《十. 雷次のペースを狂わす女 》
少し時間を遡るが、1968年4月、雷次の人生において大きな出来事があった。
結婚である。
雷次が妻の竜子と初めて出会ったのは、1967年のことだ。兄の風太が、撮影所に竜子を連れて来たのだ。
風太は立命館大学を卒業して貿易会社に就職しており、竜子は取引先の社長令嬢だった。
「あれっ、兄ちゃん。久しぶり」
雷次は風太の姿に気付き、自分から声を掛けた。
「撮影所に来るなんて、珍しいじゃないか」
「今日は、どうしてもスタジオを見学したいっていう人がいるから、連れて来たんだ。こちら、内藤竜子さん」
風太は、竜子を紹介した。竜子は21歳、栗色の長髪で、清楚な雰囲気を漂わせていた。いかにも金持ちの上品なお嬢様というのが、雷次の第一印象だった。
「竜子さん、こいつが弟の雷次です」
風太がそう言うや否や、竜子は雷次に歩み寄り、
「私、貴方の映画の大ファンです。初めて見た映画が、『弥太郎笠』なんです。それで、映画って面白いと思って他の作品も見たんですけど、『弥太郎笠』のようには興奮しませんでした。それで、貴方が撮った別の映画を見たら、やっぱり面白いんです。貴方は日本一、いえ、世界一の監督だと思います」
と、早口で語った。
最初の印象とは全く違い、熱い口調で捲くし立てた竜子に、雷次は戸惑いを覚えた。
「は、はあ。ありがとうございます」
とりあえず、雷次は礼を述べた。
しかし竜子の熱弁は止まらず、雷次が手掛けた作品について、あのシーンが良かった、あの演出は素晴らしかったと、なおも語り続けた。雷次は、彼女の詳しい分析や独特の視点に驚いたが、それ以上に、おとなしそうな外見とのギャップに驚いた。
後日、雷次は風太に連れられ、撮影所の外でも竜子と会った。
会食の後、
「今度は二人でお会いしたいんですけど」
と切り出したのは、竜子だった。その積極的な態度に、雷次は困惑した。撮影を通して多くの女優と接してきた雷次だが、竜子のようなタイプの女性は初めてだった。
雷次が返答に困っていると、竜子は彼の顔を覗き込んで
「ご迷惑でしょうか?」
と言ってきた。雷次は気圧されるように、
「い、いえ、全く」
と告げた。
そこから、二人の交際が始まった。その関係は、完全に竜子が主導権を握っていた。映画を作る際は積極的に周囲を引っ張って行く雷次だが、竜子の前では、どうにも自分のペースを掴めなかった。キラキラとした目で見つめられると、いつもの調子が狂ってしまうのだ。
ある時、そんな関係について、雷次は兄に相談した。すると風太は、
「俺も彼女と会う時は、向こうのペースに巻き込まれるよ」
と笑った。それから
「名前のせいかもしれないな」
と、含んだように言った。
「名前?」
「俺が風太でお前は雷次、これが風神と雷神だ。彼女は竜子で、竜神だ。その中で、竜神が一番強いということなんだろう」
「分かったような、分からないような解釈だなあ」
雷次は苦笑した。
「だけど、俺と兄ちゃんの風神雷神はともかく、彼女が竜神というのは、何となく納得できる気がするよ。あの竜神様は時々、とんでもなく怖い姿になるからなあ」
雷次には、特に印象に残っている出来事があった。まだ付き合い始めて間もない頃、竜子とレストランで食事をしていた時のことだ。隣の席に座っていた男性たちが映画について話す中、『血まみれの仁義』の話題になった。彼らは隣に雷次がいるとは知らず、作品を酷評した。
「あんなモン、仁侠映画とちゃうわ。単なる三流のグロテスクな映画やで」
「そうやな。クライマックスで主役が顔面を切り裂かれてるなんて、悪趣味や」
そんなことを語り合っていた。
その声が聞こえてきても、雷次は全く気にしなかった。それが望ましい状況だとは思わなかったが、いちいち腹を立てていても仕方が無い。それに、作品を発表する以上、酷評も受け止めるのがプロの映画監督だという考えを持っていたからだ。
しかし、竜子は我慢できなかったらしい。突然、椅子から立ち上がると、ツカツカと男たちに歩み寄り、
