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《十一. 幻の市川雷蔵主演作 》

 竜子と結婚した直後、雷次の元には、大きな意味を持つ仕事が舞い込んできた。市川雷蔵から直々に、主演作の監督として指名されたのである。
 市川雷蔵はデビュー当時から長谷川一夫に続くスターとして売り出され、1958年の『炎上』で数多くの映画賞を受賞した。その後も『眠狂四郎』シリーズなど数多くの映画をヒットさせ、二枚看板の一人だった勝新太郎が勝プロダクションを設立した後も、大映のトップスターとして活躍していた。
 そんな雷蔵が、雷次を指名してきたのだ。

 この頃、市川雷蔵は役者稼業だけでなく、映画製作にも強い関心を持つようになっていた。与えられた仕事を遂行するだけでなく、企画から携わって映画を作り上げたいと考えるようになっていた。
 そんな彼が、パートナーとして選んだのが雷次だったのだ。
 雷次は1964年の監督デビュー以降、市川雷蔵の作品は一度も手掛けていなかった。しかし入社前からスタジオ通いをしていた彼は、雷蔵とは顔見知りだった。

 歌舞伎の世界で不遇の時期を過ごしていた市川雷蔵が、大映の誘いを受けて映画界に転身したのは1954年のことである。そのデビュー作『花の白虎隊』の撮影を、雷次は見学していた。
 それまで、どんなスター俳優を見ても冷静だった雷次だが、雷蔵を見た途端、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
 その時のことを、後に雷次は
 「ハッキリ言って、雷蔵さんの立ち回りは、それほど上手いと思わなかった。その印象は、キャリアを重ねた後も変わらない。だけど、あの人には強烈なオーラがあった。それは今までに見た役者には無いもので、そこに圧倒された」
 と語っている。

 『花の白虎隊』を撮っていた田坂勝彦監督が、休憩中、雷次を雷蔵に紹介した。雷次が挨拶すると、雷蔵は柔和な関西弁で
 「やあ、君が雷坊か。噂は聞いてるよ。将来は大映の監督になるらしいな」
 と告げた。
 「僕は雷蔵、君は雷次。同じ雷が付く者同士、仲良くしような」
 雷蔵が手を差し出し、雷次は彼と握手を交わした。雷次は雷蔵の顔を見つめ、
 「貴方は、きっと大映の看板俳優になります」
 と真剣な顔で告げた。

 田坂監督は思わずプッと吹き出し、雷蔵は唖然とした表情を浮かべた。だが、すぐに雷蔵は頬を緩ませ、
 「そうか。撮影所の主である君が言うんやったら、間違いないやろ。自信になるわ。君も監督になるんやったら、いずれは一緒に仕事をしような」
 と述べた。
 「ええ。僕はきっと、貴方の代表作になるような映画を撮ります」
 雷次は真っ直ぐな目で、そう言った。
 それから14年の月日が流れ、ようやく雷次に、その約束を果たすチャンスが訪れたのである。

 雷次が雷蔵に呼ばれて企画についての話し合いを持ったのは、1968年5月のことだ。
 「時代劇をやりたい」
 それが、雷蔵が最初に出した要望だった。
 「今、時代劇は全くお客さんが入らへん。でも、だからこそ時代劇をやりたい。面白い時代劇を作って、もう一度、時代劇の火を復活させたいんや」
 「俺も、久しぶりに時代劇をやりたいと考えてました」
 雷次は言った。
 「それに、雷蔵さんが輝くのも、やっぱり現代劇より時代劇だと思います。やりましょう、時代劇」
 すると雷蔵は意味ありげにニヤッとして、
 「雷坊、俺の代表作を撮ってくれるんやろ。期待してるで」
 と告げた。

 雷次は、雷蔵が昔の約束を覚えていてくれたことに感激した。もちろん最初から雷蔵の代表作を撮ろうという気持ちだったが、その言葉を受けて、ますます意欲が沸いた。
 しかし、それは同時に、プレッシャーにもなった。今までの企画では、それほど時間を掛けずにプロットが出来上がっていたが、今回はなかなか「これだ」と決められるような話が思い浮かばなかった。
 まだアイデアが固まっていなかった6月、雷次に衝撃を与える出来事が起きた。市川雷蔵が『関の弥太っぺ』の撮影中に腸から出血し、入院したのである。

 雷蔵が倒れたことを雷次が知ったのは、森一生監督と撮影所内を歩いている時だった。慌てた様子で走ってきたスタッフを森監督が呼び止め、その事実を知ったのである。
 「大丈夫なんでしょうか、雷蔵さん」
 雷次は森監督に尋ねた。
 「何とも言われへんな。元々、胃腸が弱かったからな。それにしても、撮影中に倒れるのは、尋常ではない。今は、すぐに戻ってくることを祈るだけや」
 もちろん雷次も、軽症であることを願った。
 しかし検査の結果、雷蔵は直腸癌であることが判明した。そのことは、本人には知らされなかった。もちろん、部外者の雷次も、その時点では知らなかった。

 雷蔵は8月に手術を受け、退院した。雷次は彼が入院している間、最悪の事態も考えた。無事に退院したと聞いた時は、安堵の溜め息を漏らした。そして、彼の主演作について、今までの集大成になるような映画にしたいと考えるようになった。
 「雷蔵さんが入院したのは、一つのピリオドを打てという意味じゃないかと思うんだ。だから俺の映画を、雷蔵さんの役者人生にとって第一幕のラストにしたい。そして、そこから雷蔵さんの第二幕が始まる。そういう映画にしたいんだ」
 企画について百田と話し合った時、雷次はそんなことを口にしている。そして、集大成になるような映画にしたいという気持ちを、療養中の雷蔵にも伝えた。

