何のために生きているのかわからない、のは。
何のために生きているのか、わからなかったのは
自分は人間で、自分が生きていると
勘違いしているからかもしれない。
人間は頑張って勉強して、
知識を身につけて、仕事をして、
目標掲げて、達成したり、
パートナー見つけて結婚して子供産んだり、
生きる目的をみつけなきゃいけないと、
自分の価値をつけなきゃいけないものだと、
思い込んで生きていて。
でもそこに取り組めないのは、
ダメな人間じゃなくて、
そこに価値を見いだせないだけ。
そうしようとしても続かない。
意欲が湧かない。
どうしても欲しい、と思えない。
これは、自分というのは、
この身体の人間で、
自分が生きている、という思い込み、
勘違いから始まったのかなって。
そして、自分の頭で考えて、頑張って、
自分の力で生きていかなきゃいけない、って
思い込んだから、苦しむことになったのかなって。
そういう社会の箱の中に、
自分の目が向いていたから、
みんなそういう風に生きているように見えるし、
常識、というものを口にするし、
そんな情報ばかりだし、
そういうものしか見えなくなってしまったのだけど。
その社会という箱のなかで、
自分は生きている、という錯覚により、
希望が見出だせなくなり、苦しんでいるんだな。
私は、この社会に産まれたと思い込んでいたけど、
私という生命は、
この地球に、産まれたんだということ。
私という生命は、
この地球に、産まれたかったんだということ。
私、という存在は、生命。
もともと、私は生命という存在。
生命が私。
この身体は、地球のもので、
生命が作り出したもので、
遥か昔から地球で作られ、
祖先たちが受け継いできたもの。
私という生命が、
それを今、こうして、
受け継ぎ、
この身体と共に『生命を生きる』ことができている。
植物には脳もないのに、
人間の言葉がわかるのは何故?という
話を聞いていた時、
気づいたこと。
植物を生かしているのは、
生命であり、神の働きだからこそ、
わかるのだろうなということ。
神、この場に遍満する源は、
完全、完璧なものだから。
そのことに気づいた時、
人間も同じなんだと気づいた。
頭で考えて、生きている、という風に
錯覚してしまったけど、
本来、植物と同じで、
素直に純粋に存在していたら、
素のままの神の働きが顕れるのだなと。
この場に遍満するエネルギー、神の働きは、
常に満ちている。充足している。
どんなに深い森のなかの、
誰も知らない微生物にも、
ちゃんと神の働きはなされていて、
必要なものが充分行き届いている。
そこには働かない、
足りないということは一切ない。
どんなに暗闇に隠れても、
自分には神の働き、愛なんてないように思えても、
神の働き、神の愛は、そこで働いている。
満ち満ちている。
そこで息が充分できるように。
血液がちゃんと流れ、内臓が動いているように。
一人ぼっちの部屋にいても、
そこにも目に見えないほどの微生物が生かされ、
神の働きがある。
循環が行われている。
この身体のなかでも、
外でも、
神の働きが起きていて、
常にすべてが、神の働きのなかに存在している。
神の愛の充満の場のなかだ。
『生命』が私、だということ。
目に見えない、生命、が私。
繋がっているようにみえないけど、
皆ひとつの生命。同じ生命。
花は、生命、神の働きにより、
種に詰まった情報通りに、芽をだし、成長し、
ちゃんとその花が咲く。
違う花が咲くことはない。
完璧な神の働きがある。
人間も同じなのだ。
素直に存在していれば、神の働きがちゃんと顕れる。
違う花になろうとか、他と競わなくても、
それぞれにちゃんと神の働きが顕れる。
ちゃんとそれぞれの生命の花が咲く。
能力も使命も力もちゃんとあることに気づく。
神の働きがちゃんとあることに気づく。
このことに気づいた時、
だから、人間には、
鎮魂(五魂の統合)が必要なのだなと気付いた。
万象万物のように、
働きのまま顕れるように、
働きのままに、
素直に生きられるように、
鎮魂が重要なのだな。
生命の私がそのまま顕れるように。
美鶴 mitsuru.🌈