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『傷つきのこころ学 学びのきほん』(宮地尚子・NHK出版)

Eテレの「100分de名著」は、2025年1月に、安克昌さんの『心の傷を癒すということ』を紹介した。もちろん、そのテキストも早速購入した。その本自体は、「増補版」が出たときにすぐに読んでいる。阪神淡路大震災で駆け回った精神科医で、PTSDとかトラウマとかいう言葉が、世に知られるようになったきっかけとなった働きをした人である。
 
同じ題でその姿がNHKのドラマにもなり、それを編集して映画化もされた。主演の柄本佑さんは、ほんとうに安克昌さんと見紛うほどのメイクと演技をしてくれた。40歳を前にして逝った精神科医の仕事は、今回の100分de名著の番組で、さらに多くの人に知られるようになることだろう、と期待している。
 
その番組で講師としてお話しくださったのが、宮地尚子さんである。精神科医であり、安克昌さんともつながりがある。安さんの考えを受け継いで、心の傷という問題のために活躍している人である。京都府立医科大学卒業であり、私とも無関係ではない。トラウマの「環状島モデル」という考え方を提唱したというが、本書でもその一部が紹介されている。
 
比較的大きな活字で、しかも「きほん」というくらいであるから、突っ込んだ話はないと見てよい。分かりやすい内容と展開で、語りかけるように述べてくるので、読み終わるのにそうたくさんの時間は必要がない。だからその内容を逐一ご紹介するわけにもゆかない。
 
しかし、ぜひ読みたい、と思う方を生むためには、その良さをお伝えしなければなるまい。おおまかに言うと、「傷つく」ことがダメなのではなくて、それは良い方向へ転ずることができる、という強い確信がそこにあった。学問的にはどうだか知れない。しかし、著者は、読者にそのように訴えて、傷ついてしまった塞ぎ込んだり、前へ進めなくなってしまったりしなでほしい、と願っているように思われた。
 
もちろん、それを強調すると、却ってがっくりくる人もいるはずだ。特に災害は、家族を奪い、財産を根こそぎさらってゆく。生きる望みどころか、生きる手段すらなくなってしまうと言ってもいい。近隣との関係も断たれ、頼りの人の心というものも、消えてしまうことになると、絶望以外の何もそこにはないことになる。その人に向けて、「心が傷ついても、それが良いことにつながりますから希望をもちましょう」などと、私はやはり声をかけることなどできない。
 
それは、声をかける私が、同じ苦しみの中にいない立場で、そんな口先だけのことを告げるからである。もちろん、おまえに何が分かる、という気持ちは、そう簡単に打ち解けてくるはずもないが、ともかく口先だけで綺麗事を言っても、何も手を貸してくれないような態度には、むしろ怒りしか覚えないことだろう。
 
否、そうした心理を、さも分かったかのように言う私の今の言動そのものが、腹立たしく思えたり、呆れたりするものだろう。さらに、そのように言うこともまた……。
 
傷ついている当事者のことを分かる、などという気持ちをもつこと事態が、不敬なのだ。愚かなのだ。だとすると、そこにどうしても研究と提言とを進めてゆく、著者のような立場の人は、辛いだろうと思う。自分がこんなことを言って、何になるのか、という思いに苛まれもするのではないか。
 
そこで、当事者は一度場の外に出てもらう形で、述べなければならない。著者は、この時代一般に漂う空気のようなものの中に、傷つきやすさというものがあることを指摘する。精神的にひ弱になったのかもしれない、と私は感じるし、贅沢で甘やかされて育った者は、すぐに傷つくようにもなるだろう、とも思う。もちろん私自身への自戒をこめてだが、しかしそういうことを言っても、何の解決にもならない。
 
ただ、傷つくことの背景に、実は自分が傷つけているのではないか、という視点をもつことは、とても大切なことである。これはもう、キリスト教会のいくらかの部分に、切実に気づいてもらわなければならないことでもある。迫害された、などという歴史のある点を過剰に扱い、被害者意識すらもつようにさせるメッセージを送ることもあるのだが、どうしてどうして、歴史を見るだけでも、加害者であったことが、どれほど多いことだろう。自分は被害者だというような顔つきをしていながら、絶えず加害行為を平気でやっている、というのは、もはや気味の悪い異常精神である。私は、キリスト教会や、キリスト教徒の中に、それは確実にある、と思うのだ。
 
さて、筆者は、傷つくための練習のようなものがあり得る、とアドバイスをする。そこには、一種の「気の持ちよう」というようなものが含まれるかもしれないが、そもそも傷つくことは人生に必ずある、という前提でいるからこそ、そのための心構えのようなものがあってもよい、と考えるものであろう。
 
そして、傷ついてしまったら、そこからの癒やしというものについても、言及しておくのがよいのだろう。特に、インターネットというツールは、この傷つけられること、あるいはまた傷つけることを、日常的にしてしまうことも危惧される。
 
いま傷ついている人に、どのように響くか、私には分からない。だが、いま傷ついている人にも、いつか届くような声が、ここにはあるのだろうと思う。そうなることを願う。そのような社会の一員でありたいと望む。そして、明日にでも、自分がその傷つく者となるかもしれない、ということを覚悟しながら、本書の言葉を心の中に置いておきたいと思うのであった。

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