 皮肉なことに、雷蔵の入院が、雷次にアイデアを与えることになった。
 ある日、雷次は嫌な夢を見た。雷蔵が病院で死んでしまい、幽霊になって別れの挨拶にやって来るという夢だ。雷蔵は侍の格好をしており、
 「そろそろ、お別れや。さらば、雷坊」
 と告げて、背中を向けた。
 そこで雷次はガバッと跳ね起き、夢から醒めた。心臓がバクバクと鳴っていた。夢だったことに胸を撫で下ろしながら、彼は寝汗を拭った。気持ちを落ち着かせるために、雷次はコップ一杯の水をグイッと飲み干した。

 再び眠りに就こうとした時、雷次は
 「侍という職業と、『さらば』という言葉の組み合わせは、面白いんじゃないか」
 と、そんなことを思った。
 そして、布団に潜ったまま「さらば、侍」「さらば、武士」という言葉を頭に思い浮かべ、
 「さらば、武士道。これだ」
 と言うと、上半身を起こした。
 内容よりも先に、『さらば、武士道』というタイトルが決定した。そして、そのタイトルからイメージして、雷次はプロットを構築していった。

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  『さらば、武士道』

  〈 あらすじ 〉

 下級武士の竹崎新蔵(市川雷蔵)は、父から
 「どんな時であろうとも、主君に忠誠を尽くすのが武士というものだ」
 と厳しく教え込まれてきた。竹崎家は些細なことから主君の村智延若に嫌われ、迫害されるようになったが、それでも父は忠誠心を失わなかった。
 新蔵は納得いかない理由で閑職に追いやられ、憤りを覚えるが、父は
 「いつか必ず陽の目を見る時が来る。村智様にも分かってもらえる時が来る」
 と説いた。

 新蔵には、おはなという許婚があった。だが、彼女は村智の家へ女中奉公することになった。それは村智の妾になることを意味していた。しかし新蔵はどうすることも出来ず、悔し涙に暮れた。
 村智の周囲で不祥事が発生した際、新蔵の父は何の責任も無いにも関わらず、詰め腹を斬らされた。村智の度重なる仕打ちに耐え続けてきた新蔵だが、その卑劣な策略を知り、ついに怒りが頂点に達した。彼は父の形見である刀を手に取ると、村智の屋敷に乗り込んだ……。

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 『さらば、武士道』は、それまでに雷次が手掛けた作品と比べると、ケレン味に乏しい内容だった。雷次は、あえてケレン味を抑えたのだ。オーソドックスとも言える物語の中で、男の怒り、苦悩、葛藤、情念、そういったものを表現し、それによってクライマックスのチャンバラが盛り上がる流れにしようと考えた。市川雷蔵であれば、それが出来るとも思っていた。

 父が切腹させられた後、新蔵は怒りに震えながら、
 「父上、これでも耐えねばならんのですか。それが武士だというのなら、たった今、私は武士道を捨てます」
 と吐露する。そして村智の屋敷に乗り込み、チャンバラシーンへと突入する。「耐え続けた主人公が最後に怒りを爆発させ、殴り込む」という筋書きは、任侠映画のフォーマットを参考にしたものだった。
 クライマックスのチャンバラは、正義の味方が悪党を駆逐するという爽快感のあるものではなく、滅びの美学を感じさせるようなテイストにしようと雷次は考えていた。そして、悲劇のカタルシスで終わろうという演出プランを練っていた。

 雷次は『タイムリミット3600』の撮影後、雷蔵と会って筋書きを説明した。雷蔵は病気のせいで随分と痩せていたが、映画に懸ける情熱は全く衰えていなかった。
 「なるほどな。まずタイトルがええな。『さらば、武士道』とは、なかなか挑発的や」
 「ラストのチャンバラに関しては、念頭にあるのは、1959年に雷蔵さんと勝さん(勝新太郎)が共演した『薄桜記』のクライマックスなんです。あれを超えるような立ち回りを作りたいと思っています」
 雷次は、意気込みを語った。

 「早く復帰して、撮影に入りたいわ。俺の代表作になるかもしれん映画やもんな」
 「なるかもしれん、じゃありません。必ず代表作にしてみせますよ」
 「言うやないか。よし、俺も頑張るわ」
 雷蔵は微笑した。
 だが、『さらば、武士道』は、雷蔵の代表作にならなかった。
 なぜなら、撮影そのものが行われなかったからである。

 役者稼業に復帰した雷蔵は、『眠狂四郎 悪女狩り』(1969年1月公開)と『博徒一代 血祭り不動』(1969年2月公開)の撮影に取り組んだ。その後、『さらば、武士道』と、村山三男監督の『あゝ海軍』の撮影に入る予定だった。
 しかし、雷蔵の体調は回復しておらず、彼は衰弱した状態の中で仕事を行っていた。『博徒一代 血祭り不動』では、立ち回りの大半を吹き替えに頼らざるを得なかった。

 1969年2月、雷蔵は再び入院した。
 『あゝ海軍』は、中村吉右衛門(二代目)を代役として撮影されることが決まった。『さらば、武士道』の撮影は延期となった。こちらも代役を立てて撮影するプランが持ち上がったが、
 「この映画は、雷蔵さんでなければ作る意味が無い」
 と雷次が頑なに拒否したのである。

 雷次は、雷蔵が戻ってくることを信じていた。いや、信じていたというより、奇跡を祈っていたという表現が適確かもしれない。
 しかし、奇跡は起きなかった。
 7月17日、市川雷蔵は亡くなった。享年37歳という若さだった。

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