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【記憶より記録】図書館頼み 24' 4月
想像以上に慌ただしく過ぎ去っていった4月。
一瞬にして葉桜になってしまった「今年の桜」と、未だに落ち着きを取り戻せてはいない自分を重ね合わせ、ただただ苦笑するばかりの私。
一方、大学の講義が本格的に始まった次男坊は、可もなく不可もなくといった風を醸しつつ、学生生活を謳歌し始めているようです。
何でも、食が細い次男坊を心配する嫁さんの元には、彼が自炊した料理の写真が定期的に送られてきている模様。その都度、嫁さんは「頑張って緑の物を加えるようにしているけど、圧倒的に茶色なんだよね。」と、苦笑を浮かべながらスマホの画面をこちらへ向けてきます。かく言う私も、その写真を見てホラン千秋さんの「茶色い弁当」を思い浮かべて苦笑い。
どうやら、我が家の春は「苦笑いの春」になってしまったようです。
それでは、4月の「図書館頼み」を備忘させて頂きます。
因みに、今月もバタバタが続いた結果、以下の様な有様になっておりますので、悪しからず。
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1:栃と餅 -食の民俗構造を探る-
著者:野本寛一 出版:岩波書店
出会えたことに幸せを覚える本は多いようで少ない。
本書は、そんな稀有な感覚を得られた良書であった。何故、今の今までこの本を図書館の本棚から見つけることができなかったのか・・・自身の目が節穴であったことを痛感させられた次第。
本書の題名は地味で限定的である。けれども、副題を一瞥すれば「栃と餅」を網羅するだけに留まらない拡張性を感じるはずだ。事実、その予想は裏切られないのである。
著者は「栃」や「餅」という食材・食物を、自らが大別した「生存のための食」「儀礼のための食」「楽しみのための食」という古の食風景の象徴として捉えているように思われる。しかし、本書で取り上げている食材は数多に及び、それらを機知に富んだ分別の法を以ってまとめ上げており、読み応えがあることは言うまでもない。
この1カ月間で、本書を複読して感じたこと幾つかがある。
まずは、地域的な偏りが見られないということを挙げたい。勿論、扱っているのが食物・食材なので、採取・栽培に適さない地域が俎上にあがることはないのだが、東西南北を問わず様々な地域の情報が満遍なく記されている。それは正に、微に入り細を穿つ取材の成果なのだろう。
また、著者の記録は、人肌を感じさせる温もりがあり、クオリティーの高いドキュメンタリーを鑑賞しているような心持ちにさせてくれた。
加えて、レピシ(食材の加工や調理の過程)や数値を伴うデータは、堅実な資料性を持ち合わせると同時に、時間の経過を感じさせない「生々しさ」を兼ね備えていたことも付け加えておく。
いずれの章・項も素晴らしい内容を保持しているけれど、とりわけ私の琴線に触れたのは、Ⅰ・三章「飢えの記憶」である。
以前、宮本常一の「忘れ去られた日本人」という本を紹介した拙記事の中で、「飢饉の折に彼岸花の根を食べた」という史実について綴った。
件の「忘れ去られた日本人」では、彼岸花の根の毒(アルカロイド)を抜くために「水にさらした」というところまでしか記されていないが、本書では詳細に渡って記録されていた。ほぼレシピと言って差し支えないだろう。
因みに、本書で例示されていたのは、彼岸花ではなくキツネノカミソリという彼岸花科に属した植物であり、かつ根ではなく鱗茎を食べるための手順になる。(彼岸花の根を食す場合と大差はないと考える。)
こうした素朴でありながら危険な香りする食の風景を想像していく中で気付くことがある。
それは、毒を持つ植物からデンプンを得るという行為が、清らかな水が潤沢に存在した国土であったからこそ獲得かつ醸成し得た技術であったという事実である。
こうした史実とその背景を組して考えていく中で、大量の水を要する稲作を可能にした、日本という島国の稀有さに気付かされると同時に、火山の影響で稲作に適した土地がなかった山間・高所地域に暮らした人々の苦渋に満ちた創意工夫の有様に畏怖の念を感じてしまうのである。
いずれにしても、不定期に訪れる飢饉を恐れた先人たちは、採取に伴う労働で消費するカロリーと獲得したカロリー・栄養素において、明らかに不均衡としか言いようがないトレードオフを、健康や生命という名の犠牲を払いながら続けてきたのである。
食糧難が叫ばれて久しい昨今。
かような食風景を紡いできた「かつての日本人」と、目の前に用意された膨大なカロリーをただ消費するだけの「現代の日本人」の対義構造を思う時、曰く難い不安を覚えてしまう今日この頃なのである。
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