「ちょっと、貴方たちは何も分かってないわよ」
と怒鳴り付けた。そして呆気に取られた彼らに向かって、
「あれは主人公が血まみれになって、傷だらけになるからこそ意味があるのよ。ああいう残酷な描写が、これまでの仁侠映画には無いような凄みを映画にもたらしているんじゃないの。それをグロテスクだなんて、映画を見る目が無いわね」
と、鋭い口調で言い放った。
かなり大きな声だったので、他の客や店員たちは、一斉に竜子へと視線を向けた。
雷次は狼狽し、
「竜子さん、もう、いいじゃないか。彼らには彼らの意見があるんだから」
と、彼女をなだめた。
しかし、竜子の怒りは収まらず、
「何を言ってるんですか。貴方の映画がけなされているんですよ。放っておけますか」
そんなことを言ったので、周囲は雷次が映画監督だと気付き、ザワザワし始めた。
慌てた雷次は、竜子の腕を取り、強引に店から連れ出した。
そんな風に、竜子は雷次の映画について、彼以上に熱くなることがあった。
「竜子さん、俺の映画を好きなのは嬉しいけど、他の人が悪く言ったからって、怒らないでくれ。人それぞれ、意見は違うんだから。俺の映画をけなす人がいても、それは決して間違っているわけじゃない。ただ意見が違うだけだ」
雷次がそのように説いてから、竜子が周囲の人間に噛み付くことは無くなった。だが、ともかく、彼女が雷次の映画を熱烈に愛していることは確かだった。
―――――――――
交際開始から約一年が経過した1968年の1月下旬、雷次は突然、竜子に呼び出された。
待ち合わせの場所へ赴いた雷次は、竜子の険しい表情を見てビクッとなった。時計に目をやったが、遅刻はしていない。何か彼女を怒らせるようなことをしただろうかと、頭を捻ってみたが、何も思い浮かばなかった。
「竜子、何かあったのか」
雷次は尋ねた。交際が続く中で、呼び方は「竜子さん」から「竜子」に変わっていた。
竜子はじっと雷次を凝視し、
「そろそろハッキリさせてください」
と告げた。
「何のこと?」
話が見えず、雷次が疑問符を返す。
「私、ある男性から交際を申し込まれました。もちろん、それは断りましたけど、母からは縁談の話があることも聞かされました。それもこれも、雷次さんとの関係が煮え切らないからです」
責めるように言われ、雷次が口ごもっていると、
「お付き合いが始まってから1年が経ちますが、私と結婚する気があるんですか、無いんですか」
と、竜子は迫った。
雷次は、たじろぎながら、
「分かった。ちゃんと話すから、冷静に聞いてくれるかい」
と告げた。
竜子がうなずいたので、雷次は一つ間を取ってから、
「交際していれば、いずれは結婚の話が出てきて当然だ。だけど正直、結婚については、ためらいがある」
「つまり、結婚する気が無いんですか」
「いや、もちろん君のことは好きだよ。だけど、二番目なんだ」
「二番目って、他に女がいたんですか」
竜子が悲しそうな目をするので、雷次は慌てて
「いや、他の女なんかいない」
と否定した。
「そうじゃなくて、俺にとっては映画が一番で、君は二番という意味だ。俺は常に、映画作りを優先する。結婚したとしても、映画のためなら家庭を疎かにすることも厭わない。夫婦の時間が犠牲になることもあるだろう。それでも良かったら結婚するけど、そんなのは嫌だろう?」
すると竜子は、ニッコリと微笑んだ。
「なんだ、そんなことを気にしていたんですか。それなら、大丈夫ですよ」
「大丈夫って、何が?」
「だって、私にとっても、雷次さんは二番目ですから」
「ええっ?」
雷次が仰天していると、竜子は淡々とした口調で
「何度も言ってるじゃないですか。私は貴方の映画のファンだって。私にとって、一番は貴方の映画で、貴方は二番目です」
「あ、ああ、そういうことか」
「だったら、結婚には何の問題もありませんね」
「え、まあ、そういうことになるのかな」
そんなやり取りがあって、雷次と竜子の結婚は決まった。
そこでも、やはり竜子のペースなのであった。