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「光る君へ」第32回 「誰がために書く」 道長にとって必要な「光」とは何か

はじめに

 意外に思われる方もいるかもしれませんが、作品とは書きあがった瞬間から作家から独立した存在になります。言い換えるならば、作品とは完成した時点で、読者や観客といった受け手に委ねられるものなのです。

 なるほど、著作権的には作品は作家に帰属していますし、その作家が書かなければ作品は存在し得ません。作品にとって、作家は神のごときものと思う人もいるでしょう。その典型が、神の言葉を記した聖典と呼ばれるものでしょうね。しかし、現実には、どんな宗教でも、同じ神の言葉でありながら、その解釈はさまざま、一つの宗教に多くの流派があるものです。


 同様に私たちは、小説にせよ、マンガにせよ、映画にせよ、物語を読むときに作者の意図どおりに読みはしません。勿論、作品に施された表現技法や構成などの効果がありますから、一定の縛りは存在します。しかし、それを踏まえた上でのさまざまな解釈はあるのが当たり前です。だから、「光る君へ」でもたくさんの考察があるのです。

 一方で作品には書いた作者の意図があるはずだ、という人もいるでしょう。勿論、さまざまな技巧を施す作者には狙いがあるはずです。また、作品をこう読んでほしいというメッセージを込めている場合もありますね。しかし、作品とは存外、作者の思うとおりには書けてはいないものです。失敗作は当然、そうなりますし、逆にそんなつもりではなかったのに、書いてしまったものが、意図しない意外な効果を持ってしまい、そこが面白がられることも多いのです。
 また、作品を作ったことがある経験を持つ人のなかには、自分が書いたはずだけれど、自分の作ったキャラクターが独り歩きし、自分のほうが書かされてしまったということすらあります。こうなるともはや、作品は作家のものですらなくなりますね。


 ただ、その一方で、この作品がどんな人が書いたのだろうという作者への興味は尽きません。また作品を買うときに、この作家の作品だからという理由で買う人もいるでしょう。また、作者には手癖のようなものがありますから、作品の傾向というのがあったりしますね。
 つまり、作品の解釈と読み方については、作家から独立して読み手に委ねられるけれど、作品が作者の生きざまや考え方を投影した創造物だという点では依然、強いつながりを持っているということなのでしょう。

 そして、その作家と作品の深いつながりが、道長がまひろの「物語」を事態の打開の突破口とする所以です。「源氏物語」が帝の心を解き放つものだとして、何故、まひろが藤壺に出仕しなければならないのか。家で書いて、作品だけ送ったって良いはずです。現在の作家であれば、原稿なぞ自宅からメールで送ればいいのですしね。それでも、まひろは出仕することを決断することになります。

 そこで今回は、まひろが出仕に至るまでの経緯を、道長側の事情、まひろ側の事情から追い、二人が「物語」をもって対峙しなければならない問題とは何かについて考えてみましょう。


1.心理的に追い詰められていく道長

(1)道長を牽制しつづける一条帝の心情

 1005年、亡き皇后・定子の遺児、脩子内親王の裳着の儀において、一条帝、伊周を大納言の上座に座らせるように命じました。史実的には、裳着の儀の一か月前にこの席次が決まったそうですが、伊周が、道綱に「譲られよ」と言うまでは誰も気づかなかったようですから周知はされなかったのでしょう。「譲られよ」という伊周を、道綱が見上げるかのような主観アングルで見せることで、伊周の変わらぬ傲岸不遜な態度がわかりますね。

 人の好い道綱は「え?ここに入るの?」と戸惑うばかりですが、どうしようと目線を向けられた実資は、不愉快な顔を隠すこともなく不承不承どきます。この措置について、一条帝の「真の目的は道長への牽制」との説明がなされますが、伊周と道綱&実資のやり取りを見れば、公卿らの不興を買う措置であったことが窺えます。


 伊周の席次を上にすることは、中関白家を敦康親王の外戚に相応しい地位に戻す。そのことを既成事実化するのが狙いです。敦康の後ろ盾を強化することで、後々、今の東宮が帝になる際に、息子を東宮にしようというわけです。ただ、ナレーションによれば、それは表向きで、あくまで現在、その人望で陣定を掌握している道長の牽制に楔を打ちたいことに主があるというのです。
 一方、円融院と詮子の血統を守る基本方針は、道長も同じです。現状、帝と彰子の間に懐妊の可能性がない限り、敦康を後見するよりありません。そのため、彰子に養育させるという名目で、敦康親王を人質として藤壺に囲っているのです。ですから、帝のあからさまな牽制に、頭を悩ませつつも積極的な対応ができないというのが実情です。道長と帝は、政治の主導権を巡って対立しつつあります。


 ただ、これは帝だけの意向ではなく、裏で伊周が定子の死を巧みに使い、暗躍していることは、第30回での行成の邪推から見ても公卿らの間でも噂になっていると言えるでしょう。ですから、伊周の不遜な態度に批判が集まるのです。どれだけ策を弄しても、人間性を変えなければ人望は得られません。長徳の変を経ても、なお、彼は自分の問題点がわかっていません。だからこそ、道長を呪詛するほど恨んでいるのでしょうが。
 とはいえ、表立って翻意を示しているわけではありませんし、直接的に争うのは賢明ではありません。道長は裳着の儀の数日後に土御門殿で漢詩の会を開きますが、その場にはお馴染みの公任、斉信、行成だけでなく、伊周・隆家兄弟も招きます。道長としては、友好的に接することで無用な対立を避けようと考えているのでしょう。因みに伊周の実弟、隆家は、都へ帰参した当初から道長に教順の意向を示し、志をもって政に参加したい心意気を示していました。その甲斐もあって、1003年には権中納言、つまり公卿へと復権しています。頑な伊周とは違った世渡りの上手さが光りますね。


 さて、招かれた伊周は、「私のようなものまでお招きいただき、ありがたき幸せに存じます」と自虐的にへりくだった物言いで謝意を述べます。ともすれば、当てこすりにも聞こえる言葉に、公任始め、一同は、道長の反応を窺います。道長は、鷹揚に「楽しきときを過ごしてもらえれば私も嬉しい」と答え、伊周を快く歓待するという態度で、この当てこすりをさらりとかわしていきます。

 ここで披露された伊周作の漢詩「花落春帰路」は、実際に土御門殿で披露されたものであることは「御堂関白日記」に記されています。本作では、自己中心的で褒めるところのない伊周ですが、さすがに母、貴子が懸命に養育したこともあり、漢詩についてはすこぶる優秀で、この場でも感心した道長が、伊周に褒美を取らせています。

  春帰不駐惜難禁 花落紛紛雲路深
  委地正応随景去 任風便是趁蹤尋
  空嶺徼霞消色 粧脆渓閑鳥入音
  年月推遷齢漸老 余生只有憶恩心
   意訳:枝は花を落とし、峰は視界を遮るように聳え、霞は色を失う。 
     春の装いはもろくも崩れて、谷は静かに鳥のさえずりも消える。 
     年月は移ろい、私も次第に老けてゆく。
     余生は、恩顧を思う気持ちばかりが募る

さて、この七言律詩、土御門殿で詠まれたことを考えれば、この「恩」は道長に対するものとも読めます。しかし、劇中、伊周の独白は、この恩を「天子の恩」…帝への恩顧と語っていました。つまり、道長への殊勝な態度に見せながら、本心は、残りの人生は、帝の恩顧によって、自分の地位は回復し、必ずや権勢を奪取すると豪語していたということでしょう。今は、自分のほうが、帝の信を得ているという自負を覗かせています。

 それゆえに、この漢詩を「まことに健気なる振る舞いであったな」と素直に受け取った斉信に対して、公任は「いやいや。あれは心のうちとは裏腹であろう」と答え、行成も顔を曇らせて、それに同意したのです。二人には、裳着の儀の席次の一件が脳裏をよぎったでしょう。今更、気づかされた斉信は「うっかり騙されるところたった」と苦い顔をします。当然、道長も伊周の真意には気づいたはずです。にもかかわらず、その出来に褒美を取らせました。

 ですから、公任と行成は「それより大したものだ、道長は」「まことに」と感心します。斉信は、その感心を「帝が伊周どのに御心を向け始めておいでだが、私はまったく焦っておりませんよらというふうに?」と王者の余裕かと聞きますが、「敵を広い心で受け止める器の大きさだ」と公任は訂正します。このように伊周の薄っぺらい自尊心は、かえって道長の声望を高めることになっています。


 しかし、こうした公卿らの反応を知ってか知らずか、一条帝は性懲りもなく「伊周を陣定に参らせたい。そのように皆を説き伏せよ」と道長へ無茶ぶりを命じます。詳細は描かれませんが、定子を失った哀しみを共有するなかで、帝はすっかり伊周に取り込まれ、もしかすると原因は道長ということも吹き込まれているかもしれませんね。

 当然、先例を無視した帝の命に道長は「おそれながら、難しいと存じます・陣定は参議以上と定められておりますゆえ、誰かがみまかるか、退かねばありえませぬ」と理路整然と否定的な見解を述べます。その冷静そのもの正論に、帝は「そなたならばいかようにもなろう!」とささやかに怒りを滲ませます。この反論には、「お前は権勢を欲しいままにし、やりたい放題だろう」という揶揄がありますね。道長に依存してきたことが反転し、恨みに近い感情を抱くに至っているようにも思われます。

 やはり、定子の死を彰子立后と重ね、道長のせいと吹き込まれているような、そんな可能性を感じさせます。聡明な帝ゆえに、その死が誰のせいでもない。強いて言えば、自分が寵愛し過ぎたからだということを感じ取っているでしょう。しかし、未だ定子の死を処理しきれない今の帝にとっては、誰かのせいにせずにはいられないのではないでしょうか。そんな帝の心中は、伊周のような野心家には、都合のよいものでしょう。

 道長は、帝の苛立ちは感じたはずですが、あくまで平静に「難しいと存じます」と再度、答えます。頑なな左大臣に帝は「朕の強い意向とすれば皆も逆らえまい」と珍しく、自分の権威を振っても良いのだぞと脅しをかけます。その上で「されどそれでは角が立つ。異を唱える者もおろう。ゆえにそなたの裁量に委ねておる」と、今度は「お前の力を頼りにしている」「私の盾となってほしい」と懐柔策に出ます。

 この物言いが小狡いのは、道長の権勢を憎みながらも、それを忠節によって縛り、利用しようとしていることです。忠節を試されれば、臣下は命を覚悟して諫めるか、唯々諾々と従うかの二択となります。民の命がかかる問題であれば、今の道長は前者を取るでしょうが、たかが伊周の地位の話です。無用な争いはしたくないでしょう。
 ですから、「朕のたっての願いだ」という懇願に折れ、「難しきことながら諮ってみましょう」とのみ答えます。人望のない伊周の陣定入りは、他の公卿らの反発は必至です。道長は、帝のあからさまな牽制を陣定の総意で返すつもりかもしれません。


 いずれにせよ、本来、政で議論しなければならないことは山積みです。にもかかわらず、伊周の暗躍による帝との政における主導権争いの駆け引きは、道長にとって憂鬱なものでしょう。元より民を思う気持ちのない伊周に政争の愚を説いても、その凝り固まった野心と復讐心は容易に解けるものではありません。

