共感力の無い人間は疫病神
“共感力”とは
他人の考えや意見を察したり、喜怒哀楽などの感情に寄り添ったりするスキル。
Googleで検索するとこのように出てくる。
一見すると簡単なことのように感じるが僕の経験上、“共感力”がそれなりに備わった人は案外少ないように感じる。
筆者の経験談(読み飛ばし可)
人と接する時、相手の態度や言葉遣いに強く意識を向けてみると、思わずムッとしてしまう場面がたまにある。
例えば「AとBどちらがいい?」と聞いた際に「Aでいいよ」という風に答える人がいた。
このような答え方をされると「本当はBがいいのかな?」とか「もっと別の選択肢を求めているのかな?」と勘ぐってしまうのだ。
こうした状況で本当にAがいいと思っているのであれば、「Aがいい」と答えるのが日本語として普通だ。
助詞が「で」になることで、妥協しているような印象を相手に与える。
些細な言葉遣いだが“共感力”が十分備わっていれば、このような言い方はしないだろう。
筆者の経験談②(読み飛ばし可)
嫌な出来事があればイライラとした態度をしてしまうのは仕方がない。
ただ普通の人間であれば、そのような態度は極力表に出さず他人と接するのが礼儀だ。
ましてや、その嫌な出来事に関係無い人間に対して、イライラとした態度を見せるのはおかしなことである。
相手は何もしていないのに、イライラとした態度を見せられて「何かしてしまったかな」と不安になるからだ。
しかし“共感力”の無い人間は、相手がそんな不安を感じていることを察せず、イライラとした態度を出し続ける。
負の連鎖でしかないが“共感力”が欠如していれば、このようなリスク管理もできなくなるのだ。
“共感力”がなければ
「こんな態度で接したら、嫌な印象を与えてしまうかも」
「こんな言葉遣いをしたら、相手の気分を害するかもしれない」
「こんな言い回しをして話せば、お互い良い気分で話を進められるだろう」
上記のようなマインドを持ちながら人と接すれば、相手に不快感を与えるリスクは極端に減る。
“自分がされて嫌なことを人にする”なんて人間は存在しないからだ。
(根っからの悪人は例外だが…)
上記のマインドのもとで行動するのは一見すると、容易なことのように感じるだろう。
しかし、会話というものは自分の考えや意見を絶え間なく言葉にして発する行為。
現在進行形の話題と、それ以外のことを常に意識しながら話し続けるというのは、実は意外と難しいことなのだ。
どんなに“共感力”を意識していようとも、会話に集中しているとついつい素の自分が出がちになる。
そうして“共感力”が欠如したコミュニケーションを続けていれば、必然的に相手はストレスを蓄積していく。
それに加えて、相手がストレスを蓄積していることにも気づけないほど“共感力”が欠如していれば…
いつかは喧嘩やトラブルに繋がったり、縁を切ったりするような出来事に発展する。
“共感力”が無い人間は疫病神
ここまで記述してきたように、対人関係における態度や言葉遣いは“共感力”の有無が顕著に出る。
つまり『“共感力”の強さ』と『対人関係のトラブルが起きる確率』は比例しているのだ。
当たり前だが“共感力”が欠如している人間ほど、人に与える不快感やストレスの割合は多い。
人の気持ちを考えず図々しい発言や態度を繰り返し、相手を傷つけていることに気づかない。
そんな人間はまさに疫病神と言うべきだ。
わざわざ疫病神と関わりたいと思う人間はいない。
だからこそ“共感力”の無い人間とは、関わってはいけないのだ。