短編小説『あの夏の兄弟』
私たち兄弟は、明日、海底探査へと向かう。地球最後のフロンティアと呼ばれる深海。地球上で唯一、人間が到達したことがない場所であり、宇宙よりもたどり着くのが難しい場所だと言われている。人類未踏の地、というより人類未踏の海という方が正しいかもしれない。そんな冷たい世界に私たち兄弟は、明日、旅立つのである。私たちの長年の夢がかなう。ついにだ。
明日の準備を終え、パソコンで音楽を聴く。椎名林檎の『長く短い祭』だ。夏の眩しさや祭りの華やかさとその裏にあるさみしさを歌うこの曲が好きだった。何回聴いたことだろう。そして、これから何回聴くことだろう。そうして私は、時間を忘れ、しばらく音楽の世界に浸っていた。2時間ほどたった頃だろうか、母からのメール通知がくる。ひとつ息をついて、私はそのメールを開いた。
父ちゃんと母ちゃんテレビに出たよ~!
取材されちゃったわよ~! 見てね!
母ちゃんより
嫌な予感しかしない。かけていた音楽を止め、添付されていたURLを小刻みに震える手を押さえながら、クリックした。〝PARENT〟とかかれたTシャツを着た父と、アロハシャツを着て、レイをしっかりと首にかけている母が画面に映し出される。服のセンスはいつも通りだ。私は頭を抱えた。
「おふたりが松田兄弟をお育てになったご両親ですね?」
スーツをしっかりと着こなした、七三頭のアナウンサーが問いかける。
「いかにも」と父、
「育ててしまいました」と母。
私は今にも逃げ出したい気持ちに駆られた。頼むからちゃんと取材を受けてくれ。私の願いは届くだろうか。いや、おそらく届かない。
「2人の息子さんが、2人とも潜水士になり、有人の海底探査に向かわれるなんて、いったいどんな教育をされたんですか?」
七三アナウンサーが問いかける。
「特別なことは何も」と父、
「あっ・・ビート板の上に足でのる方法なら教えてました。うちのお父さん」と母。
私は肩を落とした。パソコンを閉じて見なかったことにしてしまおうか。そんな思いが私の脳裏を掠める。
「そして、来週とうとう松田兄弟が2人そろって海底探査に向かわれるわけですね。これは人類史上初の出来事ということで世界的にも注目を集めていますが、それについてはどう思われますか?」
この問いに対し父は、
「今回の件で、ライタとアコの2人が子どもの頃に自転車で、小田原まで旅をしたことを思い出しまして・・」と答えた。
私もその時のことを思い返す。たしか、蝉の声が目覚し時計の代わりになりつつあった、とある夏の日のことだったと思う。
「目的はなんだ?」
「自転車で小田原なんて遠すぎるぞ」
父の問いかけに私はこう答える。
「目的は、まあ夏休みのレポート?みたいな」
頭を掻きながら、嘘をでっち上げた。蝉の声がうるさい。
弟のアコはこう答えた。
「あとアジの干物を母ちゃんに買ってあげること」
「まあ、それはうれしいけどね」
母さんがつぶやく
弟は両親をいつも喜ばせる。狙ってやっているのかはわからない。弟という生きものはそういうものなのかもしれない。
「自転車で茨城から小田原まで」
突然、無謀なことを言い出す息子たち。当時、兄のライタは小学4年生、弟のアコは小学1年生だった。もちろん「2人だけではダメ」「父さんも同行する」と返したが、反抗期が顔に出ているかわいげのない兄は親との距離を取りたがっている。まあわかっている。そういう時期だ。
ちょっと2分だけ考えさせてくれ。そう言って、わたしは目をつむる。腕を組み、口を真一文字にして、しばし思考する。蝉の声がうるさい。
「よし分かった」
手をそっと机に置き、そう言った。
「はや」
「7秒じゃん」
息子たちがぼそっとつぶやくのが聞こえる。どうやらわたしの思考はほんの一瞬だったらしい。
「父さんは付いていかない。だが、大人の同行なしでは許可できない。だから代わりに、父さんの従兄弟に付き添いを依頼する。
