村岡真介
HBの鉛筆で絵の具を塗った上から目を書き込む。その目の輪郭の上に仕上げに使う極細筆で、まつげを書き込んでゆく。 「は~」 タバコを一服し、また絵に向き合う。白目に筆を入れたらいよいよ黒目である。 慎重に輪郭にそって茶系統の色を塗り、その中に黒い瞳孔を重ねる。さらに光源を白で重ね、ようやく終了。 下書きのスケッチと寸分の狂いもなく仕上がった。 畳にごろんとなりしばしの休憩。タバコを吸いながら、アーム式ライトをいろんな角度から当てていく。 直毛で少し長めのおかっぱ頭に
朝8時、黄系統のパレットに原色の絵の具をひねり出す。柿色、白、黄、赤。 混ぜ合わせると良い具合の肌色ができた。まずは輪郭。慎重に慎重に。 顔を全て塗りつぶすと、そこに柿色を濃くし、首の下にシャドーを入れていく。柿色で微調整をしながら、首の下の濃い部分は終了。混ぜた絵の具を一旦パレット上から洗い流し、顔が乾くのを待つ。 ミスは許されない。亀が歩くほど遅い足どりで進めていく。 紅茶を飲み、その間にすんの車いす作りである。いちばん難しい車輪を取り付ける工程に四苦八苦する。
秋も本番である。 雪太はジャンパーを着て、近所のホームセンターに来ていた。ネットで「犬用車いすを作ってあげよう!」という材料から作り方まで全て載っているサイトを発見し、ようやく重い腰を上げた次第。 スマホを見ながらひととおり買いそろえ家に戻ると、塩ビパイプを切るところだけは粉が舞うので駐車場でやり、あとはアトリエに持ち込みそこで一休み。 いま描いている少女の絵は、胴体部分まで描いて小休止。これから最も神経を使う顔を描く。1日休日にした。名前は、ひとえというらしい。服
雪太は母との面会に出かける。 「じゃあ、家のことはよろしくな」 「いってらっしゃい」 車に乗り込み途中スーパーでリンゴを買い、母が住んでるホームへ向かう。 (リンゴは固いかな) ホームの事務所で面会の申請をし、部屋に入ると母は寝たままテレビを見ていた。 「おかん、来たで」 椅子に座ると母が言う。 「誰ねあんた。誠か」 叔父の名前を言う母にショックを受けた雪太。 (もうおれが誰かも分からんようになってるんやな) 想像以上に痴ほうが進んでいる。 「おかん、おれだよ、雪
キャンバスに描かれた少女の下絵。大きなキャンバスにもとのスケッチと寸分の狂いもなく写しとられている。定規などを使って拡大する画家も多いなか、雪太はそれを目だけでやってしまう。非常に高いデッサン力を持つ雪太の天才的な離れ業である。 そしてプリントアウトした元の写真の背景を描きこむ。 休むことなく大胆に筆を入れていく。背景は一気呵成に地塗りしていく。人物に当たっても気にしない。油絵は上描きできるからだ。 「ふう」 午後になってしまった。雪太は手を止めた。昼食を食べようと、
「いいか雪太、真面目に生きるやつがバカをみる」 泥酔した父が、死ぬ前日に雪太に言った言葉だ。 父の仕事は主に風呂場の床などにタイルを貼り付ける仕事を請け負う「特殊左官」というやつだった。 昭和の時代、それまでコンクリート打ちっぱなしだった風呂場に鮮やかなタイルを敷き詰めるのがステータスシンボルになっていった。世は高度経済成長期の絶頂の頃、父の仕事も順調だった。 しかし世の中が変わり始めた。「ユニットバス」が登場したのだ。 雪太が中学生になるころには、徐々に仕事が減り
姉の長女郁子から電話があった。 母和子の容態が急変したとのこと。実家で落ち合うことにした。 「行ってくる」 「あ、私もいくわ、お義姉さんたちにしばらく挨拶してなかったから」 結局家族4人で行くことになった。 雪太は車を飛ばす。 2時間かけて実家に到着した。 「おかんは?」 「もう病院よ」 母は心臓が悪い。それを心配していた雪太。 「心臓が悪化したんか」 「違うのよ。栄養不足らしいわ。それで倒れたんやと」 「やっぱりな、ご飯とハムばっかり食ってたからな」 下の姉、
次の日から雪太は頭にタオルを巻き、キャンバスに正式なデッサンを描き始めた。脳裏に焼き付いたイメージと、スケッチを見比べながら鉛筆で写していく。 昼過ぎには大まかに、まずはイメージ通りのデッサンが描けた。 「順調なの?」 「まあいい感じかな。下絵は可愛くできたよ」 遅い昼食を食べながら雪太はにこりと微笑む。 「明日は大河の誕生日だろ、遊園地にでも連れて行こうと思うんだけど。絵の方はじっくり進めて行きたいんだ」 紅茶をいれながら、静江の顔がパッと輝く。 「いいわね、最近お