 状況を変えるには、第30回で隆家が指摘したように、帝の心を定子から引き剥がし、将来へと目を向かせることがもっとも有効でしょう。しかし、今の道長には打つ手がありません。頼みの綱である、まひろの「物語」も「忘れておった」と言われる始末…そこには予想通り、道長への反発があるだけに、帝との対立による道長の憂鬱は深まるばかりです。

 さて、一条帝の道長への牽制は、道長に対してだけではありません。ある日、敦康親王に、矢を壺に投げ入れる遊具、投壺(とうこ)を献上します。「親王さま、これはいかがでございますか」と実演してみせると、親王は目を輝かします。そんな喜ぶ姿を目にとめる彰子が印象的です。瓢箪に絵を描いたときもそうでしたが、彰子は敦康が好むものが何かをよく観察しているのですね。

 そして、きゃっきゃっと喜ぶ彼に「親王さま、左大臣どのに御礼を」と礼儀を促すことも忘れません。元気よく「嬉しく思う」という敦康がかわいいですね。極度の引っ込み思案な彰子ですが、敦康の養育に心を砕き、敦康もまた彰子のそうした心遣いを素直に受け止めていることが窺えます。正直、この点を帝はきちんと見るべきですね。


 そこへ帝がやってきます。「帝のお渡りにございます」との女房の言葉に、「お渡りのお触れはあったのか」と夜のお渡りのことと勘違いする道長には苦笑いするしかありませんが、それだけ現状に追い詰められ焦っているのでしょう。ただ、それよりも、両親の焦りもよくわかっているであろう彰子が「いえ」と短く答え、父を落胆させることを申し訳なく感じていることがわずかに察せられることのが余計に気の毒です。

 当然、帝の御成りは、息子の敦康に会いに来たのです。その場に道長がいたことは不快だったでしょうが、そこはお互いしれっとした挨拶をかわします。待ちかねたように、投壺を大事そうに抱えた敦康が「お上、これは左大臣にもらいました!」と嬉しそうに声をかけると、すぐに破顔した帝は「良かったな」と優しく返します。道長から遊び方を実演してもらった敦康が「お上もご一緒に遊びましょう」と誘います。


 ここで、彰子が「お上…」と声をかけるのですが、その呼びかけに対して、帝はすっと表情をこわばらせると、彰子から目を逸らします。帝の自分を拒絶する頑な態度に、彰子は俯き、申し訳なさげに萎縮してしまいます。この気まずい空気は、「親王さま、書の稽古の刻限にございます」という言葉に遮られることですぐに終了しますが、二人の関係は進展しないばかりか悪くなるばかりです。倫子の懇願も裏目に出ていることが窺えます。

 それにしても、彰子は何故、ここで「お上…」と口を挟んだのでしょうか。その直前、彰子は敦康が投壺に目を輝かせる姿を目に止めています。ですから、おそらくは、敦康の誘いを帝が無下にする前に「お上、どうぞ遊んでくださいませ。先ほどより楽しみにしていたようでございます」と言い添えるつもりだったのではないでしょうか。敦康の望むことに合わせてやりたいと思っているらしい今の彰子のできる精一杯の表現だったと思われます。

 しかし、その精一杯は何故か、帝の不興を買ってしまいました。人様の要望に合わせるようにしてきた彰子ですが、帝は何を考えているのか、どうして自分を知ろうともせず、邪険にするのかがわからないでしょう。ですから、どうしてよいかわからず、ただ申し訳なさで萎縮してしまうのです。出自はともかく、彼女自身の問題が、帝の拒絶の根幹ではありませんから。彰子には気づきようもなく、気の毒という他ありません。

 無論、帝が彰子にまったく手を出さないもっとも大きな理由は、「自分の后は定子一人である」ということです。その思いは、その哀れな死によってより強固なものとなったでしょう。加えて、清少納言より献じられた「枕草子」をボロボロになるまで読み、未だ彼女との思い出のなかに生きる帝にとって、彼女を死に追い込んだ(と帝が思い込む)道長の娘など代わりになるはずもありません。定子の思いに囚われ、道長憎しの思いを抱き、帝は彰子を見ようともしないのです。
 道長に一矢報いたいと復讐を願った清少納言の「枕草子」に込めた狙いは、着実にじわじわと効いてきているのですね。ただ、それは定子の愛した帝と、入内した20歳にも満たない罪なき娘を不幸にしていることに少納言が気づくときはあるのでしょうか。

 帝と彰子の居たたまれない様子に席を辞そうとする道長を呼び止めます。悩める道長に、帝からまひろの「物語」を気に入ったこと、そしてまひろに会いたいといったこと、二つの朗報がもたらされます。状況が一気に好転、道長の憂鬱は続きますが、ようやく一条の光が差します。しかも、それは長年、待っていたまひろを自分の手元へと正式に呼び寄せる算段が立ったということです。そのことについては、2章にて後述します。


(2)晴明の遺言と「光」の意味するところ

 さて、まひろの出仕の準備が整ったある日、道長は安倍晴明の危篤の知らせが入り、馬を走らせます。文字通り駆けつける様には、道長がいかに晴明を信頼していたのかが窺えます。兼家なら「いよいよあやつも死ぬか」と割と素っ気なかったでしょう。晴明宅では、須麻流が一心に祈祷をしており状態が思わしくないことが、道長にも一目でわかります。部屋に入ると、晴明が微動だにせずに死病の床に就いています。齢83にしての一昼夜の祈祷の結果、急速に衰えたのは致し方ないところでしょう。

 目を瞑っていても道長と察知した晴明、「お顔を拝見してから死のうと思い、お待ちしておりました」と諧謔とも自虐ともつかぬ、人を食うような言葉で迎えます。返す道長の「何を申しておる。思いの外、健やかそうではないか」の言葉も、思いの外の衰えぶりへの励ましに幾分、皮肉が混ざります。二人の距離感に通い合うものが感じられますね。

 すると、晴明は「私は今宵、死にまする」と、いつもの星読みの結果のごとく淡々と告げます。骨の髄まで陰陽師の彼にとっては、自身の命数すらも宿命の一つと受け入れているのかもしれませんね。そして、目を瞑ったまま、薄く笑うように「ようやく光を手に入れられましたなぁ」と自分の死の宣告とは打って変わった砕けたような口調で、道長の心中をズバリと言い当てます。そこには、ようやくここまで来たとの彼自身の感慨も入り交じっているようです。

 これを聞いた道長の「隠せないか、敵わんな」と感心したような苦笑いがよいですね。折しもまひろが出仕のために彰子への事前挨拶を終え、準備が整ったところ。このことは道長にはさまざまな感慨があります。一つは、まひろの自分らしく生きる道に自分が関われたこと。
 もう一つは、惚れ抜いた女を妻としてではないにせよ、対等の同士として手元に引き寄せたことです。ようやく二人の生き方が本当の意味で交わる時が訪れたという確信と先へ進む覚悟。そこには充実と不安の両方があるでしょうね。敏感な晴明は、道長の雰囲気からその揺れを察したのでしょうね。

 返事にならぬ道長の返事でも晴明には十分伝わるのでしょう。「これで中宮様も盤石でございます。いずれあなた様の家からは、帝も皇后も関白も出られましょう」と太鼓判を押します。思えば、晴明は道長に為政者としての志と覚悟を迫ってきました。彰子入内や一帝二后はその典型でしょう。その彼が、これで道長の先々が決まったと言い切るのは、道長に為政者として必要なピースが揃ったということかもしれません。
 そう考えると、中宮の立場を磐石にする「光」とは、道長にとっての「光」とも言えるのでしょう。「光」とは勿論、まひろを指しています。彰子については、その「物語」によって彰子の運命と心を照らす光になるのでしょう。

 それでは、道長にとっては何をもたらすのか。本作の道長は、親友にも妻らにも決して胸のうちのすべてを明かさない人として描かれています。それは、彼らとの関係には、どこかで利害関係が生じていることが大きいでしょう。謀が日常茶飯事の上流貴族の家に生まれた彼は、親兄弟を始め身近な者すら信じられないことが身に染みています。

 かつて、盗賊としてとらえた直秀を警護の武士らに預け検非違使に引き渡さざるを得なかったことを、まひろに告白したことがありました(第9回)。そのとき彼は「信用できるものは誰もおらぬ。親兄弟でも」「まひろと直秀は信じている」と言っていましたね。二人とは身分に関係なく、利害からつながった関係ではないからです。まひろとは幼少期からの縁によるものですが、直秀については、貴族に対して忌憚ない言葉を吐いたからこそ信じられました。そこには、兼家一家の闇を引き受けざるを得ない自分自身への不信もあったといたと思われます。
 にもかかわらず、道長は直秀を自らの不手際で間接的に死なせてしまいました。彼の半生の痛恨となったこの出来事で、彼は余計に自己不信も抱えることになったでしょう。加えて、彼は生来より争いごとを好みません。ですから、自身は政に向いていない…そういう自覚と自信の無さは今も持っているでしょう。

 そんな彼が「民を救う」政を目指し、身を捧げることになったのは、直秀の死という苦い経験だけでなく、直秀を共に埋葬し響き合ったまひろとの約束です。彼はまひろへの思い、そして時折、彼の前に現れるその名に導かれてきました。一方、政の現実で、彼の性格的に優し過ぎる面を叱咤し、導いたのは詮子と晴明でした。為政者としての道長の覚悟を精神的に支えたのは、彼が弱みを見せられたこの三人だけだったと言えます。

 しかし、詮子は既に亡く、晴明も老齢です。この先、彼らに変わる、対等の立場で、利害に関係なく道長に物申す導き手となる人が、道長の傍には必要です。そして、彼が胸襟を開けるのまひろだけ。今こそ、大人になったまひろが精神的なパートナーとして身近に必要だと言えるでしょう。
 つまり、まひろは、今後の道長の先々を照らす光であり、道長は、まひろに照らされる(=叱咤激励される)ことで為政者の覚悟と自信を深めていくことになるのでしょう。晴明の言う「光」とは、道長自身を為政者として照らす者を指すのではないでしょうか。だからこそ、その施政の先にある、道長の「家」の繁栄を確信したのです。

 ただ、目の前のことに精一杯、「家」の繁栄は二の次である道長には不確かな先の先の話は面倒なだけ。「それほどまでに話さずともよい」と窘めます。「幾度も言うたが、父の真似をする気はない」と返すに決まっている道長に、それでも「お父上さまが成し得なかったことをあなた様は成し遂げられます」とまで晴明が言い切るのは、道長への期待が大きいからです。

 道長は「お父上さまが成し得なかったこと」を、我が「家」の繁栄と表面的に見て拒絶していますが、この国の未来を担うと自負する晴明の視野はもっと広いはずです。彼の言う「成し得なかったこと」とは、世の安寧そのものでしょう。晴明は、「志あるならお前ならそれが出来る、自信を持て」と言外に励ましているのですね。

 そして、励ますだけではなく「ただ一つ、光が強ければ闇も濃くなります。そのことだけはお忘れなく」との忠告も忘れません。「光が強ければ闇も濃く」なる…闇を作るのは光に照らされた道長のことです。。この先、紆余曲折はあろうとも、伊周が暗躍しようとも、道長の政権は揺るぎません。ただ、その施政が、善政となるか悪政となるかは、不確定です。

