「大人が知らない教科書の違い」戦争とスパイ 手奇塾 おとなが知らない各社教科書(歴史・公民)をやさしく徹底比較 2020年9月11日 07:30 第6回 大人が知らない教科書の違い【戦争とスパイ】今回は、だれが日本の総理大臣でもあの戦争、支那事変(日中戦争)と大東亜戦争(太平洋戦争)は、避けることはできなかったのではというお話です。支那事変(日中戦争)については、youtube動画「大人が知らない教科書の違い」【中国の台頭と米中激突】でおはなししていますのでそちらをご覧ください。URLはコメント欄に記載しています。多くの歴史教科書の記述は、一言でいえば、あの戦争は、侵略戦争で、軍部が独走したというイメージをいだかせるような記述になっています。マスコミの論調も同じで、もはやテンプレートになっています。例えば、学び舎238ページでは以下のように記述されています。「日本は、石油など戦争に必要な資源獲得のために、東南アジアへの進出をめざしました。・・このことは米英との対立を深めました。1941年、アメリカは、日本に対する石油の輸出を禁止し、日本軍は中国とインドシナから撤退すべきだと外交交渉で要求しました。日本はこれを拒否して、米英に宣戦布告したのです」と。しかし、どの教科書も大事なことが書かれていません。当時も今も日本は、石油を輸入に頼っています。なんと当時は、アメリカから輸入していました。石炭で軍艦が動く時代は、日本海軍は世界最強の海軍でした。しかし、石油の時代になってからは重油がなければ軍艦は動きません。航空機ガソリンもアメリカから輸入していました。少し考えればお分かりいただけると思いますが、石油や航空機ガソリンを売ってくれている相手に戦争を仕掛ければどうなるでしょう。つまり日本にとっては、アメリカと戦争をせず、経済的関係を深くすることが当時重要だったはずです。しかし、相手があることですから、いくらこちらが仲良くしようと思っても相手がいじめてやろうと思ったら付き合うのは容易ではありません。話は、日露戦争が終わったところまで遡ります。明治41年、1908年10月16隻の戦艦からなるアメリカ大西洋艦隊が、世界一周の航海の途中、日本にやってきます。当時の日本は全部で9隻の戦艦ですからこれは大艦隊です。日本政府はこれを威嚇外交と察知しましたが、外交儀礼上歓大迎しました。アメリカは、フィリピンを植民地としていましたから、日露戦争に勝った日本は、太平洋をはさんだライバルになったのです。1913年カリフォルニア州で、日本人が新たに土地を購入することをできなくする、排日土地法が制定されます。この年の選挙ポスターには、排日のsailent invasionのキャッチが使われます。1920年、日本もイギリスも破棄を望んでいませんでしたが、アメリカの強い意向で、20年間続いた日英同盟が破棄されました。これにより日本は単独でアメリカの軍事力に対抗しなければならなくなりました。大正13年、1924年には、排日移民法が成立し、アメリカは、日本人の移民を全面的に禁止にしました。これには日本の世論も怒りました。1929年、ニューヨーク株式市場が大暴落して世界恐慌が始まりました。欧米諸国は、植民地を持っているので地域をブロック化し、外国の製品に高い関税をかけて締め出しました。物が売れなくなると会社や工場は苦しくなり、失業者が増えてしまいます。日本も欧米と同じように、製品の輸出先を確保するため、東アジアに独自の経済圏を確立しようとしました。昭和13年1938年東亜新秩序構想を近衛文麿首相が発表します。不況が長引くアメリカは、これに強く反発し、認めませんでした。Win winではなく、アメリカが失業者を減らすか、日本が失業者を減らすかです。1年前の1937年8月13日には、日本がむりやり戦争に押し込まれ、日支紛争(支那事変)が始まっていました。これは当時上海にいたニュヨークタイムズ特派員が報じた内容です。・・・この発表以後アメリカは公然と蒋介石を支援します。日米戦争の種がまかれました。1939年アメリカは日米通商条約を延長しないと圧力をかけてきました。石油をはじめ多くの物資をアメリカから輸入していた日本はたちまち苦しい立場に追い込まれます。このままですとアメリカの輸出業者も苦しくなりますが、日本はそれを加工して輸出して外貨を稼いでいるのでそれができなくなります。町は失業者であふれるのは目に見えています。