外は雨が激しく降っている。 雪太はソファーに寝そべり、新たな依頼と向き合っていた。 プリントアウトした女の子の横顔を時折見ては頭の中で90度回転させる。 しかし正面の顔はあやふやにしかならない。反対側の写真でやっても同じこと。行き詰まっている。 鍵は唯一正面から撮ったボケた写真だが、これもおぼろけなイメージにしかならない。横顔とつながらないのだ。 それにさらに、ニット帽がじゃまをしている。髪の毛がないと子どもの顔なんかみんな同じに見える。 雪太が、うーんと起き上
7時に雪太が起き出してきた。 「おはよう」 「おはよう。あなた、今日は第1日曜日よ」 「ああ、そうだった。まあまずは飯だ」 そのうち大河と恵利も台所へ。シンクの横の三畳の食堂にちゃぶ台が置かれ、その上に四人分の朝ごはんが用意されている。 今日は焼き魚と豆腐とワカメの味噌汁。漬け物は、頂き物のキュウリの浅漬けである。 「大河は今日どうするんだ」 「えっとね、みんなでサッカーやるの。そのあと斉藤くんの家に行ってゲームして遊ぶ」 「斉藤くんか。仲間になってくれたのか」 「うん
餌をやったあと、静江がすんの腹を揉んでいる。するとすんが大便をひねり出す。同時に小便も出すのでぞうきんでふいてやっている。 雪太は「犬用車椅子 設計図」で検索してみる。すると出てくる出てくる設計図の数々。 塩ビを骨組みに使っている設計図が大半だ。 いま作ろうかどうか迷っている。犬は成長が早い。一年ぐらいでだいたい大人の大きさになる。そこまで待つか考え中なのである。 雪太は、あまり工作などに自信がない。今作ってもまた半年後にもうひと型大きいのを作らなければならない。
軽急便がやってきた。道路に横付けし、運転手が畳一畳分くらいのウレタン2枚を下に敷き、大まかに木枠で囲った老人の絵をそっと乗せる。あとは「ガッチャ」と呼ばれる小型のチェーン荷締め機でガッチリ固定する。 「絵画ですから慎重に運んでくださいね」 と心配げに言うと、 「任せてください」 と頼もしい返事。いつもこの横手さんというドライバーを指名している。軽急便本社に問い合わせ、美術品の扱いになれた人を紹介してもらったのだ。 車が去っていった。額縁などに入れ込むのは肖像美術協会の
1バレルが100ドルを超え、空前の原油高となっている。 世界のどこかで紛争が起きている。それが重なり原油高として現れる。その衝撃波は、全世界の全産業に及びインフレが高じる。悪性のインフレはアメリカが政策金利の利上げによって潰すしかない。利上げなどの金融引き締めをすると株価が落ちる、いわばトレードオフの関係性となっている。富裕層の資産圧縮につながるのだが、インフレ退治には、これしか対処のしようがない。 FRB(連邦準備理事会)がすべての権限を持っている。利上げは待ったなし
「さあ、お仕事お仕事」 静江は軽く化粧をし、月、水、金は午前11時から午後の2時までパートに出かける。 障がい者就労支援施設「ひまわり」で働く障がい者たちに食事を準備するのが静江の仕事だ。 今日も家に一台ある軽自動車に乗って出発する。 食事を作る訳ではない。契約している惣菜屋から持ち込まれるおかずを配膳していくのだ。ご飯だけは施設にある台所で炊く。 いろんな障がい者たちが静江に話しかけてくる。その相手をするのも仕事のうち。 毎日ではないし時間も3時間と短いので、給
例の老人の肖像画も仕上げ段階に入っている。 雪太は人物に色を入れてはパレットを変え、また筆を入れてはパレットを変える。これの繰り返しだ。パレットは3つ。赤系統、青系統、そして黄系統。絵の具は薄めない。原色どうしを混ぜて色を作り色を重ねていく。すると不思議な事に立体感が生まれる。こうすることによって人物がより際立つのだ。 この独学で編み出した画法で入選を果たした。さらに写真よりもほんの少し柔和な顔立ちに仕上げる。これが好評で注文は後をたたない。いわば売れっ子画家になってい
大河の担任の先生が、今日の夕方4時、急遽家庭訪問に来るという。 なんだなんだと、雪太と静江、二人でお菓子を用意して待っている。 ピンポーン♪ 静江が出迎えると玄関には、少しくたびれたジャケットを着た、30代なかばの担任の西野先生が立っていた。 「画家の先生だそうで」 「いや~もう趣味が高じてと、主に肖像画を請け負い描いてるんです。そんな大層なもんじゃありません」 雪太は顔の前で手をひらひらする。 「注文は頻繁に来るもんなんですか」 「今は高齢化の時代ですからね。裕福