 為政者としての力を得て、自信を深めた道長が、その無双ゆえに権力の虜にならないとは限りません。権勢とは魔物ですから。だから、自制心が必要ですし、初心に返ることか必要になる。くれぐれも権力の行使に気を配れと忠告するのです。道長が、晴明の抽象的な言葉をどこまで理解したかはわかりません。しかし、師の案ずる気持ちは伝わりますから、道長は今わかる範囲で真摯に「わかった」と頷きます。

 因みに人間の光と影を描いた「源氏物語」の光源氏のモデルの一人は藤原道長と言われます。もしそうであるならば、その絶大な権勢と寂しい晩年は道長を反映していることになります。まひろが見つめ続ける道長の政は闇を深くしたのか、それとも光源氏の顛末が道長への批判、忠告となるのか。それは、もう少し先にならないと見えてこないでしょう。

 話を戻しましょう。道長に為政者としての心の有り様を忠告した晴明は、さらに「呪詛も祈祷も人の心の有り様なのでございますよ。私が何もせずとも、人の心が勝手に震えるのでございます」と続けます。不可思議な術師として振る舞った彼は最後の最後に、政だけではなく、不可思議な術も人の心が成せることの延長線でしかないと種明かしのように話します。

 興味深いのは、この晴明の弁が、夢枕獏「陰陽師」の晴明の語る世の理と通じていることです。夢枕獏「陰陽師」の世界の基本は物事のあらましを縛る「呪(しゅ)」です。「呪」とは人の思いです。例えば、大雨を天の恵みととらえればそれは「神」の御業、天災ととらえるならそれは「魔物」の祟りとなります。神も仏も人の心が生み出したものに過ぎないと夢枕獏「陰陽師」の晴明は語っています。

 「光る君へ」のユースケ・サンタマリアさん演ずる老獪な晴明は、夢枕獏の世界とは似ても似つかない姿ですが、陰陽師の性質は通ずるものがあった。誰よりもその理屈に通じ、その業を信じ行使する反面、その限界も心得ていたのでしょう。だから、政に関与しても支配はせず、病になれば祈祷ではなく薬湯を飲んでいたのです。
 元より迷信を信じすぎることがない道長は、その言葉にニヤリと笑い、得心します。こういうところも道長と晴明は波長があったのでしょうね。

 さて、伝えるべきことを伝え終えた晴明は、目を開くと穏やかに微笑しながら道長へと優しい眼差しを向けます。仏頂面のポーカーフェイス、心の内を決して他人に読ませない晴明。それは神秘性と自分の商品価値を担保する職業柄によるものですが、もう一つ、この穏やかで優しい本性を自分からも他人からも覆い隠すことがあったと思われます。
 この表情を見ると、兼家には手厳しい腹芸しかしなかった晴明が、道長の人柄を買い、適切な助言を率直にする大甘な態度であったことも納得がいきますね。

 そして「何も恐れることはありません。思いのままにおやりなさいませ」と、今度は陰陽師としての理屈ではなく、優秀で優しい心映えを気遣い、ただただ自身の心のままに優しく励まします。道長の権勢を確信する晴明には、その先に多くの苦労が待ち受けていることも見えているでしょう。
 結局は彼自身がやるしかない。老婆心から助言と忠告はしたけれど、それにとらわれず自分の心を信じなさい…そんなところでしょうか。彼は道長の資質と心根を信じ、自分の願う世の安寧を彼に委ねたのです。言い終えた晴明は、再び目を瞑ると、その口も疲れたように閉ざされます。

 瞬間、道長は止まります。今のが最期の言葉と直感したからでしょう。御簾の外からは縁側で祈祷をしていた須麻流が嗚咽で呪文を唱えられなくなっています。彼はその祈祷が晴明延命の役に立たないことがわかっていて、それでも何かせずにはいられなかったのでしょう。
 その須麻流の慟哭を背中で聞いた道長は、晴明が死ぬ現実を実感として悟ります。居住まいを正した道長は、恩師にはっきりした口調で「長い間、世話になった」と万感の労いを口にすると深々と一礼します。そこには感謝と覚悟が窺えます。晴明の想いはたしかに道長へと引き継がれたのでしょう。


 1005年9月26日夜更け、須麻流が眠りこけるなか、晴明は自身の予言どおり静かに逝きます。その最期の瞬間、彼の目に映し出される満点の星空。彼が何を見ていたか、彼の心象がいかなるものであったかが、映像によって美しく語られます。彼は陰陽師ですが、その本質は術師ではなく、天文博士になった星読みとしての陰陽師。美しい夜空と人の運命を見ながら、世の安寧という理想にひたすら邁進し、身を捧げました。謀も術もそのための手段に過ぎません。
 星空を見、世の安寧を願った安倍晴明は、その胡乱な風体とドラスティックな言動とは裏腹に相当なロマンチストだったのではないでしょうか。彼もまた「思いと行いは裏腹」な人だったのですね。そんな晴明のラストカットは、床に横たわる晴明、奥に佇む須麻流…そして、その先に見える舟形の三日月と満天…幻想的の光景は、晴明は三日月の舟に乗り、空へ帰ったのかも…と思わせます。


(3)内裏の火災を巡る野心の暗躍

 こうして道長は、自らの精神的支柱であった詮子と晴明の二人を失います。彼らに代わって、道長を傍で支えることになりそうなまひろの出仕も来月のこと、そんな空隙のなか、対立の深まる帝と道長の関係に決定的な事態が起きます。遅々として進まない、伊周を陣定に参加させる件に業を煮やした一条帝は、伊周を再び陣定に召し出す宣旨をくだすという強引な手に出ます。

 この宣旨に公卿たちも大荒れです。先例重視の実資は「言葉もない、まったく言葉もない」と苦り切ります。無能の風見鶏、右大臣顕光に至っては「左大臣さまは何をしておったのだ!」と言う始末。二人の意見は個人的なものですが、公卿らの総意として描写されていると思われます。帝の強引な宣旨は、期せずして道長の求心力にまで打撃を与えたということを意味しています。

 この後のシーンで、道長がこの事態に一人、厳しい顔で追いつめられた表情をしているのは、彼にそれがわかっているからでしょう。権勢の難しいところは、それぞれが野心や欲を持っていて、それを叶えながらやっていかないとあっという間にその力は失われるということです。例えば、実資と公任が辞表を使って、地位をごね得しましたが、こういう欲をちゃんと踏まえていないと政権運営はできないのです。

 ただ、右大臣顕光の放言には、道長の異母兄、道綱が「左大臣さまを責めるのはどうなのですか」と庇います。顕光は「帝をお諌めできるのは左大臣どのしかおらぬ」とさも当然とのように返しますが、無責任極まりません。そんな顕光に、道綱が「右大臣さまがお諌めしてもいいではありませんか!」と実に真っ当な正論で打ち返し、彼に言葉を失わせたことだけは、小気味よかったですね。
 政に向かず、能力も決して高くない道綱ですが、弟を思う心映えだけは昔からずっと変わりません。直接的に道長の役に立つ人ではありませんが、彼はどこまでも「お兄ちゃん」として道長を頼木しく思いつつ、心配しながら見守っているのでしょうね。

 そんな二人の会話を後目に実資はなおも「言葉もない」というと「不吉なことが起きなければ宜しいが…」と危惧しますが…その危惧は当たることになります。


 2日後の皆既月食の夜、闇を恐れて役人たちも自室に籠り、内裏は静まり返っています。そんななか、帝だけは灯をともし、「源氏物語」を熱心に読んでいるのが印象的です。月食を忘れさせるほどの力があるということでしょう。そして、その灯が消えた瞬間、女房の叫びが響きます。温明殿と綾綺殿に火の手が上がり瞬く間に燃え広がることとなります。

 一条帝が藤壺へと走るのは、愛する定子との間に生まれたただ一人の皇子、敦康親王の身の上を案じてのことです。彰子は、火の手があがるなか、何故かぐずぐずウロウロしています。そこへやってきた帝は「敦康はどうした」と叫びますが、彰子は「ただいま、お逃がせ参らせました」と即答します。彼の養育に心を砕く彰子は、自分より何より敦康を守ることを選んだのですね。


 にもかかわらず、彰子は敦康と逃げずに藤壺に留まっています。訝り「そなたは何をしておる」と問う帝に、彰子は「お上がいかがなされたと思いまして…」と帝のことがわかるまで動けなかったと伝えます。このような非常時にだからこそ、その殊勝な心は本心です。初めて、彰子のなかにある真心に触れた帝ははっとしますが、火の手はすぐそこに来ています。迷うことなく、彰子の手を取ると「参れ」と帝は先導します。帝に手を取られて、あ…となるのは彰子のほう…彼女は異性と意識する人に初めて触れられたのですね。

 さて、この内裏の火事にて、一条帝と彰子が二人だけで脱出することになったことについては、「御堂関白記」「小右記」にも書かれています。実際は粛々と脱出したはずですが、本作ではドラマチックに、スローで走る二人を真正面から映します。途中、足がもつれて倒れた彰子。そんな彼女に駆け寄り、「大事ないか」と声をかけた帝は、咄嗟に打ち掛けを被せ、彼女の身を起こします。

 その気遣いの瞬間、二人の顔はこれまでにないほど近づきます。帝はただ二人が助かるため、必死なのですが、おっとりした彰子はこんなときにもかかわらず、帝の顔が自分の間近にあることに目を丸くしており、驚きと同時に帝を始めて強烈に意識したことが窺えます。どうやら、この非常事態は徐々に持ち始めていた帝への関心が、明確に別のものへ変わる瞬間だったようです。ただし、彼女がその湧き上がった感情が何なのかに気づくには、もう少し時間が要りそうですが。


 さて、火事が収まった翌朝、東宮殿の居貞親王に道長は呼び出され、事態のあらましについて聞かれます。話題の一つは、三種の神器の一つ、八咫鏡の消失です。三種の神器は複数制作されていますが、このときの火事では、八咫鏡は3枚中、2枚が消失、銅の塊になったと言われています。とはいえ、神器が失われことは由々しき事態。道長は「申し訳ありません」と平謝りするしかありません。

 「叔父上が謝ることはない」と労うかのように言った居貞親王ですが、彼が言いたかったことの真意はそこにはありません。「これは祟りだ…伊周などを陣定に 戻したりするゆえ。叔父上もそう思うであろう」と、帝の失政が招いたことであると断じるのです。道長はすかさず「帝も八咫鏡を焼失されて傷ついておられます。もうこれ以上、帝をお責めになりませぬよう」と、帝を庇い、宥めます。このような災害は、その治世に問題ありとされるのが世の常です。そうした根拠のない噂を立てないよう苦言を呈したとも言えます。

 しかし、居貞親王は「東宮が帝を責め奉ることなどあろうはずかない。されど月食と同じ夜の火事…これが祟りでなくて何であろうか」と述べ、これは「天が帝に玉座を降りろと言うておる」という天意であると述べます。自分が言っているのではなく、天が自分を通じて悟らせたのだと言いい、自身の正当性を語ります。