同じ1939年ドイツはソ連と不可侵条約を結んだ上で、ポーラント侵略します。ここでドイツとソ連は、密約した通り、ポーランドを分割しました。英仏はドイツに宣戦布告、第二次世界大戦がはじまります。1940ドイツの勝利を受けて、日本は、日独伊三国同盟を締結します。しかし、遠いヨーロッパの2国との軍事同盟は、実質的効果はなく、イギリスを支援するアメリカとの関係を決定的に悪化させました。米国は中国にフライイング・タイガーズという戦闘機部隊を送り込み、日本軍の隼と空中戦をするわけです。まだ日米開戦前です。ここで日本は、外交的に守勢に立たされます。1941年ソ連と日ソ中立条約を結び、これと三国同盟の2つの条約の圧力で、アメリカから譲歩を引き出そうとします。しかし、ドイツがソ連に侵攻し、ソ連は連合国側に加わり日本の狙いは破綻します。こうしてみると、日本外交はなんと戦略のない、場当たり的な拙いものかと言いたくなるほどです。ここで日本は、詰んでしまいます。あとはアメリカが仕上げに、石油の輸出を禁止すれば終わりです。日本はあわててインドネシアに油田を持つ、オランダと輸入交渉を始めます。でもアメリカが手を回していますから交渉は成功しません。これから日米交渉が始まるのですが、もう外交的に詰んでる日本を、アメリカは相手にしません。戦争準備は、だいたいできているわけです。ソ連のスパイ、ホワイトが書いたといわれるハル・ノートを日本に渡して日米交渉は終わります。失敗の原因は、ドイツとソ連を信じてしまったことと、何よりも当初の作戦計画の通りにしなかったことではないでしょうか。戦争は、決定するまでの間は、なんとか戦争を回避する方法を政治的に、外交的に模索します。しかし、いざ開戦となったら直ちに戦闘をしなければならない担当部署は、いつ開戦決定がなされてもいいように、常日頃作戦計画を事前に立てておかなければなりません。立てていなければ仕事をしていないわけです。当たり前ですが、その作戦計画が実施されなければそれに越したことはありません。ついでに申し上げますと満州事変後、北支から入るテロリスト、工作員や蒋介石の北伐軍の略奪から人々をどう守るかも、陸軍の仕事でしたから命令があればこう実行しますというA案、B案、C案を作っておくことも関東軍の仕事です。その中には「北支那占領地統治計画」というものもあるわけですが、あくまでも計画書であってこれをもって、直ちに侵略したことはならないわけです。尖閣諸島が偽装中国漁船に占領されたとき、自衛隊や海保はどうするかという作戦計画は、当然あるでしょう。なければ仕事をしていないわけです。日本も米国も戦争する前から担当部署は、作戦計画書を用意していました。わが国は「帝国国策遂行要領」(1941 年11 月1)と「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」(1941 年11 月15)です。米国側の文書は「勝利計画」(Victory Plan or Program、1941 年9 月)です。これらの内容はここでは論じません。ただ言えることは、アメリカは作戦計画とおり実行して戦争に勝ち、日本は、計画とは乖離した作戦を無理に実行し負けたということです。日本の計画では、長期自給の体制を整備し、引き分けか、少なくても負けない体制を作るというものでした。しかし、実際は短期決戦をして、海軍は、ミッドウエーで、虎の子の空母を失ってしまいます。しかし、誰が総理大臣であっても、いろいろな方面から工作がなされ、こうなってしまったのでしょう。スパイの工作は公文書公開でも出てきません。わずかに特高警察がとらえた、近衛内閣側近、朝日新聞の元記者尾崎ほつみとソ連のスパイだった、ゾルゲなどの名前が明らかにされているくらいです。内閣の側近にまでスパイが入り込んでいたくらいですから、陸軍省や海軍省の軍官僚の中にもいたでしょう。国策の誘導も不可能ではありません。当時もいまも、なぜか外国スパイの手先になる日本人が多いのは情けないことです。この国のゆくべき道を再び誤ることがないように願うばかりです。 #動画 #政治・社会 #太平洋戦争 #大東亜戦争 #日中戦争 #支那事変 #コミンテルン #尾崎秀実 #ゾルゲ #ハル・ノート この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート