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ハリウッドも認めた異能の映画人・佐野雷次 (note改訂版)

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佐野雷次は1960年代から1980年代に掛けて活躍し、主にアクション映画やホラー映画を手掛けた監督・俳優である。雷次はアメリカにも進出して地位を築き、2009年に発表された映画雑…
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#日本映画

《二十八. 突然の終幕 》

 雷次の映画人生は、まだまだ続いていくはずだった。  しかし、終焉は突然に訪れた。  『…

《二十四. 邪法の続きと、久々の再会 》

1981年12月、『邪法兵衛』は全国公開された。  ケレン味たっぷりに演出されたアクショ…

《二十三. 邪法で挑んだ時代劇 》

 『ガンマン、サムライ、モンスター!』の撮影後、雷次はアメリカでの活動を休止し、日本へ戻…

《十九. B級映画の帝王との出会い 》

 『サムライロイド』は1977年1月に公開されたが、同じ年、雷次は監督としてもアメリカで…

《十七. 怪我と兄とアメリカ旅行 》

 『魔銃変』のヒットを受けて、世間では続編への期待が高まった。再びジーナとJCの戦いを見…

《十六. 雷次、異空間の殺し屋になる 》

 「どうする?やっぱり、またホラー映画で行くか。俺は、それがいいと思うが」  雷次プロの…

《十五. 陽気に笑う殺人鬼 》

 雷次は、独立二作目もホラー映画で行くことにした。『薔薇を抱えた男』が当たったから同じ路線を続けようというのではなく、演出している内に、やってみたい恐怖描写が色々と思い浮かんだのだ。しかし、そのアイデアを『薔薇を抱えた男』の中では使うことが出来なかったので、次回作に盛り込もうと考えたのである。 『薔薇を抱えた男』の興行成績が良かったので、次もホラー映画を作ることに関して、百田たちも反対しなかった。  「前回は殺人シーンが無く、血も出さないような映画だった。だが、今回は、残酷

《十四. 雷次プロの始動とストーカー 》

 1971年2月、独立プロの「雷次プロダクション」が設立された。雷次が社長、そして副社長…

《十三. エロ映画で大映とお別れ 》

 テレビに押されて斜陽の一歩を辿る映画界の中で、特に大映と日活の二社は経営不振に苦しんで…

《十二. 独立への決意 》

 看板俳優である市川雷蔵の死は、大映にとって痛すぎる打撃だった。雷蔵の穴を埋められるよう…

《十一. 幻の市川雷蔵主演作 》

 竜子と結婚した直後、雷次の元には、大きな意味を持つ仕事が舞い込んできた。市川雷蔵から直…

《十. 雷次のペースを狂わす女 》

 少し時間を遡るが、1968年4月、雷次の人生において大きな出来事があった。  結婚であ…

《九. 芸術映画は大嫌い 》

 雷次は新しいアイデアを生み出すため、外国映画や小説、新聞、漫画、テレビ番組など様々な方…

《八. 峰岸徹を走らせろ 》

 田宮の解雇で会社の屋台骨が傾く中、永田は経営立て直しの戦略として、一人の若手俳優を売り出すことにした。  峰岸隆之介、後の峰岸徹である。  峰岸は六本木野獣会(六本木で遊んでいた若者たちのグループ。田辺靖雄や加賀まりこ、井上順など、多くのメンバーが後に芸能界入りする)に所属していた1961年に東宝からスカウトされ、翌年には峰健二の芸名で映画デビューしている。  東宝で数本の映画に出演した後、峰岸は俳優座養成所に入り、そこから文学座の研究生となった。1968年に入り、大映が