 安易な譲位は政の混乱のもと、聡明な一条帝にはまだ可能性があると見る道長は「帝はまだお若く、ご退位は考えられません」と訴えますが、流れ出した不穏なBGMとともに居貞親王は「どうかな。叔父上は中宮が皇子をもうけられるまで帝のご退位は避けたろうが、此度のことでよくわかった…間違いない。帝の御代は続くまい」と、恍惚とした表情で中空を見つめます。居貞親王は、この災厄を天啓として自らが帝になる足固めしようと動き出そうとしています。年下の一条帝の東宮に甘んじていた彼は笑いながらも、実際は屈辱に耐えてきました。それだけに、その野心は膨れ上がっています。
 道長は、東宮の軽率な言動に「こいつは…」と言わんばかりに顔をしかめていますが、当の東宮は自らの御代の到来を想像して、武者震いしており、まるで気づいていません。この火事は、要らぬ野心に火をつけたようです。


 その後、帝の元へ参上した道長は、「中宮さまを御自らお助けくださったよし、強き御心の強さ感服いたしました」と丁重に礼を述べますが、「中宮ゆえ当然である」と素っ気なく答え、御簾越しからもわかるほどそっぱを向いたまま、「そなたのことは頼りにしておる。されど中宮中宮と申すのは疲れる。下がれ」と体の良い言い方で邪険に突っぱね、下がらせます。内裏の火災、八咫鏡が失われたことの衝撃、自身の政のせいではないかという自責の念、さまざまな負の感情のなかで鬱々としているからこそ、感情を抑えきれなかったということですが、かえって、道長への不信感と怒りが露わになったとも言えるでしょう。

 しかし、彼は虎視眈々とその玉座を奪うことを夢見る東宮、居貞親王を道長が、今も必死の思いで止めようとしていることを知っているのでしょうか。現実を見つめ、対処し、帝に悪評が立たないよう気を配り、陣定で公卿らの不満を食い止めてきたのは、道長です。にもかかわらず、それを忘れ、ただただ定子とのよき時代にすがり、それを道長が奪ったと信じ込む帝。おそらく、道長自身は帝から恨まれること自体は構わないと思っているでしょう。ただ、彼が正道に戻り切れないことを憂慮しています。


 帝のもとを下がる道長は、腕を組み思い悩みます。帝との亀裂は修復できそうにないほどになっていること、居貞親王がこれを機に野心を燃やしていること、そして火事の始末と再建、あまりにも道長の双肩にかかっている問題が多すぎます。そこへ帝から召し出された伊周が、道長とは対照的に意気揚々とやってきます。彼が帝を唆していることは間違いないと思われますから、とりあえず腕組みを解き、悩みを悟られぬようにしてすれ違います。


 はたして伊周は「誰も申さぬとは存じますが、この火の回り具合からすると放火に違いございませぬ。火を着けた者が内裏におるということでございます。此度の火事は私を陣定へ加えたことへの不満の表れだと言われております」と根拠のない曖昧な話を連ねて、帝を沈鬱な悩みへといざないます。ここで帝を不安にさせるのは、伊周の手管のうちです。

 そして、悩み深い表情になったところで「たとえそうであろうとも、火をつけるなぞ、お上のお命を危うくするのみ。そういう者をお信じになってはなりませぬ」と助言すると「お上にとって信ずるに足る者は私だけに ございます」と、自分だけを信じよと吹き込みます。これは、新・新興宗教の類いが行う典型的な洗脳の手口そのものですね。「枕草子」による幸せな気分もその洗脳の道具になっていることが察せられます。まひろが「物語」で、帝の心を解き放つ以外に最早、打つ手はなさそうですね。


 山積する問題に加えて、帝との軋轢、伊周の暗躍、東宮の野心と一筋縄ではいかない問題が急速に迫ってきたことで、しかも、火災のような厄災がおきたにもかかわらず。祈祷をさせる頼みにできる陰陽師も既にいません。一人鬱々となる道長が、追い詰められた心境になっていくのも仕方のないところです。
 おかげで、敦康親王の別当として、昨夜の状況がいかなるものかであったかという行成の報告は、ひたすら保身に走った官僚たちの無能ぶりばかりで聞くに堪えない言い訳ばかりです。思わず、「もうその話はよい!」と、彼にしては珍しく声荒げて激昂し、話を遮ってしまいます。我に返った道長の「すまぬ…」という物言いには憔悴の色が浮かんでおり、痛々しそうにそれを見た行成は、「…差し出たことでございました」と謝罪し、気遣います。

 そこへ突如、「左大臣さま、私は兄とは違います!」と隆家が乱入してきます。道長の気分を害してしまい申し訳なく思いつつ、話を聞こうと考えていた行成は「私が左大臣さまと話しておったのだ、勝手に入ってくるなぞ…」と抗議するのですが、行成にはまったく構わず「どうしてもお話したかったのです…」と割り込み「兄は家の再興に命をかけておりますが、私はそうではありません。私の望みは志高く政を行うことのみにございます」と自分の言いたいことだけをまくし立てます。伊周の暗躍に悩む道長としては、隆家の心強い言葉を聞くしかありません。しかも「志高く政を行うこと」は、彼の本意にも通じるところがあるからです。

 しかし、今の道長が心弱くなっていることを察している行成は「そのようなことに騙されぬぞ、左大臣さまは」と牽制しますが、豪胆な隆家は「貴方と話しているのではない」と取り合いません。すると行成は、「伊周どのは帝を籠絡し奉り、そなたは左大臣さまを懐柔する、そういう企みであろう」と以前より抱いていた不審を口にして、隆家を挑発します。さすがに腹を立てた隆家と一触即発となりますが、「そこまでとせよ!」という道長の一喝でとりあえず収まります。

 二人が犬猿の仲と思った道長は、感情的になっている行成のほう下がらせますが、自分より隆家を遺したことへの不満、道長に対する心配からなんとも複雑な表情をして引き下がります。「あの人は左大臣さまのことが好きなんですかね」と隆家はズバリ言い当てていますが、道長のほうも下がらせた行成を心配する気持ちがあるのか目で追っていますね。


 このように依然、好転しないどころか、さまざまな問題が露わになり、道長の追い詰められた心境になっています。味方となるべき行成を叱責してしまうというのは、道長の心の不安定の表われとも言えるでしょうね。隆家の警戒が過ぎたのは行成のミスですが。

 まひろの出仕とは、こうした不安定になりつつある政局を打開する要として存在しています。「物語」を書くことに全霊をかけるまひろは、今のところ政局といった大きな視野までは持ち合わせていませんが、やがて大きな問題にも巻き込まれていかざるを得ないかもしれません。


2.まひろが出仕に至るまでの紆余曲折と前途多難

(1)まひろにとっての「書くこと」の価値

 春めいてきた為時宅。唐突に起きたのは、普段仲の良い乙丸ときぬの夫婦喧嘩です。発端は、乙丸が、都に来てから一度も紅も白粉も買ってくれないこと。しかし、乙丸の女心のわからなさと吝嗇かと思われたそれは、他の男にきぬを取られたくないという可愛げだったとわかり、すぐに落着します。惚気話に回収されるような夫婦喧嘩など犬も食わぬと顔を見合わせるまひろといとが可笑しいですね。そこから在りし日のまひろと宣孝の大喧嘩を思い出して笑ういとですが、さすがに恥ずかしくなったまひろは「そんなことらあったかしら」ととぼけるしかありません。このように、まひろたちの春は穏やかに過ぎていきます。

 さて、いとの話は、先日、帝への献上として道長に差し出した「物語」がどうなったかという話に移ります。まひろは「あれからお返事はないわ、きっと帝のお気に召さなかったのでしょう」と、あまり関心無さげに答えながら、筆と紙を用意し、「物語」を書こうと墨をすり始めます。まひろの答えに本人以上に落胆したのはいとですが、その理由は「よい仕事になりそうでしたのに」と生活費の足しになるかならないかというものですからまひろの思いとは根本的にズレています。
 とはいえ、為時が土御門殿で、まひろは四条宮で指南役として働き生活はそこそこ安定しているものの、宣孝のいたときとは比べるべくもありません。いとが残念がるのも仕方のないところでしょう。

 まひろにしても、いとのこうした発言は昔からのもので聞き慣れています。特別反応することもなく、「でも、あれがきっかけでこの頃書きたいものがどんどん湧き上がってくるの。帝の御為より何より、今は私のために書いているの」と、溢れる創作意欲に導かれるままに書いているのだと告げ、墨を準備すると、早速、筆を執り、書き始めます。
 いとは「それはつまり、日々の暮らしのためにはならぬ、ということでございますね」と、生活費の足しになることをまた始めたかと揶揄しますが、あっという間に執筆に没頭してしまったまひろは、言葉の織り成す世界に生きていますから、まったく聞こえていないかのようです。まあ、聞いていたとしても聞く耳を持たないのが、まひろですが、今の彼女は昔の比ではありません。呆れ果て、ため息を漏らすも、諦めたいとは立ち去りますが、まひろは当然、まったく構うことはありません。

 前回、帝という読者を想定し、下調べも十分に書くことになったまひろ。読者あっての作品ですから、読み手を意識しない作品の多くは、独り善がりで失敗します。しかし、一方で書きたいものでなければ、力を発揮できないというのも作家の性でしょう。もっとも、現代の職業作家であれば依頼に応じて、さまざまな作品を書いていく器用さと柔軟さを持ち合わせている方も多くいらっしゃいますけど。

 ですから、前回、作品の構想に悩んでいてウロウロしていたことの中には、帝に読ませるものと自分に書けないものとの間のせめぎ合いがあったのではないかと思われます。その葛藤の中、彼女が自分の中に見出したのが、文字が書き付けられた様々な色の無数の紙が舞うという心象風景です。それは、多くの人々の思い、経験、人生が言の葉として舞う光景。彼女の「物語」の執筆とは、その言の葉を大切に扱い、織物として紡ぎ物語にすることです。
 そのとき、初めて読者の存在も織り込まれていきます。何故なら、「物語」を書くことは、心象から湧き出るものを読者が楽しみ、味わえるものへと作品へと仕立てていくことでもあるからです。彼女のなかでは、自分の書きたいものと読者の存在とは、自分にやや比重がある形でバランスが取れたのだと思われます。それが「今は私のために書いている」との言葉になったのでしょう。


 また前回、彼女が垣間見たあの光景からすると、無数の言の葉と無数の組み合わせがあるのではないでしょうか。だとすれば、今、その心象から「書きたいものがどんどん湧き上がってくる」のも納得がいきますね。かつて、手塚治虫が、NHK特集「手塚治虫 創作の秘密」(1986)にて、「アイデアだけは、本当に、もうあのこれバーゲンセールしてもいいくらいあるんだ」と言っていましたが、まさにそれが今のまひろなのでしょう。

 因みに手塚は、その1/10も形に出来ていないから、もっと仕事をさせてほしいというのが口癖でした。ですから、まひろの心境は書いても書いても書き足りない…寧ろもどかしいぐらいの気持ちであるかもしれませんね。この溢れるアイデアとそれを形にする時間が足りないという感覚は、実際に小説やマンガなど物語を作っている人、それを志望している人には実感としてあるのではないでしょうか。生みの苦しみを凌駕するほどの創作意欲と執筆の快感…その充実のなかにまひろはいるのでしょう。いとの言葉が届かないはずですね(笑)


 このように「物語」を「書く」ことに揺蕩うまひろですから、道長から「帝に献上したあれは御心に叶わなかった…」との結果を告げられても「力及ばず申し訳ございませぬ」と淡々と詫びるだけで感情的になるとことがありません。寧ろ、帝の「ああ、忘れておった」という言葉を聞かされた道長のほうが、ため息をつくほど落胆していましたね。

