『フェイクニュースを哲学する』(山田圭一・岩波新書2033)
フェイクニュースという言葉が、近年大きく取り上げられるようになってきた。フェイクとは、偽物を意味するが、見せかけることや、いわゆる偽造や捏造というニュアンスを伴う言葉であるらしい。誰もがニュースを発信することができる環境が、インターネットから出来上がっている。テレビの報道にも、個人の撮影がしばしば用いられることからしても、その真偽については、チェックが重要であるはずである。
本書は、哲学的な検討により、そのフェイクニュースの構造に迫ろうとするものである。サブタイトルには「何を信じるべきか」とあることからしても、ただ徒にフェイクニュースを分析することが目的ではない。私たちは何かを「信頼」しなければ生きていけない。あるいは、元来人間は、互いに信頼することによって、人間関係や社会を築いてきた。これからも築かねばならない。目的は、「信じる」ことにあるはずである。
しかしここは新書の世界。凡ゆる角度からこれを論ずることは無理である。それでも、一つの矢を適切に射るために、著者は「社会認識論」の観点から、フェイクニュースを検討する。的はもちろん、「私は何を信じるべきか」という問いである。特にインターネットを介しての人間の認知の問題を軸にして、社会的制度について、あるいはまた教育システムについて、考察しようとしている。
哲学的思考のできる人とそうでない思いつきとの差は、ひとつには、「そもそも~とは何か」を可能な限り明確にしようとすることにある。それを単なる独断で推し進めるのではなく、反省的概念を伴いつつ、問題の根柢を踏まえた議論をするのである。だからここでも、「フェイクニュースとは何か」から問い始めることになる。また、それはなぜ問題なのか、を意識しなければ、議論は始まらない。
それから議論が始まる。「他人の言っていることを信じてもよいのか」という、ドキリとするような問いかけである。私たちの社会は、様々な「証言」によって成り立っている。基本的に信用して対応すべきである。だが、信用できないものが横行しているから、問題が起こっているのである。どういう場合に信用してよいのだろうか。信用できないのはなぜだろうか。ネットがもたらす空間は、従来なかった問題を惹き起こすことを弁えていなければなるまい。
そうした「証言」以前のものとして、「うわさは信じてよいものか」という問いかけは、もしかすると信用できないという態度で私たちはまず挑みそうである。しかし、よくよく考察してみれば、そこには信じてもよいとするべき理由があるのだという人がいる。もちろん、何でも信じろというのではない。当然リスクは伴う。この場面でも、カントの倫理原則は用いられるというのだから、哲学について知るかどうかの意義はある。「もしもカントが現在のネット上のうわさの拡散を目にしていたならば、感情に突き動かされてうわさを拡散している人は、自分の自由意志でそれを行っているつもりであっても、自分をコントロールする意思の自律を失った不自由な状態に陥っていると言うかもしれない」(p76)と触れられていることを理解するためにも、できる限り哲学の基本的な考え方には、人は馴染んでおいた方がよいはずである。それを教育が否んでいるところに、「フェイクニュース」の問題のひとつの地盤があるのではないか、と私は密かに感じている。
カントは、嘘を憎んだ。信頼関係を破壊するからであるという。それを踏まえた上で、うわさは楽しんでみたらいい、というのは、極めて現実的な対処であるかもしれない。
現代の複雑な情況と文明社会においては、専門家の存在は大いに意義がある。「どの専門家を信じればよいのか」という問いかけは、生活上かなり有効であろう。もちろん、専門家の名を掲げている者がすべて真実であるわけではない。だが、「マスメディアはネットよりも信じられるのか」と問われれば、もう少し緩くなるかもしれない。この辺り、非常に現実的な対処法が様々に論じられているので、深い認識論に貫かれていると理解した上で、丁寧に読んで下さればよいのではないか、と思われる。
多分誰にも面白いのは、最後の「陰謀論を信じてはいけないのか」であろう。これはたいそう明晰であり、分析も分かりやすい。特に興味深かったのは、陰謀論の唱える説は、当たっても外れても、陰謀論の主張を支持することになる、というからくりだ。もちろん当たったらそれは当然なのであるが、外れても、だという。陰謀論は、その陰謀が隠されていること、知られないようにできているということが核心にあるからである。
本書は最後の終章にて、教育の重要性を臭わせる。「知を愛する態度」と「時間が必要」だというような、簡単な、しかも抽象的な指摘で急いで発言しているようなところである。だが、それに続いて、真偽について考える余裕をもつこと、そのために「急ぎすぎないこと」(p183)が提言されているのは、少し面白いように気がした。
本を閉じる直前には、今後の参考文献を掲げるよいコーナーがある。少々高価な本が多いので、私は探ってみたが、すぐに購入へは走ることができなかった。また、そこで「力量不足もあって、残念ながら言語哲学的観点からの分析を十分深めることができなかった」と弁明しているが、著者の専門は恐らくウィトゲンシュタインのようなところにあり、論文もそこに多数ある。これも、私には少し面白い気がした。
しかし、ここで問いかけられている問題は、現代社会にあって重大である。ただ面白がっている場合ではない。