【目下 製作中!】逡巡から生れ落ちた「栗」
この秋、特には11月の声が聞こえだした辺りから、思い出したように栗根付ばかりを作っているような気がします。
実は、この状況 ……。予てからそれとなく触れてきた通り、僕自身が迷走状態に陥っていることを示してます。
悔しいですが、認めざる得ません(苦笑)。
本来なら、先月中に手掛けようと段取りしていたお題があったのです。
しかし、いつまで経っても気持ちが高ぶってこないというか、着手した途端に頓挫しそうなイメージが消えないので、現在も放置しています。
有体に云えば、機が熟していないということなのでしょう。今もなお、逡巡を繰り返しているような状態が続いています。
さわさりながら、手を動かさずに沈殿し続けるのも不本意ですから、ここぞとばかりに栗根付と茄子に走っていたというわけです。
まぁ、若干…… 現実逃避の感は否めませんね(苦笑)。
しかしながら、そんな逡巡の日々の中にも、怪我の功名がありました。
それは、色々な栗を彫れたことに加え、これからも折に触れて製作していきたいと思える栗の姿を見い出せたことが挙げられます。
それは、北風が吹き荒んだ10月某日のことでした。
近所の公園に植えられた栗の木の根元で、緑色と茶褐色のグラデーションをまとった小さな毬栗が落ちているのを見つけました。
不幸にも、折からの強風で成熟する前に落下してしまったのでしょう。
歩み寄って観察してみると、毬の割れ目から未成熟な実が見えました。
特に、両側の実に窮屈そうに挟まれていた真ん中の栗は、虫すら食べることを欲しないであろう程に痩せ細っていました。
その様子を見た途端 ……。
「あぁ、そうか、俺が作る 栗根付 は、こういう奴でいいんだよな。」
そんな風に思えたのでした。
僕も凸凹の人間です。
ブランド産地に育ち、高値取引をされ、八百屋さんやスーパーで売られる様な立派な栗ばかりが栗ではありませんよね(微笑)。
名も無き雑木林の片隅で育った栗の木から、成熟しないまま地面に落ちてしまった栗だって、正真正銘「栗」であるはず。
何の因果か、人生は常に不条理や不平等がつきまとうものです。
そうした状況が常態化するのは余りにも辛過ぎますが、あえて静かに受容して耐える場面も少なからずあるものです。(本音:圧倒的に多い)
名も無き三粒の栗たちは「人間も栗も自然の中で生きているという点で同じ」なのだということを、その姿を以て示してくれました。
秋は忘れかけていた何かを気付かせてくれますね …(しみじみ)。