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相手を「見る」ことは

 家族と言葉を交わすそれは、ともすれば日常の会話に埋没しがちです。「おはよう」「いただきます」「どうぞ」「いってきます」「おかえりなさい」。「うん」「いらない」「ちがう」「そう」。それらを確認するだけで終わらせてしまえば、ただの作業になってしまうからですね。もちろん、会話のなかにも「丁寧な言葉を使う」ことを意識したり、言葉の意味やニュアンスを大切に伝えるということも、とても重要だと考えています。

 会話する
 対話する


会話と対話

 このふたつは区別されます。会話するというのは、挨拶することや物事の確認をするときのように、言葉を記号として使うもっとも使う頻度が高い伝達しあう行動です。(敵意は無いですよ)とか、(親しみを持っています)という意思伝達の行為でもありますね。ただし、その意思伝達のために使った言葉選びが違っていると、思わぬ方向に進むことがあります。「どうして、そうなるの?」という混乱を覚えたことが、誰しもあるのではないでしょうか。それは同じ「語句」であっても互いに持っている認識が異なっていたからでしょう。言い回しは、過去に対面した人との記憶と重なり、現在直面している相手の印象にすり替えられます。「第一印象を変えることができる」というのはその為でしょう。自分のあるがままではなく、相手の思い込みによって形造られる領域だからなのではと思います。だとしたら、相手をよく観察し、タイプ別認識をすれば、第一印象は操作できるような気がしますね。そういったガイド本はまだ読んだことがありませんけれども。

 一方、対話とはどのようなものでしょうか。

対話のはじまり

 対話は議論のことでしょうか。議論は目的を一にして、重ねていくものです。批判的意見ばかりでは議論は進みません。否定・打消し・拒否・反対のための反対となるばかりだからです。その要因は不信感があることです。その不信感をぬぐい去ったとき初めて、相手を本当に「見る」ことができ、それから建設的な意見が飛び出します。質問・疑問・提案・説明といったサイクルが動き出して、活発な議論を重ねることができるのでしょう。不信感を打ち消すプロセスが重要であるということです。それは、相手を「知る」という気持ちを持つことから始まります。ですが、残念なことにこの気持ちは双方がお互いに持っていないと成り立ちません。
 対話とは、お互いに相手を知ろうとする気持ちから始まります。自分のことを知ってもらうことを恐れないということなのですね。これはなかなか難しいことだと感じることでしょう。少なくないと思います。私もそのひとりですから。

 なぜ、自分のことを知ってもらうことを怖ろしいと感じてしまうのか。その原因はやはりそれまでの経験にあるのでしょうね。

それはトラウマ

【負の交流】
話を聴いてもらえなかった
なにを言っても否定されることしかなかった
受け容れられたことがなかった
疑われた
詰問された
納得させろと責められた…

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