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【記憶より記録】図書館頼み 25' 1月

 いよいよ確定申告シーズンの気配が漂ってまいりました。
 正月休みを機に諸々の準備を終えた今、関係各所から書類等々が届くのを待ちながら、国税庁のHPで改正内容を再確認しているところです。
 ここ数年来、インボイスやら軽減税率やら定額減税やら・・・厚顔無恥な政治家と国民を舐めている馬鹿にしている小利口な官僚によって振り回されている感がありますが、つまらぬ文句を吐くよりも先に義務を果たしておこうと思います。なんて愁傷なことを綴っておりますが、いい加減 勘弁して欲しいってのが本音ですね(寂笑)。

 それでは、久方振りの『図書館頼み』に入らせて頂きましょう。
 ここ最近は、年末から継続して借りていた数冊の本を何度も読み返しておりました。良書が持つ懐に対応すべく、所蔵する本を紐解きながら確認するといった『遠回りの読書』を楽しんでいるところです。

1:飴と飴売りの文化史
 
 著者:牛島 英俊 発行:弦書房 

昨年11月から継続して借り続けている本の中の一冊。
題名だけ見れば、ニッチな内容に始終しているかの様に映ってしまうかもしれないが、その内容の深さと幅の広さは、私の想像を遥かに超えていた。それは見事なまでに様々な分野を軽々と横断しているのである。
それが数か月に渡って手放せないでいる理由のひとつになっている。


『飴』と言えば、最近の私にとっては必要不可欠な菓子になっている。
特に、乾燥する冬期から花粉が飛散する春先の期間は、機能性を謳う飴のお世話になることが増える。無論「乾燥に対処するなら水分を摂ればよいのでは?」と思う御仁もおられるはずだ。しかし、水分を摂れば、摂った分だけ出すものを出さねばならなくなるわけで・・・。それが私の様なお年頃の人間には厄介なのである。故に、しもの回数を抑制しつつ、喉を乾燥させない方策のひとつとして飴を口の中に放り込む機会が増えるのだ。

では、私がこの飴のことを深く理解しているかと言えば、その様なことは一切ない。むしろ、極端な表現をすれば『飴=砂糖』くらいにしか考えていない不躾な人間であった。
そもそも、本書を手にしたというのも、従前より棒手振りボテフリに興味を持っていた私の食指が『飴売り』という文言に反応してしまったことに因るのであって、飴自体に頗る興味があったわけではない。

しかし、そんな一読者に手強い一撃著者の知見を加えてきたのは、私が鼻から求めていた『飴売りの実態・実相』よりも『飴が内包している分厚い歴史と文化』の方に数多存在していたのである。
殊に『第一章:飴の登場と広まり』の前半20頁は誠に芳ばしい内容で、飽きずに何度も読み返してしまった。この章のお陰で、私は飴の原型とも言える甘葛煎あまづらせんの存在を知った。(恥ずかしい話だが、本書を手にしてから僅か十数分で『飴=砂糖』の等式が瓦解したのである。)

よくよく考えてみれば、砂糖は甘藷やサトウキビから搾取されたものであって、飴とは似て非なるものなのだ。
勿論、今となっては飴に砂糖が使われている例は枚挙に暇がない。しかし、古から伝わる飴の原料が、植物や穀類などのデンプンを糖化して作られているという事実に触れると、飴の見え方が大きく変化するのである。(事実、この『糖化』という言葉が私に気付きを与えてくれた。)
そもそも、糖化の際に活躍するのが酵素であることに気付けば容易に分かるはずなのだ。さすれば、飴は『甘味・菓子の種』ではなく、納豆や味噌といった発酵食品に近い食べ物だと言っても差し支えないのである。

かくして本書は、私の想像を超えた奥行きと広がりを見せつけながら、その内容を『飴』から『飴売り』へと移行していく。
特に、日本の各地に散在した『飴をつくることを生業にした村』の存在や『笛を吹きながら飴を売る』という飴売りならではの特徴に関する知見、そして1900年代初頭に日本各地で散見された『飴売りに従事した朝鮮人にまつわる話』、更には、全国各地に分布している『飴を買い求める幽霊の話』に関する事例や『飴売りの末裔』といった周縁の歴史を詳らかにしている点に深い感銘を受けた。実に素晴らしい一冊であった。


余録

先年、縁あって『砂糖の通った道 / 八百啓介 著』という本を読んだ。
『砂糖の~』に記載された砂糖と北九州エリアの濃密な関係性もまた、本書においても指摘されており、飴・飴売りを解する上で一定の役割を果たしてくれたことを備忘しておく。


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