もう一つの顔
1バレルが100ドルを超え、空前の原油高となっている。
世界のどこかで紛争が起きている。それが重なり原油高として現れる。その衝撃波は、全世界の全産業に及びインフレが高じる。悪性のインフレはアメリカが政策金利の利上げによって潰すしかない。利上げなどの金融引き締めをすると株価が落ちる、いわばトレードオフの関係性となっている。富裕層の資産圧縮につながるのだが、インフレ退治には、これしか対処のしようがない。
FRB(連邦準備理事会)がすべての権限を持っている。利上げは待ったなしだ。
雪太はそれらを素早くニュースから読み取り、これから世界の株価が下落局面に入るとみて、横のボリンジャーバンドをにらみながら売り時を探り、一切の持ち株を売り、インドのETFへ切り替える。
パソコンから顔をあげ、横にあるコーヒーカップに手をのばす。コーヒーを一口すすると「ふう」とため息をもらす。
そう、雪太の第3の顔は個人投資家なのだ。現在3千万円ほどの資産を運用している。もともと持っていた5百万円を、3年で6倍に増やしたやり手の投資家だ。
しかしこの資産は生活費には使わない。子供達の学費と、夫婦二人の老後資金にまわすつもりなのである。
このことは妻静江にも言ってはいない。画家としての収入は全額家に入れているのと、よもやの時は親しくさせてもらっている税理士の先生に、この証券口座の存在と証券を現金化する方法を伝えているから安心しているのだ。
5千万円に到達した時点で静江にサプライズするつもりだ。
株式投資では、一度手痛い目にあっている。
大阪でパチプロとして凌いでいた時、ずっと貯めていたおよそ5千万円を信用取引で一気に失い、最悪借金は免れたが証券口座には数十万円しか残っていないほどの惨敗を喫した。
株はやめそれから酒に溺れた。どん底に落ちた精神状態から這い上がることが自力ではできなかった。
その頃交流のあった聡という弟子が大量のウイスキーのビンやビールの缶の中にうずくまっている自分を発見し、病院に連れていってくれていなくては今ごろあの世行きだったであろう。
さて株の方だがもうあの時とは違う。勝ち方も理解出来ている。徹底的に吟味したグロース株を10銘柄ほど買う成長株投資である。しかし下落局面が長引くとあらば、インドETFに切り替える変則的な投資法である。
(絶対に5千万円は取り戻す!)
こう決意し株式投資を再度始めた。あと2千万円、しかし焦らずじっくりと。
失った金を取り返すことはあの頃失った全てを取り戻すに等しい。ただ金が欲しいだけで投資をしている訳ではないのだ。
慎重に慎重に、信用取引など絶対にしない。地獄行きはもう二度とごめんだ。
(金が欲しい、金が欲しい、金が欲しい……)
大阪にいた頃よく唱えていた呪文。背を丸め世の中を斜めに見上げながら漂揺していた若い頃。
なぜああまで世に背を向けていたのか。
とにかく世間というものに怒りと憎悪の念を抱いていた。
そこからまた日経平均が反発を始める。インド株が下がり始める。
(ちょっとはやまったか)
インド株は-2。板を凝視する雪太。そこで動きが止まった。
まあ、いい。山と谷をピタリピタリと当てることなど不可能なんだから。大局観を持ち、それに従うまでだ。
静江とまだ交際を始めたばかりの頃、よく海を見に行った。港の先端に車を停め、打ち寄せる波を見ながら黙りこむ。
「時々そういう顔するね。雪太さん」
「どういう顔?」
「なにか、世の中すべてに苛立っているっていうのかな。ほの暗い怒りを抑え込んで絶望してるような、そんな顔」
「ふーん、当たらずしも遠からず……かな」
静江が運転席の雪太にしなだれかかる。
「私が救い出してあげる」
二人はキスをし、雪太はまた海を見た。
(この女(ひと)なら、おれの闇を晴らしてくれるかもしれない……)
このやりとりで結婚を決めた雪太であった。
アトリエからリビングに行くとソファーにぶったおれ、大きく口を開けがーがーと昼寝をしている静江の姿が。
「うっへへへ」
(救われたよ)
ひたいにキスをし、3時のおやつを探しに雪太は台所へ歩いていった。