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意味の説明 決められる気持ち悪さ・決めれない苦しさ

ここ最近、認知言語学、学習の研究者の今井むつみの本を読んでいる。

今井むつみの本や論文を読んでいると、「スキーマ」という言葉が何度も登場する。たとえば、『学力喪失』によると、スキーマとは、経験から導出した暗黙の知識を指すらしい。(52p) 

今井むつみの著者に限らず言語学周りの本を読んでいるとこのスキーマや類似の概念にたくさん出会う。

たとえばスキーマと似た概念としてフレームとスクリプトという用語もある。認知言語学分野の鍋島弘治朗の『メタファーと身体性』の第7章において、スキーマとフレームとスクリプトの主要な論者の違いを比較しながら記述されていた。フレーム、スキーマ、スクリプトを構造性、抽象性をもつという意味では同義としながらも、スキーマは身体性を含むもの、スクリプトはフレームの一種であり出来事の時系列的な配列のフレームであるとまとめている。また、鍋島はメンタルスペース理論を導入し、複数のフレームを想定し、メタファーとメタファーに伴う身体的な変化を説明できるような仮説を提唱してもいる。

また、哲学界で有名な概念として、ラカンの「象徴界」というものもある。
象徴界とは、自分が所属する社会の中で言葉がどのように使われているか、生きている世界は言語的に構造化されて意味付けられているかを説明するものであり、他者とのコミュニケーションの過程で学ぶ際に形成される構造化されたルールの総体を指していたように思う。

さらに、「空気」という言葉もあるが、「我々のすべてを、あらゆる議論や主張を超えて拘束している『何か』であり」とし、シェアされ普遍性がなく、一枚岩で、個人の判断から独立しており、明示されないものとされる。(孫引きですが、『別冊NHK100分de名著 メディアと私たち』の大澤 真幸の章)

「空気」と近くてそれより一般的なものとして、グレゴリーベイトソンの著作や言語学のなかでも日常会話でも多用される、文脈やコンテクストという言葉も言動の意味やありかたを何かしらの形で規定するものとして想定されているように思う。

これらの私たちの振舞いを決定していると説明する概念は、それぞれニュアンス・重きの置かれ方が異なるが相当に似ている。
違いとしては、言語(象徴界)か身体(スキーマ)に注目するか、社会性に注目するか、複数性を想定するかといった点があるだろうか。

ただ、他者とコミュニケーションをとる中で作られる(言語的な)構造が発話行為も身体のふるまいも規定しているとする点は共通しているように思う。
また、鍋島がフレームを複数想定したように複数の構造を想定することによって、「空気」のような単数的な構造についても包含するようなものとして考えられるように思う。

そのうえで、こういったものの捉え方について、
便利であるのは認めるが、なんだか根源的で強烈な気持ち悪さを感じていた。
その気持ち悪さは日常生活においても科学的な振る舞いでも感じる。
たとえば、神経医学でこういう症状があるから、脳内でこのような物質が出ているからと、ある診断名がつけられて、診断名によって個人の振舞いが規定されることであったり、たまたま頻度が多く定義化・抽象化された〇〇バイアスによってある人間の行動を説明するような安直な新書で交わされる認知バイアスの言説などにみられるように思う。

ただただこう言ったものの捉え方は説明に便利だと感じる。
診断書を休職するための理由にすることは簡単であるし、個人のある間違いや社会における軋轢のうち説明しやすいことを既存の認知バイアスによって説明することも容易だろう。

この気持ち悪さはある説明力の高い概念を外部に求めることであったり適用ばかりする振る舞いにあるのかもしれない。
どんなにその構造が動的に変化するものであるといわれたところである構造が個体の振舞いを規定しているかのように聞こえるし、
ある頻度を構造として概念化したあとは、その概念を個別の事例に適用することによって何かわかったことにしている人があまりにも多いことも気持ち悪い。

説明を容易にしてくれるような概念を個別のものに適用することに終始する感じがなんだか負けた感じがする。より激しくいうと知性がないという感じがする。作業仮説として、つまりは、知性がまだ及ぼないながらもというような留保とともになされる仮固定的なものとしてただなされているという意識があればいいと思うのだけれど。そのような意識がなければ、電車の豆知識の広告を見ているような頭空っぽなのに頭空っぽなそぶりをしたがらない感じがして気持ち悪い。一科学研究者としてはなんだか遠いところにある構造を説明するために科学などの営みが終始しているものをみるとなんだか悲しくなってくる。

こういった適用の議論は、何かのふるまいの説明する際に、認知能力や脳のような物質などに還元するような場合にも見受けられる。
というよりも、簡単に書ける評論のようなもののほとんどがこのような還元が可能なもの、適用を濫用するものとしてある。

今井むつみが近年AIと人間の違いを学習過程の違いに求めるなかで、記号接地することのできる能力としてアブダクションの一部の対称性推論というスキーマという構造の動的な面を強調していることは個人的にこの適用を避ける上で一定の価値があるように思うが、スキーマという概念がいまだに温存し説明力・適用力を持っていることには変わりなく、今井むつみに限らず言語学、認知言語学のもつ概念が持ちうる影響力には注意が必要だと感じる。

上で述べてきたような方法でわかりやすい何かに委託して説明することに伴う気持ち悪さを避けるために、近藤和敬や郡司幸夫ペギオの内在の哲学があったり、『非美学』(福尾匠)における言語の説明を言語外(文脈)ではなく言語自体の行為から生まれるとするような議論があったのだろう。

ただそれらの著者の議論があまりにも難しいため、評価経済社会に乗るような、インフルエンス力を持つようなあり方を持つことができず、あまり市民権を得ることが難しいように感じる。
最も誠実であり信頼できる議論であると感じるこれらの内在性の哲学は、適用を避けて、最も難しいことであるアブダクションを必要とするとともに、可能な限りアブダクションの過程自体を描き出すような、かなりストイックなものであり、さらにはそれを読者にも求める。 
そのため、気持ち悪さはないが、(クリシェにすぎない表現を自覚しながら使うと)読者は創作の苦難に苛まれる。おそらく坂口恭平や千葉雅也のような身軽さや気軽さも併せ持つ必要があるように感じる。

追記 20241119
福尾匠さんの書いているエッセイを読んで少し印象が変わりました。

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