こうして松田兄弟の真夏の大冒険は幕を開けた。謎の従兄弟のおじさんとともに。
「ちょっと休憩しようぜアコ~」
とめどない汗をぬぐいながら私は叫ぶ。
「もうー? もうちょい頑張ろうぜ」
アコが答える。あいつは無尽蔵なスタミナをもっている。うらやましくもあり、妬ましくもある限りだ。
「おう、そろそろ乗ったらどうだ? 死ぬぞ」
荷台付きの車で付いてきた従兄弟のおじさんが私たちの心を揺さぶる。真夏だというのにニット帽を被った変わり者だ。ついでに言うと、かけているサングラスは似合っていなかった。
私たちはおじさんの言う通り、荷台に自転車を載せ、車に乗り込む。クーラーがきいていて心地よい。生き返った気がした。
「父さんじゃないの?」
おじさんに問いかけた。というのも、おじさんはどことなく父さんに似ていた。サングラスの奥に潜む目をのぞき込む。
「昔からよく似ていると言われる」
おじさんは表情を変えずに答えた。
「まあ、声は父ちゃんより渋いよね」
アコがにやにやと笑いながら言う。
「名前は、なんていうんですか?」
私はおそるおそる問いかける。
「五十嵐・・・レオン」
おじさんはそう答えた。
「名前も渋いね」
なんてことをアコが言っていたと記憶している。
「五十嵐さん。なんでこんな暑いのにニット帽かぶってるの?」
アコが問いかける。
「風邪をひかないように、だ」と五十嵐さんは答えた。
私たちは黙った。しばしの沈黙が流れる。
沈黙を破るように、五十嵐さんが私たちに問いかけた。
「お前ら、なんでこんなことをやろうと思ったんだ?」
しばし考え、私はこう答えた。
「それは・・俺たち二人で・・・」
「これが2人が小田原にたどり着いた時の写真です。わざわざ三脚を立てて撮ってましたよ。小田原かどうかも分からない写真ですけどね」
と言って父は、七三アナウンサーに写真を差し出す。パソコンの画面に映しだされた若き日の私たち兄弟の写真を、私はぼんやりと眺めていた。
たしかにその写真はありふれた景色が映る代わり映えのしない写真だった。私たち兄弟が日焼けでいつもより黒みを帯びていたこと以外は。この写真だけを見て、これは小田原だとわかる者はいないだろう。
パソコンの画面の中で父が口を開く。
「なんで自転車で小田原まで行こうと思ったのか聞いた時、彼らは、俺たち2人で何かを成し遂げたいと思って。そう答えました」
やっぱり父ちゃんだったか五十嵐レオン。私は苦笑いする。
「そして、彼らは自転車での旅を成し遂げました。それ以来ということになります。彼らが2人で何かを成し遂げようとしているのは」
「なるほど!」
七三アナウンサーが唸る。
私のなかでおぼろげだったあの夏の記憶が徐々に戻りつつあった。
「そのサイクリングの途中、日も暮れて真っ暗な中、弟のアコのライトが電池切れで消えてしまいましてね」
「はいはい」
七三アナウンサーが相槌を打つ。
「それに気づいたライタがライトを前方に向けて、弟の足元を後ろからずっと照らしてやってたんです。アコもそのことに気づいたんでしょう。兄が付いて来られるスピードに合わせて走っているようでした」
私の頭の中に、あのときの景色が鮮明に浮かび上がる。
「私たちにとって大事なことはそういうことです。やさしさに気づくのも、またやさしさ。世界的な注目があろうとなかろうと、足元をそっと照らしてやり、さり気なく速度を揃えてやる。あの夏の兄弟の姿勢のままで何かを成し遂げてくれれば、親としては何も言うことはありません」
父の言葉を聞き、私はぎゅっとこぶしを握り締めた。私が握り締めたものが愛なのか、夢なのか、恐れなのかはわからない。そんなことはどうでもよかった。父の尊大さと、母の安心感。それだけあれば十分だった。
そして、この時、はじめて私は、私たち兄弟がこれから成し遂げようとしていることの意味のようなものを掴めた気がした。