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あまじょっぱい卵焼き 【小説】

橙色の夕日が部屋の隅まで染め上げる。最近の気候にしては珍しく空気がぴりりと冷たくて、窓を閉じた。キッチンは陽の光でまるで柔らかな布に包まれたような温もりで満たされている。小さな手書きのレシピを広げる。かすかに染み付いた実家の香りが鼻をかすめる。深い海のように静かな青いインクで綴られた文字が、柔らかに微笑みかけてくる。とても大ざっぱな説明で、でもとっても美味しく出来上がる。この味の記録を見ながら、母が私のために何度も料理してくれる、あまじょっぱい卵焼きを私も作ってみようと思う。

「卵三つ、砂糖は少し多め、塩と醤油はほんの気持ちだけ」

小さなボウルに卵を割り入れ、ゆったりと箸で混ぜ始める。とろり、ふわり と卵が流れ、黄身と白身がゆっくりとひとつになっていく。柔らかな色に変わり、泡がほんのり立つ。かき混ぜる音は耳を澄ませば聞こえるくらいのものだけで、どこか心地良い。

砂糖をすくい取って、ボウルにふりかけると、ぱしゃり、ぱしゃりと音を立ててさらさらと細やかな粒子が溶け込んでいく醤油を垂らし、塩をつまむ.....このくらいだろうか。自分の感覚に任せて加えた。

使い古された四角いフライパンを温める。手を近づけるとあたたかさがじんわりと伝わる。熱を帯びてきたので少量の油を敷き、全体に行き渡らせた。鍋の上で じゅわぁ…と音が広がる。
ボウルから卵液を少し、ゆっくりと流し込む。ぽこぽこ ぽこぽこ とふわりとした泡が生まれ、フライパンの上で静かに踊り出す。膨らむ様子を眺めながら、箸を手にする。端をつかんで裏の焼き加減を見ると、ほんのりと焦げ色を帯びていた。

ぱたり、ぱたり、ぱたり、
丁寧にくるりと巻いていくと、層がしっとりと重なり合う。優しく畳んだ布団のようだ。
端まで巻き、空いた場所に卵をもう一度ボウルから注ぐ。これを卵がなくなるまで繰り返す。

ぱたり、ぱたり、

記憶の扉をそっと叩くように、懐かしい景色を呼び起こす。この味を思うたびに、どうしてもあの日のことがよみがえってくる。

ひどい天気だった。重い空の下、傘も意味を成さないほどの激しい雨に、靴も髪もみるみるうちにぐしょぐしょになってしまった。心の奥底までずぶ濡れにされたような気分で、ただ無言で家までの道を歩いた。

玄関のドアを開け、早足で自室へと向かい、籠もった。母のおかえり。という声に無視をし、毛布にうずくまる。

部活のことだ。練習に励み、繰り返した努力の末、レギュラーどころか補欠にも選ばれなかった。私の頑張りは、何がいけなかったのだろうか?

「おめでとう!頑張ってね。」
自分で口にした言葉が、重くのしかかる。うまく笑えなかった。彼女の努力を理解しているし、自身の不足を痛感している。だけど、これまで順調にやってきたという過信があったから、今回も大丈夫だと思い込んでいた。

「なんで私よりあの子が…」
その思いが頭をもたげるたび、さらに自分が情けなく感じる。羨望と自己嫌悪が交錯し、激しい葛藤が起きる。自分に苛立ちを覚え、情けなさが心臓を締めつける。不甲斐なくて、意気地なしな自分を責める言葉が、胸の中、渦を巻く。

まるで水の中に沈んでいるかのように、息が詰まる。苦しい。こんな気持ちを抱えたまま、どうやって次の一歩を踏み出せるのだろう。

かちっ
微かにガスコンロの音がした。何時もより早い料理の時間に疑問を感じつつ、どうでもいいと考えるのを止めた。何処かに意識を向けないと、嫌な思いが幾度と反芻するばかりだった。

ふと、部屋のドアがを叩く音がした。ドアが開き、柔らかな足音が近づいてくる。気配がしても、私はその場から動けずにいた。母の姿が視界に入ると同時に、何かが溢れ出しそうになったが、枕に顔を埋めて無理に押し込めた。

