見出し画像

年賀状【エッセイ】

あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします

こんな感じで年賀状書く感じですが、最近は昔に比べて僕自身も年賀状を出す枚数はかなり減ってきて、付き合いが狭いと言うこともありますが、親戚とごくわずかな友人に出すくらいですね。それに比べたら小学生とかそんな時、まだ昭和60年代とか平成2年とかでしたが、まあやたらと気を遣っていたと言いますか、誰に出す出さないってかなり悩んでいた記憶があります。つまり「どこまでが友人でどこからが友人でないか」っていう線引きがかなり難しくて、あの頃は相当八方美人で、クラス全員に好かれていないと安心できないみたいなかなり気を遣って教室内で生息していたまあまあ歪な生態環境だったのかなと思ったりします。まあでも友達とか多かったから楽しいところはいっぱいあってよかった部分もあったりしますが。出さないと決めた友達にも「あ、来た。向こうは友達と思っていてくれたんか、じゃあ出すか」とか「あ、俺は出したのに元旦とかに来てない、向こうはそこまで俺のこと友達と思ってなかったんか」とか正月早々、人間関係で無駄に悩んだりする小学生やったなあって思い出したりします。嫌われるのをかなり怖れていたこどもやったんかな。今はその反動でほとんど世間とか気にしない自分の道を歩く人間になってしまったりしておりますが、それはそれで「普通」の安定があまりないしんどい道ではあります。しゃーないか。中心が空疎であるということがだんだんわかってきて、小学生の頃にあれだけ世間に過剰適応していたのは、真ん中が満たされていなかったからなのかな、と思春期以降の明らかに存在していた「ブラックホール」の正体も最近少しずつ理解してきております。そこはまだ言語化出来ないところではありますが、ヒントとしては僕が一緒に住んでいた祖母が亡くなって今年で23年とかになりますが、当時ひきこもりで心が潰れていて20年くらい一緒に住んでいた家族が亡くなってもほとんど泣けなかったのですね。あまりに距離が近すぎたと言いますか、僕自身当時かなり退行現象を起こしていて、祖母との健全な距離感を掴めていないうちに祖母がいなくなり、余計にもう心が麻痺するしかその状況をサバイバルできなかったのだと思います。まあそこからひきこもり脱出のための筆舌に尽くしがたい艱難辛苦があり、新聞配達、整骨院、介護、そしてようやく今の40歳過ぎの大学生という身分保障に至るわけですが、まあここまで来てようやく「ブラックホール」の正体を、その謎に挑もうと昔2日で挫折した精神療法のひとつ「内観療法」を少しずつやり始めたりしているところです。内観療法というのは元々仏教の「身調べ」という修行法からきているもので、日本人の吉本伊信というひとが宗教色を抜いて母親や父親などの自分の家族に対して「お世話になったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」の3つに絞って生まれてからこの年齢に至るまで「事実」として瞑想的に過去を思い出していく作業をしていくわけです。僕が24年前とかのひきこもり真っ最中の時に奈良にある内観施設で研修をやったのですが、当時はかなり心身薄弱状態でまあかなりきつくて2日で逃げ出した感じでしたが、上手く行くと1週間の間に最初はほとんど思い出せないとか浅い記憶しか出てこないらしいですが、4日目5日目くらいからかなり深くなって相当、何か涙とか流しながらどれだけお世話になったかとかを事実としてなんか心に入って来るみたいな感じらしいです。で、精神療法的にはかなりアルコール依存とか非行とか、現在抱えている人間関係の問題とかに効果が認められているみたいな。僕自身そこまでのめり込んだわけではないのですが、最近ちょっとあまりにも祖母に対して何も思い出せないなあって思ったりしたので、ちょっと「内観」のこと思い出してやってみようかなと思った次第です。まあホント祖母が亡くなってから全くあれだけ一緒にいたのに何でここまでなにひとつ思い出せないのだろうって思ったりしたのですが、おそらく当時相当精神的にひきこもりで参っていた上に大好きだった家族のひとり祖母が急になくなって僕自身の精神に相当負荷がかかりある種の「トラウマ」的に対応する精神機構が働いて「忘却」の彼方に追いやることで何とか精神のバランスを取っていたのかなと思ったりします。まああの当時はテレビのバラエティー番組で芸人さん浮き沈みを表すのに使われたりしている人生グラフで言いますとマイナス100くらいの最底辺に僕は位置していたので、まずそこからどん底から這い上がるのに祖母の悲しみやいろいろも抱えているともう「死ぬしかない」みたいな窮地に立っていたのでそこは防衛機制としての「忘却」でよかったと思います。でさっきも書いた通り大学にまで上がってきて人生グラフで言えばプラス50くらいですか、そこでようやく世間一般の人が持て得るであろう「パースペクティブ」を手にして「なんでおばあちゃんのこと何も思い出せないんやろ」って思って、もうたぶんその悲しみとかも乗り越えられるメンタル強度が備わっているからようやく「祖母がいったい僕にとってどういう人だったのか」という精神地層に対するメスを外科手術的に行えるようになってきたのかなって感じです。道具としての内観はここではまあ有効かな。西洋の精神医学の知識ではどうしても自分の精神さえ「外部」のものとしてとらえて主観と客観に「分裂」してしまうきらいがあるので、森田療法とかもそうですが、「実践的に」役に立つのはこういう東洋的な日本的な「全体的に」施しとらえる考え方の方がいいような気もして今はそれで過去を見つめ直していってる感じです。内観やってみたら、少しおばあちゃんのこと思い出しまして、ああそういや洗濯物重たいのに階段下から一生懸命に抱えて上って真面目に家事とか毎日やってくれてたなと、ある日の情景がありありと思い出せまして、なんかそこでようやく「客観的な」パースペクティブを手にして、ある種の母子密着が解消され(僕自身シングルマザーで母は働いて家のことはほとんど祖母にしてもらい、実質的な母親は祖母かな、まあ母も母でしたが、ああややこしい家族)、ようやく祖母が亡くなっていらいの涙が本当にドバァって一気に流れ出てきて、少し心のわだかまりが消え始めてきた感じです。まあもっとお世話になったことはあるし、相当なにひとつ感謝もせず、何もやってあげたこともないなあって感じで、今さらながら本当に申し訳ないって思ったりしますが、それでも過去に区切りをつけて、ここから人生をなんとかしようって時にその基盤をしっかり形成していくのにこの作業は必要かなと思ったりするので、続けていきたいとは思います。

年賀状についての話でしたがまた脱線してしまいすいません。そんな感じで改めてですが今年もよろしくお願いします。

いいなと思ったら応援しよう!