 因みに帝の「ああ、忘れておった」は、道長への嫌がらせでしょう。前回の終盤、帝は「桐壺」の冒頭を読みましたが、すぐに閉じました。聡明で学識の高い一条帝ですから、冒頭だけで桐壺帝と桐壺更衣との関係が、自分と定子ということに気づいたはずです。どうやら自分と定子を揶揄している内容らしいと察して、彼は読み進めることをその場では止めたのでしょう。

 その後どうしたか…一つは揶揄と察して敢えて避けて、忘れるようにした可能性。もう一つは、揶揄しているとわかっていても気になって少しずつは読みつつあるという可能性です。後者は、旨辛い食べ物に出会うと、辛すぎて食べられないと最初思うのに、気になって少しずつ口にしてしまう…そんな感じに近い状態ですね(笑)こちらの場合は、まひろの書いたものに力があったということになります。

 どちらにせよ、道長から献上されたもので心をかき乱されたことは癪に障ることです。加えて、何故、自分を揶揄するような内容の物語を道長が献上してきたか、その意図も計りかねていることでしょう。ですから、忘れた体を装ったのですね。腹芸にできず、真に受けてしまった道長もどうかと思いますが、すがるような思いの策が通じなかったショックと精一杯書いたまひろにそれを告げる憂鬱が先だったとすれば、わからないではないですね(苦笑)


 にもかかわらず、まひろの反応は平然とした意外な反応。道長は不思議そうに「落胆はせんのか?」の素直に聞いてしまいます。頷いたまひろは「帝にお読みいただくために書き始めたものにございますが、最早、それはどうでもよくなりましたので落胆はいたしませぬ」と書くことに専念しているうちに、帝に読ませなければならないという目的は自然と抜けていったことを正直に告げます。
 そして、「今は書きたいものを書こうと思っております。その心を掻き立ててくださった道長様に心から深く感謝いたしております」と、一通りではない謝意を示します。つまり、物語を書くことの本質に気づく、創作意欲を掻き立てる、そうしたきっかけを道長が作ってくれたおかげで、自分のやりたいことが見つけられたというのです。

 まひろがやりたいことを見つけた…道長は、若き日に袂を別ったあの日のまひろの言葉「わたしはわたしらしく、自分が生まれてきた意味を探してまいります」を深く心に刻んでいます。それは、疫病に倒れたまひろを徹夜で看病したとき(第16回)、「生まれてきた意味は見つかったのか」と声をかけていることからも窺えます。気掛かりだったことに答えが見つかった…そのことに道長は自然と笑顔になると「それがお前がお前であるがための道か」と改めて問います。まひろは毅然とした、それでいて晴れやかな顔で「さようでございます」と答えます。

 その答えに、心からの満足に満ちて、さらに破顔する道長の笑顔が印象的ですね。決して、他の者には見せない本心からの笑顔は、彼の心の充実です。まひろが、自分の道を見出したことも心から喜んでいますが、それ以上に本当の意味で自分がまひろの人生に役に立つことができた…初めて「惚れた女」の役に立てたことへの充足感が、道長の心を満たしたのでしょう。それは、帝に献上された「物語」が、帝に見向きもされなかった事実を忘れさせるほどなのです。

 その後、道長は為時宅で、自室で「物語」の続きを書くまひろの傍らの縁側で柱にもたれ掛かり、書きあがったものに目を通しています。家人以外の男性が縁側に座ること自体は、当時の一般的な作法で不自然ではありません。ただ、道長のくつろぎ方とそれを捉えるカメラワークが、それを二人の関係性を劇的に見せているのが、この場面の注目点です。

 さて、カメラは、その様子を、二つの方向から切り取ります。一つは、右斜めから物を書くまひろの側から捉えた構図で、後ろにいる道長が時折、一心不乱に書くまひろを物憂げになるほど熱い眼差しで見ています。そして、もう一つは、左斜めからの道長側からの構図です。こちらは、縁側で余分な力が抜け、実に砕けた格好でくつろぐ道長の後方で、道長のことを気にもせずに執筆に勤しむまひろの後ろ姿が見切れています。


 道長は邪魔しない距離でまひろを見守り、まひろはそんな道長を気にせず安心して平常運転で執筆する…干渉し合うこともなく、かといって互いの想いは通じている。そんな二人が自然体でいられる絶妙の距離感を演出するレイアウトが、この二つのカメラのショットです。この距離感は、若いときの情熱的に互いを求め合った頃には到底、できなかったでしょう。さまざまな経験を経て、それでも相思相愛でその気持ちを深めている大人の関係だからこその自然な距離なのですね。


 また、前々回から道長がまひろのもとを訪れる際は、お忍びということで狩衣を着ているのですが、このことがこの場面では別の効果を生んでいますね。二人の服装の身分的なレベルも色合いも一致していることで、二人の自然体が二人を長年の夫婦のように見える映像になっています。殊に人並み以上の体験を重ねてきた二人ですから、30代にして理想的な熟年夫婦のごとき距離とくつろぎ方と言ってもよいでしょう。

 それは、二人が結ばれたかの日、身分を捨て遠くの国へ逃避行し、二人だけの幸せを手に入れたとしたら…というあり得たかもしれない二人のifの未来を感じさせますね。勿論、この選択肢は、まひろの考えたとおり、そして後に道長が悟ったとおり、不幸しかなかったでしょう。それでも夢にまで思った幸せが、こうしてほんの僅かの時間に再現されることは道長にとっても、彼らを応援した視聴者にとっても救いと言えるのではないでしょうか。
 その意味で、実にこの場面は心憎い演出だと言えるでしょう、もっとも倦怠期にある倫子が、この道長を見たら落ち込むことは必至で、明子であれば、まひろに深い恨みを募らせるでしょう(笑←


 ところで、この場面でまひろによる「源氏の君は 主上の常に召しまつはせば 心安く里住みもえしたまはず 心のうちには ただ藤壺の御ありさま…」という独白で、執筆している場面が「桐壺」の後半部分であることがわかります。帝に献上したのは、どうやら前半部分だけだったようです。となると、連載ものではありませんけど、気になるところで引きになっていたかもしれませんね(笑)

 そして続きを読む道長は「俺が惚れた女はこういう女だったのか…」と感慨深く語ります。その後、まひろを見つめる熱い眼差しには、知らなかった彼女の面、あるいは抱えてきた様々な想いを教えられ、彼女の本質に近づいた…そんな思いがあるように思われます。もともと、二人のやり取りは、多くないだけに濃密ですが、「物語」は普段の彼女よりさらに雄弁なのでしょうね。まひろが作家として覚醒したことで、彼のまひろへの思いもまたまひろに気づかれぬうちに、静かにより深まっていくようです。


(2)「物語」が帝との再会を約束するまで

 さて、一旦は「忘れておった」と道長を落胆させた帝ですが、道長がわざわざ献上した「物語」の感想を聞いてきたことが気に掛かったのでしょうか、おそらくは再度、読み直したのでしょう。敦康に会いに藤壺にやってきた際に、その場にたまたまいた道長に「読んだぞ」と告げると、「あれは朕への当てつけか」と、まず気掛かりをストレートに問い質します。ただ「そのようなことはございません」と返す道長の言葉にも嘘はありません。彼は、惚れた女の才と心映えを信じたのみです。もっとも、このやり取りでは嘘でも「そうではない」と答えるはずで不毛です。

 帝もその不毛はわかっているのか、それ以上は問わず「ところであれを書いたのは誰か」と聞きます。どうやら、帝の関心は献上した道長の意図以上に作者についてのようです。これは、道長にとってはしてやったりです。彰子の元に渡らせるために、まひろの物語を必要としたのです。ですから、口にしていないだけで、最初からまひろの出仕が道長の頭にあったでしょう。道長は、「前の越前守藤原朝臣為時の娘まひろにございます。以前、帝にお目通りがかなったと伺っております」と、まるで用意していた言葉のように澱みなく答えます。


 果たして、帝は「ああ、あの女であるか」と軽い驚きと同時に納得した顔も見せます。かつて、まひろはききょうの口利きで定子の目通りが叶いましたが、そのとき、偶然、一条帝のお渡りがある、言葉を交わす機会を得ました(第19回)。この際、彼女は、科挙のように全ての人が身分の壁を越える機会があり、政に携われる国にしてほしいという大それた夢を、帝に進言します。その言葉に白楽天「新楽府」を読んでいると察した帝は、まひろの物言いとその深い理解にいたく感心し、「そなたの夢、覚えておこう」と声をかけたほどでした。

 しかも、女性と政について語り合ったという初めての経験は、帝の心を余程熱くしたようで、後日、道長に「あの者が男であったら、登用してみたいと思った」(第19回)とまで言わしめたのです。こんな女性は、帝にとって後にも先にも、まひろだけだったでしょう。彼が、そのことを忘れず、強く印象に残しているのは、自然なことでしょう。


 そして、そのときの印象は、「桐壺」を読んだことで、さらに確信に至ったようで「唐の故事や仏の教え、我が国の歴史をさりげなく取り入れておるところなぞ、書き手の博学ぶりは無双と思えた」と深く感心します。いやはや、同時代の漢籍の学者たちが、聞いたら目を剥くでしょうね。何と言っても並ぶ者なき「無双」の知識が、女性のまひろにあるということですから。為時が自分以上だと思っていたまひろの才覚は、間違いなく「源氏物語」執筆で開花しているのですね。

 因みにこの帝の発言の大本は、「紫式部日記」の記述に見えます。史実の一条帝も学問に優れた人で、「源氏物語」を一読しただけで「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」(意訳:この人(=紫式部)は「日本書紀」を読んだのだろう。本当に学才があるようだ)と看破しました。それを、式部を快く思わない者が小耳に挟み言いふらしたことで「日本紀の御局」というあだ名が付き、迷惑することにもなるのですが…
 因みにこの段には、本作の為時がたびたび口にしてきた「お前が男であれば」の元ネタ「口惜しう、男子にて持たらぬこそ、幸ひなかりけれ」(意訳:残念だ。男の子でないことは、実に運が無かった)も書かれています。


 聡明な帝は、あのとき学識にすぐれたまひろと、確かに学問でささやかに響き合いました。あのときは、その共鳴を許さなかった定子に「言葉が過ぎる」と遮られ、すぐに終わってしまいましたが、今再び、その響き合いがあったのです。まひろの書きたいもの、帝の望むものの一致は、無意識なものかもしれませんが、あの日の出会いがわずかに意味を持っていたのでしょう。帝は「その女にまた会ってみたいものだ」と、満足そうに望みを語ります。

 このとき、一瞬、彰子の目線が帝に走ったことは見逃せませんね。自分を避ける帝が、まったく別の女を気にかける…そのことへの動揺があったようにも見えます。ただ、それは嫉妬として明確に意識されるものではないでしょう。彼女はまだそこまで恋愛的な心は育っていないと思われます。ここは、帝が興味を示されるものが何かを知りたいという思いが強く出ていると思われます。そのことは、まひろが藤壺に挨拶に来たとき、よりはっきり表れますから後述しましょう。


