という図式は、かつて、父兼家が詮子にしたことと同じです。円融帝に毒を盛ったと知った詮子が、兼家と三兄弟の宴席に怒鳴りこんできたとき(第4回)、道長は怒り狂う姉を痛ましく思い、入内に否定的になったものです。
このとき、詮子は「帝と私の思いなぞ踏みにじって前に進むのが政」(第4回)と怨嗟を吐きましたが、蓋し名言であるのは、道長の敦成を東宮にする過程は、まさにこの言葉どおりだからです。詮子の悲劇を悲しんだ道長が、娘をその悲劇へと導いたのです。結局、歴史は繰り返すのか…とその皮肉を思わざるを得ません。
かの悲劇が、詮子を権謀術策の女院へと変化させたように、このたびの道長の所業もまた、同じことを引き起こすかも知れません。一条帝から三条帝へと譲位なされたその日、「東宮と決まりあそばしたること、おめでとうございます」と挨拶に来た道長に、彰子は「左大臣!」と呼び掛け「東宮さまを力の限りお支えせよ」と厳命します。
彼女は、最早、道長を「父上」とは呼ばないのかもしれません。道長は、左大臣という臣下の一人、政敵になり得る存在になったのでしょう。彰子は、まず父としての道長に訣別を告げたのかもしれません。
(2)居貞親王の懸念、敦康親王の諦観
敦成親王が次代の東宮。このことを驚き聞いた一人がいるように居貞親王です。6月に入り居貞親王は、清涼殿にて一条帝と拝謁します。道長が、譲位についての伝言を伝えにきたとき「して、それはいつだ?」と嬉しげに答えたばかりか「私は明日でもよい。それはないか」と不謹慎なことを口にするなど、喜びを隠しきれなかった居貞親王です。
「お久しゅうございます。御病のよし、心よりご案じ申し上げます」との挨拶も、践祚せよの命に答えた「仰せかしこまりましてございます。ご退位は真に残念なことなれど、この上はよき帝となるよう誓って励みます」との言葉も、用意してきた言葉を朗々と淀みなく読み上げるといった風(木村達成さんの練れた声が効果的)。彼は、長らくこの日を待ちかね、こうした台詞をずっと用意していたと察せられます。
そんな準備万端な彼が、訝しむ表情になったのは、次の東宮が敦成と決めたことを知ったときです。「承知つかまつりました」と、その場は平静装おった居貞ですが、愛する嫡妻、娍子の前では「敦康を退け、敦成を東宮にするとは…左大臣め、抜け目ないな…」と道長の野心を警戒する本音を漏らします。
「左大臣どのとは、仲良くなさったほうがよろしいのでは?」と穏やかに助言する娍子に「そうだな。ようやく私の世となるのだ。公卿らをまとめ、私の政を進めるためにも、左大臣を蔑ろにはできぬ」と、彼女を安心させるように言います。
「私の世」「私の政」「公卿らをまとめ」…これらの文言には、自らが親政を行う強い意思が窺えます。30代まで東宮に据え置かれた居貞は、一条帝の不甲斐なさを見て「私ならば…」と思うことは多々あったでしょう。その鬱屈が、彼に親政を望ませます。
そんな彼の「左大臣を蔑ろにはできぬ」という言葉は、「当面の間は」あるいは「私の意に添うようなら」といった条件付の話でしかありません。親政を行いたい彼にとって、現在、政の頂点にある道長は政敵になり得る存在。道長が、敦成を東宮にしたことは、左大臣は油断がならないという居貞の認識をより強める行為にもなっています。
それは「孫の敦成が東宮となれば、左大臣は早々に譲位をせまってくるやもしれぬ」と、道長の目的が摂政になることだと看破していることに象徴されています。彼の祖父にして道長の父、兼家のしたこと(寛和の変)を道長がしない保証はありません。「言いなりにはならぬ、私は今の帝とは違うゆえ」と娍子に言い切る居貞親王には並々ならぬ決意があり、道長の威を削ぐ方法を今から思案するものと思われます。道綱のように懐柔しやすそうな者たちに甘い言葉を囁いていたのも、道長に対抗できる状況を作る準備でしたから(道綱は嫌がっていますが)。
一方、敦成が東宮になることを静かに受け入れようとするのが、敦康親王です。叔父隆家の「無念にございます」、そして姉修子の「これが我らの宿命なのか」の言葉にも、穏やかに「致し方ありませぬ」と答えます。聡明な敦康は、彰子が懐妊したそのときから、こういう日が来ることを漠然と感じていたのでしょう。そのことは、これまでの言動からも察せられます。道長が邪険にするようになったことには、さすがに不満を漏らした敦康ですが、それでも「中宮様に皇子が生まれたゆえ致し方がないが…」(第38回)と理解しようと務めます。