驚いた。急に毛布を剥ぎ取られたのだ。束の間、母は優しい笑顔を浮かべながらバスタオルを私に被せた。頭をゴシゴシされ、抵抗の声を上げる。でも心地よくて、大人しくタオルに包まれた。タオルは真っ白くて、少し毛玉が出てきていた。吸うと仄かに金木犀の香りがする。朝露をまとい、柔らかな光の中で揺れているかのようで、温もりを届けてくれるかのよう。ふと、ほっとした気持ちが広がった。

母は私をぎゅっと優しく抱きしめてきた。腕を首に回され、ゆりかご宛らに揺れる。安堵感が生まれて、甘えたくなったのだろうか。私は母の胸元に額を擦り付けていた。表面にあたたかさが伝わってくる。まだ内側は冷えてて、溶かされきれていなかった。

かたり、と控えめな音がして、気づけばそこにお皿が置かれていた。視線を向けると、母の箸先にはふんわりとした卵焼きが摘まれている。

「ほら、冷めちゃうよ。」
母が優しく息を吹きかけ、ふー、ふーと暖かな空気が卵焼きに触れる。ほのかに湯気のたつ、焼き上がった卵焼きを私の口元に運んでくれた。
食べた瞬間に口だけでなく、体全身、更には心の奥にもぬくもりが染み込む。ふわりとした食感と優しい味が広がっていった。
「..........おいしい」
「ならよかった。」
ふわふわとした厚み。雲を切り取ったような柔らかさ。甘さと塩味のバランスが心を優しく撫でるかのように丁寧に調和している。

「人生はね、卵焼きみたいなもの。甘いことも、しょっぱいことも混ぜ合わせて、少しずつ形にしていくのが大事なの。そうしたら、とっても素敵でおいしいものになるんだから。」

正直、この時はよくわかっていなかった。でも、あの言葉が心の奥で何かを揺らしたのは確かだった。それはまるで、幼さが残る私にもわかった、静かでやさしい魔法。小さな哲学が母の言葉に映し出されていたのだ。

「涙で、味がわかんない。」
ぽつりと零したその言葉に、自分でも驚くくらい素直な自分がいるのを感じる。我ながら情けない顔面で泣いていたように思える。鼻をすすりながら、赤子のようにぐずる私を、母はそっと見守りながら「また作ってあげるから」と、言って困り顔で少しだけ笑った。ちらりと外を見ると、雨は少しずつ穏やかになっていて、花の色の空が煌めいていた。

ぱたり。

あれ、いつの間にか作り終わっていた。
巻き終えた卵焼きをそっと持ち上げ、まな板の上へと移す。包丁をすっと入れた瞬間、白い煙が立ち昇り、ふわっとあまく香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。板から細かな傷のある皿に移し、机へと運ぶ。呉須が卵焼きの色をより一層引き立てているようだ。

「頂きます。」
早々に箸を取る。出来上がった卵焼きをゆっくりと味わう。
うん、やっぱり美味しい。繊細な甘みが舌に広がり、私を温かくしてくれる。かと思えば醤油の旨みがちゃんとあり、全体を引き締めてくれているのだ。

だが、ふと気づくと、いつもと違う…少し塩気が強く感じられた。どうしてだろう。母の味をそのまま再現したつもりだったのに、どこか異なる。でも、心の中にぽっかりと空いた穴を埋めてくれるような、不思議な懐かしさ。
そうか。あと日の味と、とってもおんなじだ。

チロリン。
ズボンのポケットの中でスマホが震え、ふと現実に引き戻された。気づかなかったが、外では雨がしとしとと降り始めていた。だが依然として、うららかな金色の光彩は居る。
画面をのぞくと、友人からのメッセージ。「今遊べる?」と、あっけらかんとした文字がそこにあった。しばらく指を動かさずに、いや動かせずにいたようだ。
眼を細めて小さく笑う。震えながら返事を打った。

「ごめん、今日は無理。」

もう二度と食べられないから。大事な、大好きな人の味が。

音をたてることなく用済みの機器を机に置く。この刹那の間に天からの水は強さを増していた。遣らずの雨だろうか。
静かに息をつき、もう一口、大好物を頬張った。喉が渇く。
雨粒がスマホの画面にかかる。それは窓から射すあたたかな光に触れて、きらりと輝いた。

今日の卵焼きは、しょっぱすぎる。



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