 ともあれ、帝の申し出は渡りに船。道長は「すぐにも、藤壺に召し出します」と、喜びを出さぬよう平静を装って答えます。すると「会うのは…続きを読んでからとしよう」と条件をつけます。既にそれがあることを知っている道長ですが、帝の鋭さに驚いたのか「続きですか」とオウム返しで返してしまいます。道長の言葉に、近頃、道長には決して見せなかった晴れやな笑顔を見せると「あれで終わりではなかろう」と、さも当然といった期待を寄せます。
 そして、続きを所望するということは、帝はまひろの書く「物語」に強く引き込まれ、そして、彼女と語らえる日を心より待ち望んでいることが窺えます。自身が続きまで読み込んだ上で、まひろと有意義に語らってみたいのでしょうね。あの日、目通りが叶ったことは、こうしてまひろに「物語」として、そして再会として還ってきます。当然、道長の返事は二つ返事です。


(3)まひろ出仕を着々と進める道長の心中

 帝の色好い返事を手にした道長は為時宅へ急ぎます。一刻も早く報告したい気持ち、そして、道長自身が心待ちにしていたまひろの宮中への出仕が叶うときが目の前です。そうした道長の逸る気持ちを、早足で急ぐ道長を後ろから捉えた、道長の主観に近いカメラワークが効果的ですね。まひろに逃避行を断られ、妾になることを二度も断られた道長は、結果的に彼女から三度もフラれています(苦笑)「惚れた女」と夫婦関係として成就することはありませんでしたが、もっとも信頼できるビジネスパートナーとして、自分の手元へと呼び寄せる算段がついたのです。心躍る気持ちが止められないでしょうね(笑)

 そして、自分の家に帰ってきたかのようにさっさと家に上がると、開口一番「中宮さまの女房にならぬか」と切り出します。いくらなんでも焦り過ぎというか舞い上がり過ぎ、途中をすっ飛ばしてしまいましたから、まひろが「は?」と呆気に取られるのは当たり前です(笑)
 道長は喜べと言わんばかりに「この前、お気に召さぬと言った物語だが、帝が続きを読みたいと仰せになった」と続けますが、ふーん、そうなんだとでもいうような薄い反応しかしないまひろに「なんだ?そのどーでもよい顔は…」と訝ります。

 まひろは、道長の問いに「続きがお読みくださいますなら、この家で書いてお渡しいたします」と返答します。先にも述べたように、今の彼女にとって書くことは、自分の心象を舞う多くの人々の思いが綴られた言の葉を紡ぎ「物語」にすることです。つまり、帝のため以上に、自分の心象から溢れ出る物語を形にすることに比重があります。ですから、彼女が慣れ親しんだ「この家」が最適の環境だと言えます。帝のためだけであれば「宮中への出仕」はさもありなんですが、そうではないのですね。

 当然、愛娘である賢子が育つ姿を傍で見ていたいという親心もそこに加わります。彼女にとって、賢子は道長との愛の証でもあり、宣孝との愛の証でもあります。娘への愛だけでなく、娘そのものが彼女の一部でもあるのです。ですから、娘のいる慣れ親しんだ「この家」という場は大切だと言えます。


 共に喜び、次のステージへと意気込む道長の心情は、いきなり出鼻を挫かれましたが、今回ばかりは個人的な想いでフラれたときのように諦めるわけにはいきません。道長は「それでは駄目なのだ。帝は博学なお前にも興味をお持ちだ」と帝の本心を伝えた上で「中宮さまのお傍にいてもらえれば、帝がお前を目当てに藤壺にお渡りになるやもしれん」と帝を道長たちに振り向かせる…その真意についても正直に語ります。

 まひろは、即座に「おとりでございますか?」と真顔で確認を取ります。おそらくまひろは、道長の言葉から、当初の帝の渡りがない哀しい中宮のための「物語」を依頼と帝の御為の「物語」の依頼が表裏一体であったことに気づいたのではないでしょうか。帝を慰めることで帝を藤壺に渡らせ、中宮を慰める…その先にある皇子の誕生…そこまで読めたのではないでしょうか。

 「そうだ!」と明快に返す、道長に「ははあん」と呆れ顔になるのは、自分を政の道具にすることよりも、随分と回りくどいことを考えていること、それを最初から言えない道長の弱さを感じるからでしょう。まひろは、前回、帝の詳細を聞くなかで道長の抱えてきた悩みも聞いています。加えて、作家として覚醒させてもらった恩義もありますから、利用されたとは思えない。ですから、この呆れ顔には、不快な気持ちはないでしょう。

 そうした彼女の表情を見て取った道長は、「娘と離れがたければ連れて参れ。女童(めのわらわ)として召し抱える。考えてみてくれ」とだけ告げると、そのまま帰っていきます。「娘を連れてこい」というのは、彼なりにまひろが「この家」にこだわる理由を察したゆえの言葉ですが、言外に「書くための最高の環境を整えるから、安心してくれ」という意味を含ませています。
 今の彼女は、身体の内から溢れ出る物語と創作意欲に揺蕩う状態、道長の申し出は好条件、魅力的に映るでしょう。ですから、まひろは逡巡しますし、道長はまひろが断ることはないと確信して去っていきます。さすがは左大臣、まひろが出仕してくれるなら、いくらでも譲歩する用意があるからですね(笑)


 まひろに出仕を依頼した道長は、善は急げとばかりに彼女の返答すら来ないうちに、嫡妻の倫子に自分の計画を明かすことにします。方法と立場の違いから長らく拗れた夫婦関係ですが、彰子を幸せにしたい思いは同じですし、彼女が彰子を思う気持ちを蔑ろにすることは本意ではないですし、賢明とも言えません。ただ、妻の旧友でもあるまひろが、道長の「昔の女」であり「惚れた女」であることだけは、今は悟られてはなりません。

 おそらく道長は、まひろを出仕させる可能性に思い当たった時点で、こういう場合を想定して入念にシミュレーションをしていたように思われます(笑)ですから、当然来るであろう「まひろさん?殿が何故、まひろさんをご存知なのですか?」という質問…予告編で視聴者の多くが修羅場を想像して震え上がった台詞にも「公任から聞いたのだ。面白い物語を書くおなごがおると」と澱みなく答えます。知った人間ではないように「おなご」と言い回しているのは、彼なりの工夫ですね(笑)

 「へぇ~」とまひろの近況に得心する倫子に、道長は「帝はそのおなごの書いたものをお気に召して、続きをご所望だ」と続け、倫子を「まあ」と驚かせます。そして、間髪入れずに「藤壺にそのおなごを置いて、先を書かせれば、帝も藤壺にお渡りになるやもしれん」と計画を語ります。日夜、奥ゆかしい彰子に影響されて地味な印象の藤壺(史実でも定子と比較されてそう評されていました)をいかに華やかにするか腐心してきた倫子です。その努力が実を結ばず、行き詰っていたところに、彼女自身が納得できる華やかにする方法が示されたのです。

 おそらく、倫子の脳裏に閃いたのは、若き日の土御門殿サロン(学びの会)での楽しい日々でしょう。倫子は、あのサロンについて、「私、まひろさんがいらしてくださるようになってからこの会が大層楽しみになりましたの」(第12回)と述べています。その言葉にまひろの顔が明るくなったものですが、倫子にとって、まひろの存在が、藤壺を照らす希望と映ったことでしょう。

 ですから「名案ですわ、殿!さすが」と賛同し、道長を褒めそやします。その喜びは、進んで道長に進んで酒を注ぐところにも表れています。道長はほっとしたように「そうか。倫子がよいならそういたそう」と返します。あくまで倫子の納得ずくで進めたことであれば、何か起こったとしてもやりようがあるということでしょう。「惚れた女」を出仕させる正当性のため、彼としては結構頑張った小芝居と言えそうですね。

まひろの件は上手くいったとしても、目的を忘れたわけではありません。久々に夫婦の一致を見た道長は真顔になると「これが最後の賭けだ」と気を引き締めます。

 そんな道長に対して、自然な笑顔になった倫子は素直に「はい」と答えるのは、夫が娘のことをずっと考えてくれていたことがわかったこと、そして、その相談を自分にちゃんとしてくれたことへの充足があるのでしょう。そして「まひろさんのことは昔から存じておりますし、私も嬉しゅうございます」との言葉には、若き日の縁がこうして再び結ばれたこと、親友が娘を助けるかもという希望、そして再会できること、その喜びも膨らんだと思われます。まひろのおかげで、彰子の問題さえクリアされれば、この夫婦にも雪解けが訪れるかもしとも思わせます。

 こうして、道長は、まひろが出仕するよう外堀を…いや、状況を整えていきます。後は、まひろの気持ち一つです。


(4)伝わらない賢子の寂しさ

 一方のまひろは、内裏行きを思案するまひろは為時に相談しますが「この先のことを考えますと、私が藤壺に上がり働くしかないと思います」とあくまで現実問題として語ります。今回の冒頭、いとが、仕事にならぬ物語を書き続けるまひろに「日々の暮らしのためにはならぬということでございますね」と言った際、聞こえていない様子のまひろでしたが、まったく暮らし向きを無視しているわけではありません。

 以前、生活のために父に土御門殿で働くよう懇願したまひろ(第29回)ですから、当然です。おかげで今は安定していますが、1005年の為時は56歳。現在であればともかく、この時代であれば老齢です。加えて宣孝の唐突な死に苦しんだ経験がありますから、まひろが「この先」を見据えた意見を述べるのも宜なるかなと言ったところ。


 その根幹にあるのは「賢子のため」です。我の強さが子育てと教育について悪い形で出る、「物語」執筆に没頭と娘の気持ちをないがしろにするような裏目ばかりのまひろですが、賢子が第一という気持ちは変わらないのでしょう。
 興味深いのは、現代の職業作家でもなく、戦前の文学のみに生きた文人でもなく、その中間…純文学と商業作品に揺れた1950~1960年代の小説家のような描かれ方をされていることです。書きたいものが溢れ出る作家としての情念、一生活者の眼差し、ままならぬ女性としての苦悩、母としての愛情…その多面性が、まひろを作家足らしめていくことになると思われます。

 さて、先々を考えるまひろに、為時は「わしとてまだまだ働ける。年寄り扱いするでない」と若々しさを強調し、案ずるに及ばない、生活のために内裏に行く必要はないと説きます。為時の言葉には、娘に対する情愛は勿論のこと、孫の相手をし、土御門殿では優秀な教え子(頼通)に学問を教える日々は、それなりに充実していることも窺えますね。

 生活のための内裏行きは不要とした上で、「されど、帝の覚えめでたく、その誉れをもって藤壺に上がるのは悪いことではないぞ、女房たちも一目おこう」と、内裏行き自体に価値があるから、出仕すべきだと答えます。第1回から為時の志は一つ、「学問で身を立てる」、このことです。
 しかし、その頑なまでの学問バカの実直さ、時流が読めない不器用さ、中途半端に政争に巻き込まれる不運、これらが重なった為時は道半ばのまま。そんな為時の夢を、今、娘が叶えようとしている。それを諦めさせることはできません。お前のしたいことをすべきだと後押しするのは、娘と自分のためだと言えるでしょう。

 本音としては、「物語」を書き続ける正式な場があるに越したことはないまひろは、為時のその進めに反論はしません。しかし、やはり母としてのまひろには「ただ、賢子のことが…」気掛かりになります。しかし為時は「賢子のことは案ずるな、わしもいともおるゆえ」と、子育てならば自分たちが手慣れていると太鼓判です。よくよく考えれば、ちはや亡き後、為時と乳母のいとが二人三脚でまひろと惟規を育て上げていますからね。