幼くして「致し方ない」という諦観を身につけてしまった敦康。その理由は、彰子への思慕の強さでしょう。彼の本音は、ずっと藤壺で彰子と楽しく過ごすこと、彰子の子でいたかったのでしょう。しかし、彼は彼女の実子ではなく、またいずれ大人になる…どんなに先延ばししても別れは避けられない。これがわかったとき、彼のなかで「致し方ない」が生まれたのでしょう。
敦康の言葉を受け止める隆家と修子は、無念を口にした言葉とは裏腹に穏やかな表情です。まず隆家。早々に帝が敦成を東宮としたので、公任らが隆家を説得したか否かはわかりませんが、既に道長への恭順を示している隆家(第39回)は説得に応じたでしょう。実際、応じたかもしれません。
そして修子は争いを好まない性質のようです。彼らが残念そうな言葉を口にしたのは、あくまで敦康の心情を慮ったからでしょう。彼にこだわりがないなら、それでよいのです。
しかし、それでは納得がいかないのが清少納言です。彼女は「親王さま、まだ帝になれないと決まったわけではありませぬ。この先、何が起こるかわかりませぬ」と煽り、帝にならんとするよう促します。隆家の少納言を見る気遣わしげな目線には、過去に生きる彼女への憐れみと、彼女の期待には応えてやれない申し訳なさが同居しているようで興味深いところです。
肝心の敦康は、少納言の激励に心動かしません。「父上を見ておったら、帝という立場のお辛さがよくわかった。穏やかに生きていくのも悪くなかろう」と、最早、争う気はないと明言します。聡明ゆえに帝という座、権力というものが幸せをもたらすものではないことを実感したのかもしれません。
また、彼は自ら帝になりたかったのではありません。彰子が喜ぶなら、帝になってもよい。そんなスタンスだったのではないでしょうか。彰子と過ごさない今、帝位を無理に欲しがる動機が彼にはありません。
敦康の言葉に微笑して頷く修子は、既にそうした世界から離れて暮らしていますから、弟と過ごすのもよいと思っているのでしょう。
ここで、武勇に長けた隆家は「親王さま気晴らしに狩りでも行かれませんか」と誘います。穏やかに生きる…そうと決めたら楽しくいきましょうというわけです。隆家の気遣いに微笑して「殺生はせぬ(笑)」と答える敦康の表情には、東宮になれなかった憂いはありません。隆家は、争いを好まない敦康が狩りを断るのは織り込み済みで、ただ場の空気を和ませたかったのでしょう。敦康も修子も笑っています。
この和やかさに一人、納得がいかず憤懣やるかたない顔つきになっているのは少納言です。定子と中関白家の栄光が消えていこうとしているのに…その一族が自ら漫然と状況を受け入れようとしていく…何故、闘わないのか…恨みに思わないのか…激しい彼女の性情は、敦康たちの諦観の裏にあるしなやかな強さには気づきません。
たった一人、怒りと恨みと哀しみに心を震わせる孤独な清少納言は、やり場のない気持ちをますます道長たちに向けるようになりそうですね。
(3)辞世の句の解釈をめぐって
居貞親王が三条帝として即位すると、力尽きた一条院は死を前に出家します。枕元に控える彰子、周りには道長ら公卿が病臥の一条院を見守ります。滂沱の涙に濡れる彰子が、声をかけていると、一条院の唇か「露の身の 風の宿りに 君をおきて…」と辞世の句が漏れてきます。
ここでふと目を覚ました院は、彰子を見て笑むと手を伸ばします。その手を握る院は「塵を出でぬる こと…」と句の途中で力尽きます。崩御した彼の枕元、若くして最愛の人を失った彰子は号泣、泣き崩れます。
御簾の外で控える道長もまた見届けるように目を見開いていましたが、やがて目を伏せます。道長と一条帝とは、定子を巡るあれこれを中心に緊張関係にありましたが、その一方で一条帝の道長への信頼、政で頼りにする気持ちは揺るぎませんでした。無論、道長も民を救う政という志を同じくする部分については誠意を尽くし、心を砕いて、期待に応じました。
ともあれ、詮子の後ろ楯があったとはいえ、道長がこれまで権勢を得て、辣腕を振るえたのは、一条帝が主上だったからです。感謝と労い、そして…敦康を東宮にする彼の願いを挫き、失意のまま逝かせたことへの申し訳なさと後悔もあったでしょう。自分の行ったことの顛末を目を逸らすことなく見届けます。それが、彼の責任の取り方と思われます。
ところで、今際の際、一条院は誰を見ていたのでしょうか?それを考える手がかりとなるのが、辞世の句ですが、劇中では途中、事切れてしまいました。
実は、道長の「御堂関白記」、行成「権記」に遺された一条帝の辞世の句は、それぞれ微妙に違うのです。「光る君へ」で、途中事切れたのは、どちらとも取れるようにしたということでしょう。
まず「御堂関白記」では
露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ
