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マラソン

 キャンバスに描かれた少女の下絵。大きなキャンバスにもとのスケッチと寸分の狂いもなく写しとられている。定規などを使って拡大する画家も多いなか、雪太はそれを目だけでやってしまう。非常に高いデッサン力を持つ雪太の天才的な離れ業である。
 そしてプリントアウトした元の写真の背景を描きこむ。
 休むことなく大胆に筆を入れていく。背景は一気呵成に地塗りしていく。人物に当たっても気にしない。油絵は上描きできるからだ。
「ふう」
 午後になってしまった。雪太は手を止めた。昼食を食べようと、台所に行き冷蔵庫を開け、昨日のおかずのおでんを探す。
「あったあった」
 大きめのどんぶりに入ったおでんを取り出すと、レンジで温める。
 ちゃぶ台に座りいただきますと手を合わせ、まずは玉子から。出汁が十分に染みてホクホクである。あとは練り物が二つに人参のぶつ切りと昆布。漬け物はいつものようにキュウリの浅漬け。もぐもぐと頬張る。
 原画のスケッチを横目で見ながら、強くイメージを固定させていく。
 背景は病院の一室と見られ、薄いピンク色のカーテンが開き、日が射している。実は絵画で日の光を描くのはかなり難しいのだ。しかしやり遂げなくてはならない。そこに描くものがある限り。
 すんが横に来てハァハァ言っている。静江が知ったら怒られるのだが「これだけだぞ」と言い、さつま揚げをすんに与える。
 噛みもせずに、飲みこむすん。
「味わえよ」
 と言ってすんを抱き上げる。
 胡座の上におき、腹をなでてやるとぴっぴっとうれションをする。
「きたねーなぁ」
 雑巾で畳を拭く。その間にすんはリビングにある犬用トイレにちゃんと行き、小便をする。
「よーし、えらいぞ」
 雪太は背景の絵の具が乾くまで昼寝をしようと寝室にいき、布団を敷いた。すんがもぞもぞと雪太のところに這ってくる。
「一緒に寝るか?」
 布団の上にすんが倒れこむ。もう飼い始めてから何ヵ月もたつ。体の大きさも成犬に近くなっている。
「そろそろ車椅子作ってやるか」
 すんを撫でながら気持ちよくうたた寝をする。

 一時間は寝ただろうか。すんが顔をペロペロしてくるので目が覚めた。
 寝覚めがひじょうにいい。疲れもとれた。顔を洗い雪太はまたアトリエに向かう。
 背景を地塗りした絵の具がまだ完全には乾いてはいないが「いいか」と筆をとり、端から緻密に描いていく。
 3時間集中し、背景に濃淡がついた。
 時刻は4時、恵利も大河も帰ってきている。しかし静江がパートから帰ってはいない。
「ただいまー!」
 静江の声だ。雪太が玄関に行くと、三段折りのマットレスを運びこんでいた。
「敷き布団がもうぺったんこになってるでしょう、だからこのマットレスを下に敷こうと思って」
 少し遠くのディスカウントショップに行っていたとのこと。一枚3900円。
 後ろ座席に二枚しか入らなかったので、これからまた子どもたちの分を買いに行くという。
「無理するなよ」
 と静江に声をかけると、
「お腹へったー」
 大河が雪太の袖を引っ張る。
「よし、今日は久しぶりに晩ご飯は父さんが作ってやろう!いいな静江ちゃん」
「そうしてくれると助かるわ。私は5時過ぎに唐揚げ買って帰るから。どうせいつものあれでしょ」
「そう、チャーハン」
「やったー!」
 大河が跳びはねる。
 一人暮らしの長かった雪太は、料理もひととおりはこなす。
 雪太は早速裏の畑に行くと葱を一束引っこ抜く。台所で丁寧に洗い、みじん切りにしていき、ボウルに葱をとっておく。
 おかずは豚肉を使ったビーフストロガノフ。味付けは、ケチャップとウスターソース。これでデミグラスソースに近い味になるのだ。
 大河はスマホゲームに夢中。恵利はすんと一緒にテレビを見ている。
 ビーフ(ポーク?)ストロガノフを作り、大皿に盛る。チャーハンは大量の葱を入れるのが雪太流。二人分づつ仕上げる。
 漬け物を小分けにし「できたぞー!」と子どもたちを呼ぶ。
 三人そろって「いただきまーす」と手を合わせ、チャーハンから食べ始める。
 二人ともがっつくようにチャーハンを口へと運ぶ。小皿にビーフストロガノフを取り、かっ食らう。
 その光景を見ていると、まだ雪太が幸せな食卓を囲んでいた、小さな頃を思い出す。父も母も笑顔にあふれ仲もよくて……
 金で幸せは買えない。しかし金がないと不幸になる。その意味を身をもって知っている雪太。
「お父さん!お父さん!」
 狂乱状態になり父にすがり付く母の姿を思い出す。最後は喧嘩が絶えなかったけれど、深く愛し合っていたんだろう。それを思い出すたび、胸がつかえる。
「買ってきたわよー」
 静江が帰ってきた。とりあえず玄関にマットレスを置き、唐揚げを皿に盛りちゃぶ台におく。子どもたちが唐揚げにむらがる。
 雪太は、チャーハンをレンジにかけてやる。
「あーお腹すいた」
 一仕事終えた静江は肩で息をしていたが、やおらチャーハンをかき込み始めた。
 この小さな幸せを守りたい。そのためにも仕事を頑張らなければ。

 全力を出し走り続けるのみ。マラソンのように。

夕暮れ|村岡真介

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