見出し画像

本雑綱目 45 赤坂憲雄 異人論序説

これは乱数メーカーを用いて手元にある約5000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。

今回は赤坂憲雄著『異人論序説』です。
ちくま学芸文庫でISBN-13は978-4480080158。
NDC分類では社会科学>風俗習慣. 民俗学. 民族学に分類しています。

1.読前印象
 異人というのは基本的には自己のコミュニティの外側から来た人間を指し、日本においては鬼や天狗といった人ならざるものの姿で現れることも多い。とはいっても必ずしも異能や異形というわけではない。本邦における鬼の初出は日本書紀で、佐渡ヶ島に住み着いた粛慎みしはせ人なのだろうけど、大陸からわたってきたであろう彼らは客観的な容姿等の記載をみてもとりたてていわゆる人間と変わることはないのに、現地民(の疑心暗鬼?)によって虐殺された。
 本来人というものは理解できないものを恐れる性質があるから仕方がないところで、だから肌が赤い鬼や鼻の長い烏天狗系列ではない天狗は西欧人によく紐づけられる。なお欧米人渡来の歴史は自体はそもそも古く、奈良朝時代の木簡からはシルクロードを通って訪れた中東人が士官していることが現れている。そして同時代の奈良朝にとっては東北に住む蝦夷はこれらの欧米人より更に異人で人とは思われていなかった。この辺りの文化的解釈というのはなかなかおもしろいところ。
 というところで恐らくこの本はそのようにして訪れた異人たちの本で、それが日本人と同化していく過程の資料があれば面白いな、と思っている。

2.目次と前書きチェック
 目次は『異人 漂泊と定住のはざまに』、『異人の考古学』、『異人の系譜学』、『異人の現象学』、『さらに、物語のかなたへ』です。この大きな章題からは中身がさっぱりわからないが、小題を見るとわりと予想通りな感じ。
 異人の考古学から『ほかいびと・まれびと・やまびと』、異人の現象学から『われら・かれら・バルバロス』と『内なる他者・無意識・狂気』読んでみようと思う。 3つずつ韻を踏んだタイトル……。他にも通過儀礼や王権などの興味深いタイトルもあるけど、とりあえず気になった順。

3.中身
『ほかいびと・まれびと・やまびと』について。
 あー。一番最初の一文を引用しよう。
 秩序コスモス混沌カオスという二元的構造をもつ定住農耕民のコスモロジーにあっては、共同体の外部から訪れる人々は〈異人〉である。
 言ってることは至極簡単で、『コミュニティにとって外からくる人は異人』ってだけなんだけど、序説と書いてあるわりには素人お断り感のあふれる言い回しだ。ずっとこんな調子なので、この文体が苦手な人は回れ右してもいいかもしれない。これは単純に文体の問題で、源氏物語を素で読めるかどうかとか、そういう目の慣れの話。
 フレイザーの金枝篇やメアリ・ダグラスの汚穢と禁忌などを引き、異人は理解できない穢や呪力を帯びた存在であり、通過儀礼、つまり人の証をたてて初めて村落に入ることができるとする。一方の異人は共同体から排除されているという状態によって聖なる属性が付与され、乞食や山人、祭りの例をひいて外界の存在である稀人の位置づけについて述べる。
 この章の中心は異人(外部者)というよりは、共同体の内側と外側及びその聖俗の関係性について述べたものだが、なんとなくバラバラに各種論が紹介されていて、焦点がブレているような気がする。

『われら・かれら・バルバロス』について。
 前のほかいびとの章は共同体の内外の関係性で褻晴を分けているどっちかというと制度論だが、この章は知不知という人の認知の話のようだ。人々は不知及び未知な者へのおそれを異人に抱く。
 古代ギリシアにおいては、未開なる人々は一律に未開とタグ付けされてバルバロス(未開の人)と呼ばれた。このように共有可能な価値概念を持たない人々をカテゴライズし、ときに事実と異なるレッテルを張って(たとえば食人族だとか犬頭だとか)排除を正当化するとともに真に不知なもの(世界の果てとか)との緩衝材として未開人を置いた(概念)。
 日本の妖怪は既知のもので未知を解釈する存在であり、未知(神)との間の境界であるとして柳田國男や小松和彦の論を紹介する。僕は柳田の堕落する神説は一面的とは思うのでどちらかというと小松説なんだけど、それも違和感があるんだよな。そうして話は政治的生贄論に移る。
 全体的に書いてあることは理解できるんだけど、それぞれ異なるカテゴリを対象とした論を十把一絡げにしようとしていないか……?

『内なる他者・無意識・狂気』について。
 異人とは様々なレベルで特異性を有する存在を指すが、夫々の社会に暗黙に期待される異人像があり、それを逸脱する異人像は忌避されるという話。共同体及びそれに所属する人間の内側に醸造される無気味なものという共通概念があり、近代までは例えば狂人がその役割を担っていたが、近代以降は病気という通常、つまり共同体の内側に閉じ込めることによって人々は外部ではなく自分自身の中に異界を取り込んでしまった(なぜなら病気は誰でもなりうるものだから)という話。フーコーとかの話は好きなんだけどね。

 全体的に、序説と書きつつ用語が専門的なので、民俗学系の本をある程度よんでないと目が滑る本だと思う。そして今のところ民俗学的な分野で共通概念となっていそうな一般論がつらつらと並べられている印象。
 小説に使えるかと言うと、僕は実際に概念として話で使っているものの、この本をダイレクトに小説にそのまま昇華できるかというと何段階も自分自身で噛み砕く必要があるので、正直民俗学的な話を書きたいならこの本より引かれているフレイザーの金枝篇(ただし情報精度として微妙)とか小松先生の本を読んだほうがいい気がする。

4.結び
 そもそもの民俗学という分野の成り立ちがよくわからん文化伝承を整理し共通項を見出そうというものなので、ある程度一般化するのは仕方がないとは思うのだけれど、どうもその枠組が大きすぎる気がするんだ。個別性に注目しながらその個別性を排除するというよくわからないムーブ。だからこの本でも様々な事象がまるで共通する話のように書かれているけれど、自分としてはかなり懐疑的なところ。この本にかかれている異人の性質こそそれぞれの集団の文化によるところなので、この本の一般化は大枠すぎる気がする。
 次回は佐藤幸治著『文化としての暦』です。
 ではまた明日! 多分!

#読書 #読書レビュー #レビュー #うちの積読を紹介する #感想 #書評  


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?