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【記憶より記録】図書館頼み 2307#1

 夏季休暇の声が聞こえてきましたね。
 悲しいかな、この長期休暇前の繁忙期に、昨今の急転直下型の天候が加味されるので、予定通りに事が運べず、頭を痛める今日この頃。
 ということで、これからお盆を過ぎる頃にかけて読了する本が目減りしてしまう僕ですが、「図書館頼み」が継続できる程度には読書時間を確保していこうと考えております。

 此度は、7月前期の借用本です。驚くなかれ、たったの1冊ですが、これもまた繁忙期の実情ということで、お笑いください。それでは、お時間の許す方はお付き合いくださいませ。

1:土門拳が封印した写真 
  著者:倉田耕一 発行:新人物往来社

 幾度となく訪れてきた場所がある。
 それは山形県は酒田市にある「土門拳記念館」だ。

 何やら安穏とした旅行記のような書き出しだが、本稿はさに非ず。 
 本書「土門拳が封印した写真」を見知って以降、図書館の書庫から ” 手に取っては元に戻す ” といった逡巡を繰り返してきた。それは、自分が敬愛する 土門拳 の弱さを知ってしまう様な怖さを感じてしまったからだ。

 此度は、賛辞と敬意をもって語られることが多いカリスマ 土門拳 を再考する決意を以て借りることにした。故に、既知の情報による影響を排し「一人の人間」として捉え直してみようと考えた。
 その無謀な企みには、何某かの助勢が必要だった。それが、自身の体験を裏付ける幾枚かの写真だったというわけである。
 この ” 私の至らなさ ” に許しを請いつつ、備忘を続けさせて頂く。

土門拳記念館(2004年3月)

 本書は、第1次大戦を契機として、パイロット育成の必要を感じた海軍が設けた「海軍飛行予科練習生」略して「予科練」に所属していた青少年たち(14~20歳)を、土門拳(以下、土門)が撮影していたという事実を詳らかにしている。
 正に「活写」と評するに相応しい写真が表紙を飾っているけれど、「土門拳が封印した写真」という題名からは、写真家(撮影者)として抱えて続けてきた暗部が露わになっているように思われてならない。

 土門 が茨城県の阿見町に設けられた予科練(土浦空・甲種十三期飛行予科練 第三一分隊)を撮影した1944年(終戦の前年)を彼自身の年表に当てはめてみる。
 当時35歳だった彼は、既に国内外の雑誌などに作品が掲載されていたし、業界内におけるセンセーショナルな活動も見てとれる。さわさりながら、市井の人々にくまなく認知されていたとは言い難い。
 加えて、土門 の存在を広く知らしめた写真集「古寺巡礼」に繋がる寺院の撮影を開始したのが1946年(終戦直後)であることを鑑みれば、彼が大きく飛躍する前段に「予科練の仕事」が存在したと言えよう。

土門拳に相応しいファサード(設計:谷口吉生 ※父は谷口吉郎)

 因みに、この仕事が「軍の嘱託」であったか否かは不明らしい。それは、本人が長い時を経ても口にすることなく、且つ記録にも遺されなかったからである。(個人的には嘱託であったと推測する。)
 この ” 土門の沈黙 ” が、「予科練を撮影したという事実」を消化できずに黒歴史化させてしまったという経過を物語っているように感じる。

 一介の読者に過ぎない私としては、土門 が予科練の仕事を引き受けた理由として「写真が持つ社会的意義を持って貧窮と不自由さと格闘した結果の選択」という著者の性善的な見立てを否定はしない。
 しかし、「軍の嘱託か否か?」という不明瞭な経緯を無視したとしても、戦時中の彼が ” 赤紙 ” を恐れていたことは事実であるし、そもそも予科練という秘匿性の高い場所で撮影できる立場を得た達成感や、大衆の目に触れたことのない場面を記録できる優越感、そして幾許かの功名心をも心に秘めていたであろうことは想像に難くない。  

館内にはイサム ノグチの作品が点在している

 それは、土門とて浮世を生きる人間であり、且つ、そうした人間の中にあって自意識や自尊心が頗る発達した表現者だったからだ。
 ” 背に腹は代えられぬ ” という状況と共に、彼の中の強烈なエゴと幾許かの打算が働いたとしても何ら不思議はない。
 なにしろ、写真撮影に必要な資材が不足していたであろう終戦直後から、寺院を精力的に巡っていたという記録もある。故に、予科練の仕事を通して余禄を確保していたことは紛れもない事実だろう。

