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1945━帝国の戦争の終わり方①

 2025年は先の戦争が終結して80年になります。きっと今年はテレビなどでも、節目の終戦記念としての特別番組などが放送されたり、展覧会などの催しがあるのではと予想されます。


 10年前に出版された小代有希子著「1945・予定された敗戦━━ソ連侵攻と冷戦の到来」(人文書院)を読み返してみました。
 この中で小代氏は、敗戦色濃くなった日本の政治(軍部)の中枢が、戦後の日本とアジアの未来を予測しながらどのように敗けるかについて考えていたかを、残された資料から丹念に分析しています。
 そこで浮かび上がってきたのは、戦後私たちが知っているいわゆる「歴史の定説」とはだいぶ違ったものでした。

 「大東亜戦争」とは昭和12年[1937]に始まった支那事変(日中戦争)と、昭和16年[1941]に始まった米英との戦争を総称して、昭和16年の閣議で決定された名称です。大東亜戦争とは「米、英国の植民地支配からアジアを開放し、大東亜共栄圏を建設する戦い」という意味で名付けられました。

 現在、私たちはこの戦争を語る時に「大東亜戦争」とは呼ばず、「太平洋戦争」という呼称を使っています。
 敗戦後GHQ(連合国最高総司令部)によって、「大東亜戦争」という呼称は禁止され、「太平洋戦争」に改めさせられました。そして、連合国━━というかアメリカの指導の下、学校教育からマスメディアまでを総動員して「太平洋戦争史観」を日本国民に植え付けました。

 太平洋戦争は真珠湾攻撃に始まります。そのため、戦後の教育で育った人々から、アジアの戦争が遠くなりました。特にソ連との戦争は太平洋戦争史観ではほとんど無視されているといってもいい扱いです。日中戦争はまだしも、日ソ戦争は、敗戦直前にどさくさ紛れにソ連が攻めてきたという印象です。
 太平洋戦争という呼称は、どうしても日本とアメリカの戦争という印象を持ちます。そのようにアメリカが仕向けたのです。正史は勝ったほうが作るものですから。

 小代氏は1945年8月9日のソ連参戦、南洋群島から台湾、朝鮮、南樺太に至る大日本植民地帝国の崩壊などは、アメリカの勝利というだけでは説明がつかないといいます。
 そもそも日本の戦争は植民地帝国の興亡をかけた戦いであり、日本は太平洋方面のアメリカとの戦いのみを考えていたわけではありません。
 ということで、小代氏はこの戦争を「ユーラシア太平戦争」と呼ぶことを提唱しています。


 戦前の日本にとって、アメリカとロシア(ソ連)とどちらがより身近な国だったかといえば断然ロシアなのです。何しろすぐ隣の国ですし、幕末から交渉があり、明治時代には戦争もしています。
 ノモンハン事件など軍事衝突もありましたが、その一方で釜山、大連、ウラジオストクからモスクワ経由でヨーロッパ各国へ汽車でゆくことができ、その切符は東京、横浜、大阪など主要都市でも買えたのです。
 もちろん途中日本海を越えるのに船に乗りますが、それでも太平洋を横断してアメリカ西海岸まで半月をかけて船旅をするのとでは、精神的な距離感は比べ物にならないでしょう。

 実は戦前の日本にはけっこうロシア人が多く住んでいたのです。一番多いのは満州ですが、日本本土にも住んでいました。多くはロシア革命から逃れてきた白系ロシア人(ロシア革命反対派を白系といった)とその子孫でした。

 彼らは日本でさまざまな職業についていました。有名人ではプロ野球選手のビクトール・スタルヒン。音楽家のエマヌエル・メッテル(大阪放送管弦楽団の指揮者。服部良一、朝比奈隆を育てた)。日本バレエ界の母エレナ・パヴロヴァ。神戸で洋菓子店を創業したマカロフ・ゴンチャロフやバレンティン・モロゾフなどなど、聞いたことのある名前ではないでしょうか。
 亡命ロシア人の職業を見ると、教師や会社員、行商人、漁師、聖職者、料理人、芸人、技師等等あらゆる職種にわたります。

 一方、戦前の在日アメリカ人の職業は、キリスト教の宣教師、教師、貿易商、会社員が多いですが、なかでもプロテスタントの宣教師が目立って多いのです。
 宣教師といっても、彼らは皇族、華族、経済界の重鎮といった上層階級の人々や、欧米に留学、滞在経験のあるリベラル・エリートとばかり付き合い、一般庶民とは全く無縁の存在でした。
 彼らは明らかに選民意識があり、普通の日本人を粗野で倫理観に欠けるとして見下していました。日本人が(アメリカ風の)プロテスタント主義を受け入れない限り、アメリカのデモクラシーは理解できず、崇高な精神は持ち得ないと考えていました。

 まぁ、母国アメリカであからさまな人種差別主義政策をとり、1924年には排日移民法を成立させて日本人を排斥していたのですから、当時の日本人もその傲慢ぷりには驚かないでしょう。(ここでいうアメリカ人は言うまでもなく白人です)白人と有色人種の結婚も禁じられていました。

 日本人とアメリカ人の間にあった人種の壁は、ロシア人に対してはあまりなかったと小代氏は書きます。日本人にもロシア人にも人種差別はありましたが、日本や満州に住むロシア人は日本人とごく普通の隣人として生活していたので、お互い苦手意識を持つことがなかったのです。少なくとも表面的には在日ロシア人は日本社会に溶け込もうと努力していました。
 ロシア人は日本人にヨーロッパ文化を伝え、なおかつ彼らは同じアジアの仲間でした。

 満州国では満州族・漢民族・蒙古人・朝鮮人・日本人の五民族が共存共栄する「五族協和」のスローガンが掲げられていましたが、ロシア人は六番目の民族として活躍することを期待されていました。それが満州国を真のユーラシア国家にすると、満州の日本人官僚は真面目に考えていました。
 このような希望は少なくとも大戦が後半に入り、日本の敗戦が明らかになるまでありました。


                               つづく


 

 
 
 
 


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