志賀直哉「国語問題」について書いて1年
志賀直哉のエッセイ「国語問題」に関する論考を書いてからちょうど1年がたちました。
これは長年に渡って考えてきた内容で、多くの人に読んでもらいたかった。しかし長くて込み入った内容だし、メジャーな話題でもないから、アクセス状況のビュー数2000〜3000を目標としました。
いろいろと工夫をして、結果は3057ビュー。とりあえず目標は達成しました。
スキ(いいね)を目標としなかったのは、複数の論考が合わさっており、簡単に全体を良いとは言い難いのではないかと思ったからです。
少なくとも前半と後半は分けて上げるべきであったと今は思います。(アクセス情報でのスキは125で、表示されてる121より少し多いです。)
この論を最後まで読んで、本気で捉えてくれる人が少しでもいてくれたら、望外の喜びです。
これを書いた時は、人生50年と云われる歳を目前とし、若くして亡くなった諸先輩の事を思い起こして、今これを書いておかねばと、焦燥感にかられていました。
きな臭い雰囲気が漂う中で、今一度前大戦に遡って考えてみたいという思いもあった。
また、日本というわりと閉じられた社会にあって、志賀直哉の「国語問題」は外部と接する点において考えた特異なものに思えた。
そして、志賀直哉だけでなく、芥川龍之介、有島武郎、三島由紀夫も別の観点から、外部と触れた特異な作家に思え、彼らを関連付けて論じてみたかった。(これを論じた後半部分は詰めがあまく、またまだ考察の余地がありますが。)
この論考を書いた後、ここから広げて何か更に書いてみようとも思ったけれど、無理だった。
代わりに浮かんできたのは、僕がものを考える上での基礎となったマルクスの「資本論」の最初の数行に関する論考でした。
ここで論じた「資本論」冒頭部を訳し、訳への考を示す中で論じ切れていなかった部分を補足しました。
これらの論が、今の自分にやれる精一杯です。
誰かの参考になれば幸いです。
今後も学び、考え続けていきたいと思っています。なかなか直ぐには形にはなりそうもないですが。
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