(意訳:露のように儚い命の私であるが、露の身が宿る仮のこの世に君を遺し、一人、塵にまみれたこの世から出立してしまうことを思う)
と記されています。「遺す君」を思うのですから彰子への思いを綴ったと素直に詠んだと受け取れ、また道長はそう見ています。「思う」には、さまざまなニュアンスがありそうです。哀しみ、未練といったマイナスのものだけではなく、深い感謝も。まさしく万感を含む「思う」でしょう。
定子を失い悲嘆に暮れていたとき、そんな自分をひたすらに慕う彼女の真心に帝は救われ、彼もまた彼女を深く慈しむようになりました。彼のなかに住む定子ごと彼を愛し、「お上の心と共にありたいと願っております」と彼に寄り添い、「太宗と同じ」と認めてくれた彰子のおかげで、定子のときとはまた違う、自分を肯定していく幸せを得たのでしょう。
彼は、彰子と真の夫婦になってからの数年、最早、過去に生きてはおらず、今という人生を全うしたのですね。ですから、「君=彰子」と見るのが、一条帝の人生を肯定することのように思われます。今際の際、一条院が彰子に微笑み手を伸ばしたのは、涙に濡れる彼女を慈しもうとしたのかもしれませんね。
もっとも、この句を、定子が帝を偲んで詠んだ辞世の句「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ(意訳:煙にも雲にもならない私の身であっても、草葉に置く露を私だと思って偲んでください)」と対応すると読み解く人もいます。その場合、君は定子と読めます。
朦朧とした意識のなか、かつて愛した定子を見た可能性もあります。やっと会えたと手を伸ばしたかもしれません。もし、この場合であっても彰子は、定子に敵わなかったわけではありません。彰子こそが、定子を指針とした中宮だからです。帝が彰子のなかに定子を見たのであれば、それは彰子の努力の結果であり、やはり帝の御心を救ったのは彰子と言えるでしょう。
さて、もう一方の行成の「権記」では
露の身の 風の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき
(意訳:露のように儚い命の私であるが、風が過ぎるような仮の世に君を遺し、一人、塵にまみれたこの世から出立してしまうことが悲しい)
とあります。こちらも「君=彰子」と読めるのですが、行成は「御志、皇后に寄するに在り。但し指して其の意を知り難し(帝のお気持ちは、皇后定子に寄せたものである。ただしはっきりとその意味を知ることは難しい)」と、この和歌について付記し、「成仏できない君=定子」と解釈しています。
やや無理矢理な感があるこの解釈に、行成の帝への思いがあります。一条帝の願いを直接、挫いた行成からすれば、一条帝は失意のうちに亡くなったと映るでしょう。一条帝に対する慚愧の念は日に日に増したのではないでしょうか。それは、道長の役に立った喜びのほうが薄らいでいったと言うことです。
帝の敦康の寵愛の裏には定子へのさまざまな思いがあるのは、誰もが知るところ。ゆえにせめて帝が定子を思ったと書かねば、申し訳が立たなかったのでしょう。そして、それは他人に見られることのない日記だから書いた道長への批判でもあると察せられます。
一条院の死を記録するとき、行成は一筋の涙を流し、道長もまた日記を記すにあたり目に涙をたたえました。二人は若くして逝った一条帝に、同じように申し訳なさを感じているのですが、記録に残る辞世の句の解釈は、二人の関係の終わりを示唆していました。
10年ほど後、行成は自ら大宰府への赴任を要求し、都を去ろうとしますが、それは道長との友情の終焉になるやもしれません。道長は、父娘関係と友情を犠牲にして、敦成を東宮にしましたが、果たしてそれは道長にとって幸せになるのでしょうか。
おわりに
敦成を東宮位に就けたことは、道長の志の通過点に過ぎません。とはいえ、彼の目指す道が一気に開けました。にもかかわらず、それを喜んでいる者がほとんど描写されませんでした。行成との友情は終わりが始まり、彰子との親子関係は壊れ、帝を失意の底に落とし、三条帝から警戒される…。
道長が敦成を東宮位をするなかで得たものは、かけがえのないものを失うということでした。言い換えるならば、政敵を退け権力を得るとは、味方を失い、新たな敵を生むということでしょう。
その空しさを道長自身も気づいてはいます。彰子とやりあった後、道長は、一人縁側にて放心状態で佇んでいました。娘を深く傷つける「女は政にかかわれない」という言葉を言い放った道長。敦成を東宮にするという行為は、弱肉強食という政治の本質そのものですが、王道ではないそれは倫理的な弱さを持っています。そのため、理知的に正論を述べた彰子を捩じ伏せるには、強引で暴力的な現実しかありませんでした。
