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真面目に生きる

「いいか雪太、真面目に生きるやつがバカをみる」
 泥酔した父が、死ぬ前日に雪太に言った言葉だ。
 父の仕事は主に風呂場の床などにタイルを貼り付ける仕事を請け負う「特殊左官」というやつだった。
 昭和の時代、それまでコンクリート打ちっぱなしだった風呂場に鮮やかなタイルを敷き詰めるのがステータスシンボルになっていった。世は高度経済成長期の絶頂の頃、父の仕事も順調だった。
 しかし世の中が変わり始めた。「ユニットバス」が登場したのだ。
 雪太が中学生になるころには、徐々に仕事が減り始めたようだった。
 日曜日、時折父は雪太を仕事に連れて行くようになった。風呂場のタイル貼りの仕事が主だったが、大工の手子(下働き)なども請け負っていた。その時の父の顔は生気のない、暗い顔をしていた。真面目にしかできない自分に憤りすら抱えている様子だった。
 だんだん酒の量が増えていき、稼ぎが少なくなっていることを母に詰め寄られると、手を上げることも多くなっていった。
 朝、母の左側の目の上が紫色に腫れていた。それでも母は、変わらず父と雪太と姉二人に朝ごはんを作ってくれた。そんな朝が雪太はたまらなく悲しかった。
 ある日雪太が学校から帰ると父は昼間から酒を飲み母と喧嘩をしていた。雪太が止めに入る。いつもはやられっぱなしの母も抵抗して取っ組み合いになっている。話を聞いていると、父がどうやら友人の借金の連帯保証人になったということらしかった。
 その日から、父は仕事を休みがちになった。
 しばらくしてその友人は逃げたということだった。当然借金は父が返さなくてはならない。母は泣き崩れていた。
 雪太は人を信用しまいと固く誓った。心を許したら終わりだと思った。
 ある日朝早く電話が鳴った。警察からだった。河川敷に父の軽トラがあると言う。雪太は近所に住んでいる叔父と一緒に身元確認に行った。
 父は担架に乗せられ死んでいた。自殺だった。死因は排気ガスを運転席に引き込んでの一酸化炭素中毒死ということだった。
 雪太はその光景を目に焼き付けた。
 不思議とあまり悲しくはなかった。感情をブロックしている感覚だった。
「お父さん!お父さん!」
 狂乱状態の母が遺体にすがり付き号泣していた。親戚の叔母たちが体をふきながら白い着物を着せていた。
 雪太の心の内側の何かが決壊し、崩れさった。
 姉二人の話では保険金で借金は返したという。それがいくらだったとかは、雪太は興味がなかった。
 しかし、その保険金のおかげで雪太は大学まで行くことができた。

 時は過ぎ、雪太は就職した。しかし手取りはわずか14万円。世はまさにパチンコバブルの時代。稼ぐやつは、月に60万円とも、80万円ともまことしやかに言われていた。
(金がほしい……金がほしい……)
 雪太に迷いはなかった。辞表も書かずに全てを捨て、本場名古屋に移り住んだ。
(真面目に生きるやつがバカをみるんだ)
 雪太はとりつかれたように稼ぎを上げ始めた。
 そして出していた店から出入り禁止を言い渡されると、舞台を大阪へ移し「一人」という意味から「カズト」と名乗り、いくつもの店を跋扈し始めた……

「ねぇ」
「うん?」
「なぜ素直に美術大学に進まなかったの?」
 静江が鏡台の前に座り、なにやらいろいろクリームらしきものを塗りたくりながら聞いてくる。
「それは……話すと長いぞ」
「別に話したくなかったらいいんだけど」
「そこは『聞きたいわ』だろう?」
 雪太は横に寝ている恵利の頭を撫でながら笑う。
「じゃあ、まあ、聞いてあげるわよ」
「話の筋がおかしくない?」
 静江が振り向き、目をぱちくりさせる。
「分かったわよ、聞かせて」
 雪太は、何か考えてから口を開く。
「相場師になりたかったんだよ。だから経済に行ったんだ」
「相場師?」
「個人投資家のこと」
「で、それがいま役にたっているわけね!」
「それがま~たく。30代の頃けっちょんけっちょんにやられて、逃げっちゃったよ」
「で、パチプロに?」
「話は前後するけど、ま、そんなとこかな」
 静江が鏡越しに雪太を見る。
「遊び人だったのね」
 ごろんと静江の方を向き、目を合わせる。
「真面目に生きたくなかったんだよ。真面目に生きるとバカをみると思ってたんだ」
「うふふ、そんな人生哲学を持ってるの? いまは真面目にやっているじゃない」
「人生哲学かーそうかもな。でもパチプロも仕事となるときつい稼業だったよ。12時間労働でさ」
「どのくらい稼いでたの」
「最高に稼いだのは760万円かな。あとは700万円前後だ」
「へー、けっこう稼ぐのね。いまの倍くらいあるじゃない」
 雪太がギョロッと静江を見る。
「いまは家賃がないだろ。それにいつでも昼寝できるし、どっちが幸せか」
「そうね。あなたも私もお小遣いは自分で稼いでるし、野菜はほとんど買わなくていいし、ものは考えようね」
「そういうことだ。好きなことを仕事にして飯が食えてる。それがいちばんだよ。お休み」
 雪太は布団にくるまって眠ってしまった。

 アトリエは板敷きに改装してある。その隅に一畳だけ畳を敷いている。疲れた時にごろんと横になるためだ。
 そこでうつらうつらしていると、がばっと体を起こした。
「真面目にやんなきゃ!」
 そして背伸びをすると、またキャンバスに下絵を描くのだった。

マラソン|村岡真介