※土門を崇拝している方々にとっては、不愉快な私論に思われるやもしれません。しかしながら、土門の様な強靭な表現者は、多角的な視点からの評価や批判に耐えうる強度を持つ稀有な先達の一人だと思うのです。故に、客観的かつ自由闊達に評価することができる対象だと「今の私」は考えておりますので、悪しからずご理解を賜れれば幸いです。

 いずれにせよ、本人が自ら作品を封印し、更には鬼籍入りしている以上、遺された物語の解釈は如何様にもできる。
 ただ、本書を読み進めていく中で、土門 が直面した現実が、彼自身の思惑や想像と大きく乖離していたことを強く感じた。
 その「乖離」が、ある種のルサンチマンと同時に後悔や自己嫌悪をも発現させ、やがては予科練の仕事を封印たらしめたと推測する。

イサム ノグチの空間に紛れ込む長男

 嗚呼、戦争について適切に語る口を持たない自分に嫌悪する … 。
 本書には戦争をテーマに据えた本にありがちな悲壮感は微塵もない。
 けれど私自身は、戦争にまつわる話を自分以外の誰かに伝えることを想定した途端、筆を持つ手が … そして口が … 重くなるのだ。平たく言えば、戦争体験のない私が軽口を叩くことを許さぬ力を感じてしまうのである。

 しかし、彼が直面した「乖離」について言及せずに筆を置くことは回避したい。それは、私が出来る唯一の指摘にも思えるからだ。
 彼が直面した「乖離」を表す一例として、本書の冒頭を飾る「軍刀の手入れをする予科練生」という口絵(モデル:栃木出身の岡崎青年)にまつわるエピソードを挙げておきたい。

 当初、旧制仙台二中(現・県立仙台二高)出身の菅井青年を撮影しようとした土門は、「あんたに写真を撮られるため、予科練に入隊したのではない!」と菅井青年に一喝された。然しもの彼も無理強いを諦め、前出の岡崎青年をモデルに撮影したという。

 このエピソードは、予科練という集団の中にあって、写真家であることを標榜する土門が、どのような立場にあったのかを如実に表している。
 彼が著名な写真家(芸術家)であろうとなかろうと、若い身空で空に散ることを選んだ青年たちにとって、間違いなく邪魔な存在であったのだ。 

 そろそろ ” 拙い備忘録 ” を終わらせる頃合であろう。

 戦時中、多くの絵描きが従軍画家として軍に帯同した。私の敬愛する版画家 吉田博 や、岩手県の画家 佐々木精治郎 もそうだ。 
 戦後、前出の様な芸術家を筆頭に、多くの文学者、芸能者が、戦争と自身の関わり方について後悔の念を抱き自己嫌悪に陥った。そして、さしたる猶予を与えられないまま価値観の転換を強いられた。
 繊細な感性と表現者としてのプライドを持っていた土門もまた、著しい乖離と転換による反動(揺り戻し)を発現させたはずだ。その先に「封印」という顛末が見え隠れするのである。

酒田と言えば山居倉庫か

 21世紀を生きる私たちは、彼らの様な表現者達が溜め込んだ ” 憤懣やるかたない思い ” を正確に解することはできない。
 ただ、時を経る中で、こうした消化しきれぬ思い(後悔・反省・訓戒・自己嫌悪)を胸に忍ばせながらも「描き続けた」、或いは「撮り続けた」という血反吐を厭わない執念と丹力を、彼らの作品から感じとることは可能だと信ずる … いや、信じたい。 

 ” 本書を読む前 ” とは異なる視点で、改めて土門拳の写真と対面したい。今ならば、過剰な崇拝や畏怖の念を抱かずに鑑賞できるように思う。
 「土門拳記念館」を再訪する日が待ち遠しい。


【 覚書 】
 本書の第4章「米本土に焼夷弾を投下した男」は、かつて放映されたNHKのドキュメンタリー番組「伊400 幻の潜水艦」に関係する内容で非常に面白かった。

 土門に直接関係する物語ではないが、本書においては、サイドストーリーといった扱いになるであろうか。
 当時の予科練生たちが「雲の上の人」と敬った藤田信雄(大分県出身・平成9年まで存命)が、伊号25潜水艦に積んだ零式小型水上偵察機を操縦し、アメリカ西海岸(オレゴン州)の山林に焼夷弾を落したという実話である。

 私自身は、雑誌「歴史人」で、この伝説的な史実を認識していたが、終戦を経た後に、藤田がオレゴン州・ブルッキングス市の学生たちと交流を続けていたというエピソードの経緯や仔細を本書で知ることできた。
 藤田の気骨ある人柄といい、日米親交の活動に至る経緯といい、胸を熱くした章となった。

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