民のための政を目指す道長は、元来、身分差や性差というもので人を区別するような振る舞いを嫌っていました(無意識の差別意識はありますが)。だからこそ、三郎は下々の振りをして幼い少女のまひろに難なく跪けたのですし、直秀とも対等に付き合い、打毬の際、方便とはいえ兄弟を名乗りました。若き日に入内に幸せはないと言いきったのも、女の不幸は理不尽と思うからです。こうした思いが、彼の優しさとなり、また民のための政という約束の原点にもなりました。
その道長が、男性本意剥き出しの理屈を愛娘にぶつけるしかなかったという事実。まず、このことに道長はうちひしがれています。絶対、兼家のようにならぬと強く思っていた自分が、結局同じことをしている。政の暗黒面にいつの間にか囚われ、それを平然と行えるようになった自分に暗澹たる思いを抱くしかないでしょう。
どうしてこうなった…答えのない自問自答をしているかもしれませんね。当然、自分のしてきたさまざまを思い返し、一体、自分が何をなしたのか、何を手にいれたのか。そして、その過程で失った多くを思う…罪ばかり重ねた己の人生の虚しさを感じざるを得ないと思われます。
また彰子の抗弁と強い意思にも驚かされたでしょう。ぼんやりしているように見えた我が子の気高さは、かつて父にあしらわれながらも理想を語った自分以上です。彼女の無垢な心には道長の優しい心根が引き継がれていて、それがまひろの教えで開花したということでしょうか。
娘を傷つけざるを得なかった敗北感は、同時に娘の成長を認めるということ。自分と違う意見を持つ彰子の自立に対する感慨もあったのではないでしょうか。
そんな道長の思いと連動するように、同じとき別の場所で柱にもたれ掛かり、これまた一人、黄昏れているのがまひろです。あのやり取りのなか、まひろは道長と彰子を交互に窺うように見ていました。二人のどちらにも思いを馳せる彼女もまた、この件を反芻します。
一つは、あの道長が「女は政にかかわれない」と言ってしまったことです。彼だけはそう思ってはいない…まひろはどこかでそう信じていたでしょう。それだけに道長の言葉はショックだったと思われます。ただ、それを単純に、裏切りと感じること、責めるような気持ちへとはダイレクトにつながらなかったでしょう。
寧ろ、そうならざるを得なかった彼の政にかけた半生を、あるいはその言葉を放ってしまった道長自身が傷ついただろうことを、思いやる気持ちになったように思われます。まひろだけは、道長の変わらぬ優しさと間抜けさを知っていますから。民を救う政をなすために多くの犠牲を今も払い続けること、その哀れさ、虚しさ。そして、彼をそう追い込んだ自分との約束…道長もまひろも拭い切れない罪を重ねただけなのかもしれません。
そうなると、罪深い自分たちに何ができるのか、という今後に思いを馳せる面もあったのではないでしょうか。とりあえず、当面は、道長は絶対的な権勢を確率する目標に向かうしかなく、まひろは彰子を目覚めさせた責任を取り、同志として師として支えるだけです。それが道長と袂を分かつかもしれなくても。
しかし、その後どうするのか?ここで思い返されるのが、今回の冒頭の朗読会の題材が「藤浦の葉」であったことです。
あかね(和泉式部)が「光る君の華やかな宴の様子を延々と語りながら、秘かに父を同じくする帝と中納言で締め括るなんて…お見事ですわ」と評したように、葵の上との間の実子、夕霧と藤壺との間の不義の子、冷泉帝が集うこの場面は、光源氏の所業が集約されています。
光源氏がすべてを手に入れたその様は、「華やかで、しかも恐ろしいのう」という一条帝の評どおりでしょう。それゆえに、光源氏はその後、出家を考えるようになるのです。己の罪深さゆえに。
その後、華やかな藤壺の朗読会では、禁断の恋が話題となり、あかねの「罪のない恋なぞつまりませんわ(笑)」と実体験から嘯き、真面目な赤染衛門すら「人は道険しき恋にこそ、燃えるのです」と、それが人の真理だと笑い、場は華やぎます。
道長すら笑うなか、まひろだけが、曖昧な愛想笑いに終始し、その夜の執筆で「罪を犯したものは…」と禁断の恋の表裏を思います。
思えば、まひろの「物語」へ至る道も、道長の民のための政の志も、直秀を縁にした二人の道ならぬ恋が、その始まりです。その一途な思いが、何をなしたのかを、あの夜、まひろは考えたと思われますが、今また考えているでしょう。 罪深い二人の行く末は…光る君と同じく出家となるのでしょうか。