 まひろは一応、「左大臣さまは藤壺に連れてきてよいと仰せなのです」と道長の提案についても話しますが、陰謀渦巻く宮中をささやかながらも知る為時は「内裏は華やかなところであるが、恐ろしきところでもある。お前ほどの才があれば、恐るることもあるまいが、賢子のような幼子が暮らすところではない」と断言します。「お前ほどの才があれば」と為時は言っていますが、史実の紫式部は出仕でかなり精神的に追い詰められました。ですから、賢子を連れていかなかったことは正解でしょう。


 まひろは「そうですね。賢子は父上になついておりますので。私がいなくても…平気かもしれません」と寂しげな表情で自虐の言葉を漏らします。賢子が厳しいしつけと教育を嫌がっているということへの自覚はあるかもしれませんね。ただ、為時になつくことの半分は、母に甘えられない賢子の寂しさから来るものです。構ってもらえないことから、癇癪でボヤを起こしています。そんなまひろの胸中に慮ってか、為時は「任せておけ、母を誇りに思う娘に育てるゆえ」と返し、二人の間を取り持つよう約束します。


 こうして、まひろは藤壺への出仕を決意しますが、夜更けにかわされた母と祖父のやり取りなど知る由もない賢子は、黙々と執筆に余念がないまひろを少し離れたところからじーっと眺め、様子を窺っています。失火の一件以来、賢子は癇癪を起こすことはありませんが、前回からたびたび挿入される何も言わず母を見つめる様子からは彼女が気持ちを押し隠し我慢しているようにも見えます。

 やがて、辛抱しきれず、母の元へずいっと迫ります。気づいたまひろが「どうしたの?」と問うと「母上…私が嫌いなの?」と単刀直入に聞きます。幼い彼女には、まひろの出仕は、賢子を嫌って、この家を出ていくようにしか見えないのですね。賢子の悲しい言葉に、さすがのまひろも筆を置き、賢子と真正面から向き合い「そんなことありませんよ。大好きよ」と答えます。無意識に執筆より母であろうとしたのでしょう。

 「大好きなら何故、内裏に行くの?」と更に質問を重ねる賢子には、まひろの言葉だけでは納得しかねています。母の愛情表現を無条件で信じられなくなっているところに、母子の気持ちに生じた溝の深さが感じられます。
 理由を問われたものの、「物語」を書くためだけではないまひろの出仕理由は、やや複雑です。帝と中宮の関係、政治的背景、中宮のためのおとり…どこから話しても7歳の子どもの理解の範疇を超えています。思いあぐねたまひろは、賢子が自分から離れたくないという面のみを捉えて「賢子も一緒に内裏に行く?」と変化球気味の答えを返します。

 「賢子の生活、将来のために行くのよ」などと子どもへの愛情を言い訳にしなかったことだけは賢明でしたが、このまひろの返答は悪手でした。先にも述べたように賢子にとっては「内裏へ出仕=賢子が嫌い」なのです。したがって、「大好きなら何故、内裏に行くの?」は理由を聞いているようで、その本質は「内裏か私かどちらを選ぶの?」という二択を迫る問いなのですね。
 そんな彼女に内裏に一緒に行く提案をしても、それは内裏出仕を優先した答えにしかなりません。結局、「母上は私より内裏なんだ」と寂しさを深めることになります。

 素直にその寂しさを言えない賢子が「行かない。爺が可哀想だから」と為時を理由にしてしまうのが切ないですね。自身の返事の不味さ、彼女の本心に気づかないまひろは「爺ではありません。お爺さまでしょ?」といつものようにくどくどと言い聞かせてしまいます。
 瞬間、「行かない!」と癇癪を起こした賢子を「お休みの日には帰ってくるから」と宥め、「寂しかったら月を見上げて。母も同じ月を見ているから」と、場所は違っても心は貴方の傍にいるわと伝えます。ただ、月のくだりは、同じように互いに月を見上げ続けた道長との間だから通じるものであって、いくら二人の娘でもそんなふうに月を見ていない賢子には通じないでしょう。

 そして、この母の宥め透かしにも賢子は「行かない!」と叫び、走り去ります。この一貫した「行かない」という言葉からは、言葉どおりの意味だけではないことが察せられます。それは「内裏に行かない私と一緒に家にいて」という懇願です。彼女は必死にすがり、母親を引き留めようとしたのではないでしょうか。

 まひろは立ち去る賢子を寂しげに、でも仕方ないかという顔で見ますが、どう言い繕おうと、母に捨てられた気分でいる賢子からすれば、そこじゃないよとツッコミを入れたくもなります。とはいえ、幼子の言葉足らずの思いを捉えろというのも酷というかもしれませんね。ただ、対するまひろも言葉足らず。お互い様でしょう。

キ ャリアを重ねていく親と幼子の関係とは、いつの時代も難しいものですね。自分の経験と照らし合わせて、苦しく見た方もいらっしゃった方もいたのではないでしょうか。なんにせよ、母子の互いへの愛情はすれ違ったまま、事態はまひろの出仕へと突き進んでいきます。


(5)赤染衛門の身の上に見える女の哀しみ

 後日、道長×倫子夫妻に連れられたまひろは、翌月の出仕に備えた宮中の案内のために参内します。まずは、仕える彰子への挨拶です。倫子の紹介、まひろの自己紹介を終えると道長は「帝たってのお望みで、この藤壺で物語を書くこととなりました。お目をおかけくださいませ」と、その目的を告げ、善処を言い含めます。後宮は女性たちの世界です。いかな道長であっても容易に口出しのできるものではありません。まひろに彼がしてやれる数少ない配慮といったところでしょう。

 ただ、彰子は「帝のお望み?」と、彼女が帝の希望で出仕するというその点に関心が向けられます。先にも述べたように彰子は成長するに連れ、敦康に会うために訪れる一条帝への関心が高くなっています。彼の側が殊更、自分を無視することも気掛かりです。彼女なりに帝を不快にさせないように彼を知ろうとしています。
 ですから、帝の希望という点に反応したのです。道長は彰子の質問に「この者の書いた物語を帝が大層お気に召されましたゆえ格別に取り立てました」と説明を加えますが、彰子が「源氏物語」に触れる機会があるとすれば、それは帝の存在を通してになるのでしょうね。そして、そこに描かれた人々の心の機微が、自己表現が酷く苦手な彼女の心を開くことになるのかもしれません。

 道長の紹介に、まひろは頭を下げたまま「一心にお仕えいたします所存にございます」と至極真っ当な挨拶をしますが、彰子からは何の言葉も来ません。定子であれば、何かしら言葉をかけていますから、そのノーリアクションにまひろは「あれ?失敗した?」というような不安な表情になり、上目遣いに周りを見回します。目の合った倫子が旧友に「大丈夫よ」と頷いてくれたおかげで、その場を乗り切るといった有り様。

 ただ、彰子のこうした反応は、藤壺に居合わせた他の者は承知のことで、取り立てて妙なことではありません。それを知らないまひろは、道長夫妻が、案内を赤染衛門に任せて去る段になると、ますます挙動不審になり、二人に隠し切れない不安の顔を見せます。道長は真顔で、倫子は笑顔で頷いてくれますが、いよいよ、そのときが迫ってきたことへの緊張、藤壺に馴染めるのかという不安が襲ってきたのでしょうね。

 そんなまひろの緊張をほぐすように、土御門殿サロンで旧知の赤染衛門が、気さくに「帝の目に止まるとは、ご立派になられましたね」と褒めます。若き日のまひろは、空気が読めず結果的に学才をひけらかすような危なっかしさがありましたが、衛門はその物怖じしない活発さとその優秀さには好意的でした。跳ねっ返りのその才が帝に認められるほどになったことには、感慨深いものがあったとおもわれます。

 ですから、「何とか今の藤壺の、どうにも行き詰まった気分が改まると宜しいのですけれど」と期待を寄せます。入内からずっと日々を彰子と暮らすなかで、事態を打開できない手詰まり感は現場の衛門のほうが感じているはずです。当然、お渡りもなく、地味な藤壺のさまは内裏でも揶揄されているでしょうから、そこに詰める女房たちの気分も自然と鬱々としてくるでしょう。勿論、衛門は、まひろが藤壺に出仕する理由についても倫子から言い含められていると思われます。

 さて、藤壺を案内する道すがら、子どもについて質問され「7歳になる娘がおります」と答えるまひろに「ご夫君を亡くされて大変でしたよね」と、会わなくなって後の苦労の日々を労います。ただ、そこまで言ったところで「ま、夫はいても大してあてにはなりませんけれど」と本音がポツリと漏れます。旧知で優秀なまひろがやってきたことで、いつもは毅然とした赤染衛門も気が緩んだようですね(笑)

 呆気に取られるまひろに気づいて、一しきり笑うと「私の夫はあちこちに子を作り、それを皆、私が育てておりました」とまひろを気遣えた、自らの身の上の苦労について話し始めます。一般に赤染衛門とその夫、大江匡衡はおしどり夫婦として知られ、匡衡は文人としても優れ、尾張国司守としても善政を敷いており、好人物と言える人物です。しかし、本作ではおしどりと言われる裏では、嫡妻でありながら他の子も育てる彼女の苦労があったとうことのようです。世の男性たちの名声の裏では、どれほどの女性、その男性の部下たちが泣いているかわかりませんね。

 衛門はさらに「そのうち最初の子が大きくなって、下の子らの面倒を見てくれるようになり、帰ってこない夫を待つのも飽きたので、土御門殿に上がったのです」とからっとした様子で語ります。下の子の面倒を見られるような心映えに育った最初の子は長子の大江挙周でしょう。彼は母衛門との親子愛の話が残る孝行息子ですので、こうした話にも説得力があります。因みにその血筋は鎌倉幕府の重鎮、大江広元、果ては戦国大名の毛利家へとつながっていきます。

 賢母ぶりを発揮しながらも帰らぬ夫を待つ妻…まひろにとっては母の姿であり、妾だった自分の姿とも重なります。ですから、まひろには、衛門の「待つのも飽きた」という言葉の言外に苦しみと哀しみがあったことはわかったでしょう。衛門にとって、土御門殿で仕事をすること、倫子の養育をすることは、心の慰めとなったのかもしれません。
 そして、文人の彼女なれば、彼女もまた寧子と同じく「書く」ことで癒された人である可能性もあります。歌集「赤染衛門集」のみならず、近年では歴史物語である「栄花物語」の作者であることが有力視されていますから。彼女も、まひろにとっての大切な先人だと言えそうです。


 仲睦まじい夫婦とばかり思っていたまひろは、意外な告白に「貴女さまが、そのようなお方だったとは存じませんでした」と驚きを隠せません。衛門は闊達に笑うと「人の運不運はどうにもなりませんわね」と卒なく返します。そこには苦労を重ねながらも、強く生きてきた者だけが得た達観と諦観があります(衛門は50歳くらいになりました)。
 しかし、その一方で「あんなに素晴らしい婿君と巡り会えた土御門の御方さまは類い稀なるご運の持ち主。羨ましゅうございます」と倫子を羨む本音を覗かせます。年齢に関係なく、女性は乙女だと言われますが、今もそうしたお人がいれば心が安らぐだろうとどこかで思うのでしょう。

