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そのままじゃ「もったいない」ですよ

「いやいや。あなたには関係ないでしょ」

って言われちゃいそうですが、なんだか腹が立ったんですよね。

つい先日、私の仕事場近くでとてもイヤな光景を見ました。

私のポストの目の前は「とても短い横断歩道」になっています。

そのせいなのか『信号無視』する方が結構いるんですよね。

その日は、信号が青に変わり横断歩道を横切ろうとするタクシーの目の前を、年配のご夫婦が2人揃ってさも「そこに信号がないかのような風情」で渡ろうとしました。

慌ててクラクションを鳴らすドライバー。

すると、件の老夫婦の旦那さんの方が激昂してタクシーの方に詰め寄っていったんです。

「ウソ~ん」

と思いましたよね。

完全に『逆ギレ』ですから。

さすがに奥さんの方はマズいと思ったのか、旦那さんに信号の方を「赤よ」と指し示し、タクシーの方に向かって「ごめんなさい」をしていました。

しかし旦那さんの方は振り返りも謝りもせず、後ろから奥さんに謝罪を促されても無視で、私の視界から消えるまでずっとプリプリしながら立ち去っていきました。

「ああ、マジで嫌いだなあ」  

そんな風に心中で呟きながら、私は医療事務時代のあることを思い出しました。 

ある日、病院の会計にやってきた老夫婦。

旦那さんは車椅子で、奥さんがそれを引いています。

「何やってんだ。こっちだろうが💢」
 
奥さんの車椅子の操縦等々いろいろ気に食わないのか、こちらがお会計方法の説明してから実際に精算機で会計が終わるまで、ずっと彼女のことを怒っている旦那さん。

旦那さんの態度に段々腹が立ってきた私は心中で、

「ふざけるな。じゃあてめえがやれや。何様のつもりだよ。車椅子かなんだか知らねえけど、そのくらい自分で出来るだろうよ💢」 

と、あらん限りの悪態をついていたのでした。

上記、2つの件。

私は何で腹が立ったんでしょうか?

「俺が何をしたって、どうせ妻が必ずフォローしてくれる」

みたいな旦那さんの『不遜な気持ち』が垣間見えるのが、私には死ぬほど気持ち悪かったんだと思います。

私は35歳の時にママが人生初の彼女になってくれるまでは、親兄弟以外に私のそばにいてくれる人などいない『孤独な人生』をむさぼり尽くしていました。

「私を理解し、フォローしてくれる人など現れるはずがない」

そんな諦念に長らく支配されていた私は、彼らよりも「そばに誰かがいてくれることのありがたさ」がわかります。

ホント、

「フォローしてもらえるあなた方の境遇は決して『当たり前』じゃなくて『奇跡』のようなものなんですよ。奥様への感謝がまったくないじゃないですか。甘ったれてないで自分に向き合った方がいいですよ」

と伝えたいです。

旦那さんお2人は恐らく80歳手前くらい。

私とは生きてきた時代も環境も、まるで違うのかもしれません。

でも、だからといって彼らが周りにとった態度が正当化されるはずもなく、やはりそれは『愚行』とみなさざるを得ません。

以上書いてきて気付いたのですが、

医療事務時代の時よりも今回の方が目の前の事象を「俯瞰で冷静に」捉えられている気がします。

以前は前述のような不遜な態度を取る年配の方への思いの成分は『怒り』が100%でした。

それは意識のあるなしにかかわらず、自分自身も大いに不遜な気持ちを持っていたからだと思います。

医療事務を退職し警備員として0からリスタートした私は、人との関わりの中で謙虚な心を取り戻し、たくさんのことを学びました。

その中で1番の宝物が「自問自答することの大切さを知ったこと」です。

だから、今回は「ふざけるな」よりも「もったいない」という気持ちの方が大きいんです。

私は46歳からの4年間で、料理やダイエットなど今まで「出来ない」と決め付けていたことが出来るようになりました。

謙虚に己に問い続ける姿勢を忘れなければ、人は年齢は関係なしにいつまでも進化し続けることが出来るのだと実感しています。

だから前述の年配男性お2人が『愚行』を『愚行』と気付かないまま亡くなっていくのは、本人の主観的にはしあわせなのかもしれませんが、私的にはすごく

「もったいないなあ」

という気がするんです。

縁あって結ばれた仲です。

どうせなら、亡くなる時は奥さんに「心から」悲しんで欲しいじゃないですか?

今のままなら彼らは、

「あ~良かった。せいせいした」

なんて、奥さんに思われかねませんよね(笑)。

重ねて言いますが、人はいくつになっても変われます。

だから私は諦めたくありません。

最後に上記旦那さんお2人と自分自身の心にも響くように、大きな声でお伝えします。

「そのままじゃもったいないですよ😊」



























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