 衛門の言葉に微笑し「まことに…」と答えるまひろの心中もまた複雑でしょう。道長を想うまひろですから、衛門の言葉どおり、彼と夫婦関係となれた倫子を羨む気持ちは当然あるでしょう。まあ。「あんなに素晴らしい」という道長評は、彼の弱さも知るまひろからすると少し違うでしょうが、贔屓目から同意でしょう(笑)

 ただ、その一方で、まひろは道長の心が倫子ではく自分に向いていることも知っています。しかも、己はダブル不倫で道長との子を成した不実の身。親友の倫子を彼女の知らないところで裏切っているその後ろめたさは、一方で道長に愛されている後ろ暗い満足も持っています。だとすれば、倫子が本当に「類い稀なるご運の持ち主」と言えるのかは、疑わしいところがあります。
 幸せと思えた衛門の不幸、道長と結ばれながらも心が通じ合っていない倫子の幸せと不幸、道ならぬ恋にしかならないまひろの不幸と幸せ…誰もが、深い哀しみと苦しみを持っている…そのことが分かってしまった。それが、まひろの胸中なのではないでしょうか。まひろの微笑には、一瞬ですが、寂しさが伴ったような気がします。

 そして、宮中に出仕する女性たちは、身分高い家の家柄ではない場合が多い。だとすれば、この後宮は、そうした哀しい女たちの集まりということになるやもしれません。女性たちの哀しみは、人間への哀愁として、「物語」に織り込まれていくことになるでしょう。


 話が一段落したところで、まひろは「あの…中宮さまはどういう御方なのでございましょう」と問いかけます。仕事先の主なのですから、当然の質問ですが、まひろがこれを聞くのは、先ほどの無反応が気に掛かるところだからでしょう。しかし、衛門の返事は「それが謎ですの」とまったく要領を得ません。「お小さい頃から傍におられましたのに?」と驚きます。そう言われても「それでもわかりません。奥ゆかしすぎて…」と苦笑いする衛門。
 長く過ごしてわかるくらいであれば、倫子も衛門も苦労はしませんし、入内前の花嫁修業であれほどトンチンカンなことはしなかったでしょう。まあ、だとしても衛門が、幼かった彰子に閨房の技を教えた(第27回)のはやりすぎでしたけどね(笑)呆然とするまひろは、自分の来るこの藤壺は、どうにも難しい問題が多々横たわっていることが見えてきたのではないでしょうか。


おわりに

 道長の政を巡る状況は、決して芳しいものではありません。対立する伊周と彼に唆される帝、野心を燃やす東宮と、無用な政争の種が彼の心を追い詰めています。それだけに、帝と中宮の間に皇子が生まれる状況を生む以外になくなっています。こうした、政治的な遠近法のなかで、道長の打開策としてまひろの出仕が諸事万端整えられました。しかし、まひろの側にも内側には賢子との親子関係、外側には後宮という伏魔殿と謎の中宮と、内憂外患があり、道長の策がすんなりと上手くいくのか否かは予断を許しません。


 そして、1005年末、いよいよ出仕の朝が来ます。為時宅では、家人総出でまひろを見送りますが、その雰囲気はまるで娘を入内させるかのように緊張に満ちています。為時は「帝にお認め頂き、中宮様にお仕えするお前は我が家の誇りである」と、まひろを誇りに思うと告げる言葉が仰々しいのは、「学問で身を立てたい」という為時の長年の秘かな志を、娘のまひろが遂に叶えたからです。「我が家」の誇りであるのは、まひろは為時の夢も共に持っていくことになるからです。

 その様子に「大袈裟ですね」と茶々を入れて、場を和ませるのは弟の惟規です。まあ、彼さえ学問に邁進して成果を出していれば、為時がこんな気持ちで娘を送り出すことはなかったのですが、その自覚がさっぱりないところが惟規のよいところです(笑)惟規は呑気に「俺、内記にいるから遊びにきなよ」とまで声をかけます。仕事しろ…と一瞬思いましたが、内記は閑職で割と暇ですから、これはこれでよいか。

 もっとも、彼がこう声をかけるのは、生真面目な姉が、妙なプレッシャーや緊張をしないように気を遣っているからです。惟規の言葉に釣られ、「中務省まで行ったりしていいのかしら」と問うまひろに「待ってるよ」と答えるのは、彼なりの励ましでしょう。何より祝福するからこそ、出仕の朝に為時宅に駆けつけたのですから。普段なら油小路の女の家で寝ている(第30回)はずです(笑)

 「父上、賢子をよろしくお願いいたします」と頼むと乳母のいとにも改めて「頼みましたよ」と託します。生活が苦しかろうと己の思うことをやろうとするまひろは、不良娘とはまた違った奔放さがあり、手の焼けるハラハラさせる子だったでしょう。いとは、ときに心配し、ときに呆れながらも、為時の放任にしぶしぶ従い、温かく見守ってきました。
 また、身籠った子どもが宣孝の子でないとわかったときも、まひろを責めるようなことはしませんでしたし、宣孝と夫婦喧嘩が拗れたときは適切な助言しました。ちやは亡き後、影日向となってまひろを見てきたのは、間違いなく、いとです。

 その奔放なまひろが、帝の願いで宮中へ上がろうとしている…その想像もしなかったこ結果に、さまざまな思いがこみ上げてきてしまうのでしょう。心配と感慨などすべての気持ちをひっくるめて、賢子を強く抱き寄せると「お任せくださいませ」と一礼します。

 脇に抱き寄せられた賢子は、うつむいたままでしたが、最後に出仕する毅然とした母の顔を見ようと顔をあげます。暫し、目を合わせたもの、母との別れに涙が滲んでくる賢子…悟られぬようにするためか、抗議のためか、再び下を向いてしまいます。まひろと目があったときのカメラアングルが、賢子の主観になっているのが印象的です。為時宅を出立するまひろが、賢子にはどう見えたかを撮っています。

 まひろは、暫く会えない賢子の顔を微笑して見つめます。思う存分、書くための出仕は心躍る部分もありますが、それ以上に宮中へ行くことへの緊張のほうが大きいでしょう。にもかかわらず、微笑むのは、幼い娘を心配させないためだと察せられます。しかし、この微笑みを賢子はどう見たか。カメラアングルは見上げる形になります。相手を見上げる形になると、その相手は意図せず、偉そうな雰囲気をまとうことになります。
 ただでさえ、賢子には、出仕は、自分より内裏を選択した結果としか思えていません。賢子には、母が自分を捨てて嬉しそうに内裏に出向いたように見えたかもしれませんね。さすがに、ここではまひろ、賢子の目線へと座り、強く抱きしめてやるべきではなかったかとは思えてなりません。

 賢子といとへの挨拶も終わると、為時は「身の才のありったけを尽くして、素晴らしい物語を書き、帝と中宮様のお役に立てるよう祈っておる」とお役目を果たすよう彼女を励ましますが、相変わらず惟規が「大袈裟だなぁ」と茶々を入れます。ここまで来ると、まひろの役目がどんなものかをあんまりわかっていないというのでは、と疑いたくなる惟規ですが、彼はこれでよいのです。

 「精一杯務めてまいります」と生真面目に返す娘に、うんうんと頷いた為時は、目に涙を溜めながら「お前が…おなごであってよかった」と万感の想いを伝えます。幼い頃から、まひろの学識の高さにたびたび「男であれば」と漏らしてきた為時。この定番のフレーズは、紫式部のよく知られた逸話から来るもので、外せないものです。ジェンダーを内面化させているのでは?といった批判もありそうですが、本作では政は男性の領分だった時代の話、その学才を生かせないことについて、為時は素直にただ惜しいと思い続けた親心と見たほうが生産的でしょう。

 まひろ自身も、そのことを悩んだことも多くありました。例えば、惟規がようやく擬文章生になれたときは、それを喜びながらも「不出来だった弟がこの家の望みの綱となった…男だったらなんて、考えても虚しいだけ…」(第15回)と、自身が女性であることへ忸怩たる思いを抱えたものです。
 しかし、彼女の好奇心はそれでも学ぶことを諦めませんでした。「新楽府」が出れば、それを必死で書写し、学び、理想を抱きました。その経験が偶然の帝との出会いとなり、それがやがて父為時の越前守任官へつながり、彼女自身は宋の文化、地方の政と新しい体験によって、知識だけだった学問に血肉をつけていきました。

 ただ、これだけであれば、女性が当時の男性貴族の真似事をしただけになってしまいます。しかし、まひろは道長との道ならぬ恋に破れ苦しみと哀しみを深くします。そこで感じた思いは、倫子、ききょう、さわ、寧子など多くの女性たちとの出会いと共感によって、まひろのなかで強く太いつながりとなっていきました。そして、宣孝との婚姻、不実によって道長との子を成したことで、家族を持つこと、子をもつことなど、女性としての幸福と不幸をさまざまに味わってもきました。

 彼女の学問への飽くなき好奇心、世の理不尽ゆえの政への関心、そして、女性としてのさまざまな想い、生活者としての実感、女性同士のつながり、そういうさまざまな縁が、彼女の作家としての心象を生み出し、「物語」を生む原動力となったのです。

 まひろは、女性だったからこそ、この極みに達し、それが認められて出仕しようとしているのです。我が子が、自分を乗り越えて、学問の真実へと近づき、出仕する姿を見守り続けた為時だけが、まひろが女性だったからこそたどり着いたことを理解できます。そして、そのことに為時自身も救われる…だからこその「お前が…おなごであってよかった」なのですね。

 当然、幼い頃から為時に「男子であれば」と言われて育ったまひろは、父のさまざまな想いも同時に伝わったことでしょう。父の万感の想いが籠った門出の言葉に胸を打たれたまひろも思わず涙ぐみ、そして晴れやかな微笑みを浮かべます。笑う惟規と泣き濡れたいとのカットも挿入され、まひろは遂に為時宅の門を出ていきます。門の前で泣き濡れる乙丸に「きぬを大事にね」と声掛けする心遣いもよいですね。

 因みにこの一連のシーン、「お前が…おなごであってよかった」という為時の言葉を聞いたまひろが目を見開くのと同時に「光る君へ」のメインテーマがかかるという演出が心憎いですね。まひろの門出を祝うそのメインテーマは、いよいよ、「光る君へ」本編が始まることも示唆しています。となると、タイトルの「光る君」とは、道長と彰子を照らし、やがてその「物語」で宮中を明るくするまひろ(紫式部)を指しているめんもあるのかもしれませんね。

 ただ、そうなるのは、まだまだだいぶ先になりそうです。何しろ、藤壺では彰子付の女房らがズラリと勢ぞろいしています。旧知の衛門だけは、まひろを頼もしく思う面持ちでいますが、他の女房たちの眼差しは、総じて、帝の覚えで来るという女房がいかなる者であるのか…そのようにまひろを値踏みするものばかり。冷たく鋭い眼差しが、緊張するまひろを突き刺していきます…

 ああ、なんか個人的に既視感があると思ったら、私が初めて女子大で教えた日の女子学生らの目線ですね(笑)もう、すっかり何とも思わなくなりましたが、講義室内で100人以上が一斉に自分を見たときの一瞬の緊張は忘れられないですね。まあ、私は数分後に笑わせていましたが、まひろはそうはいかないでしょうね。大奥のごとき、女性たちの世界は、清少納言ですら苦しめられたもの、それがいかなるものとして描かれるのか、次週を楽しみにしましょう。


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