村人C
2021年12月、NODA・MAP番外公演『THE BEE』を見る前日の夜。
社内でも非常にデザインリテラシーの高い優秀な若手との送別会があった。そこでその若手から「私は村人C体質なんです」というパワーフレーズを受け取る。
勇者やボスやイベントを起こすような村人でもなく、何も物語に影響を与えない、ただの村人C。そんなスポットライトの当たらない村人Cにも、それぞれのドラマがあり、そういう人たちを「小説」に描くのが好きだという。
(短篇小説集『ごめんね、さんかく』(文芸社)を刊行している)
村人Cを愛して止まないその視野角の広さと、そこにロックオンできる感性と、それを許容できる懐の深さ。
とてもセンスのあふれる人だった。
話はさかのぼり、2012年6月の長野県松本市出張の前泊の夕方。宿泊ホテルのちょうど隣りにあった「まつもと市民芸術劇場」(伊東豊雄)を見に行ったとき、センター前の掲示板で『THE BEE』の告知ポスターを目にする。
ちょうどその日が公演日で、なんだか面白そうだなぁ、と興味をもったものの、チケットは当然ながら既にSOLDOUT。まぁ仕方ないか、と思いつつ施設の内観を見学していると、「キャンセルが出た場合は、開演直前に当日券を販売します。」との貼り紙が。ひとり前泊で特にやることもないし、施設の劇場内部を観てみたいという思いもあり、開演前まで待つことに。
開演5分前、運良くキャンセルが出た。案内された座席がまさかの中央ど真ん中。全く予定していなかった、土地勘のない地方の小劇場の特等席に、なぜか一人座っているというシュールな状況が発生した。しかも、よくよく考えるとこういった演劇を観るのは、生まれて初めてだった。
軽い気持ちというか、出来心というか、魔がさしたというか、決して安くないチケット料金をはたいて、自らの意思のようで、自らの意志ではない、何かに衝き動かされたような、NODA・MAPとの出会い。
それが『THE BEE』だった。
見終えたあと、まるで全身を蜂に刺されたように、ズタボロに打ちのめされて、足を引きずるように劇場を後にしたのを覚えている。
ホテルの部屋でも頭の整理がつかない。
もはや明日の仕事どころではない。
この心のモヤモヤはいったい何なのだろうか。
あの「狂気」は、決して他人事ではない。
もう一度、あの痛みを感じたい。
もう一度、見てみたい。
そう思いながら、約10年。
時は、2021年12月23日。
当時はまだ影も形もなかったグランフロント北館のナレッジシアター。
キャストを一新し、『THE BEE』が再来した。
席に着くと、またしてもど真ん中の特等席だった。これには、もはやオートマティックでマグネティックな宇宙の力を感じざるを得ない。開演までの間、劇場内には聞き覚えのあるBGMが流れている。
前回は、劇中で野田秀樹が『剣の舞』(尾藤イサオ&ドーン)の曲にのせて、「狂気のダンス」を踊っていた光景があまりにも印象的で、後日その曲が収録されているアルバムCD『おバ歌謡』(伊集院光)を購入するほどだった。流れているBGMは、間違いなくそのアルバムからの選曲だった。
どの曲も美しくアレンジも良いのに、「それ、全力で歌う?」みたいな可笑しい歌詞ばかり。そんなシュールなBGMの中、待っているお客さんは連れの人と談笑しながら、場内は開演前の期待の空気でザワついていた。おバ歌謡を聴きながら、背筋を伸ばし、正面一点を見ていると、客席の雑踏からさっそうと舞台中央へ歩いていく小柄なサラリーマンが。まるでお客さんのザワザワが演出だったかのように、それはごく自然に始まった。
なぜ今『THE BEE』と再会したのか、見終えた後、何となく分かった気がした。
10年前に受け止めることができなかったものを、10年後に受け止めることができた気がした。
あの小柄なサラリーマンは、いわゆる「村人C」だったのだ。
「ふいに起こった環境の変化」によって、その村人Cが村人Cでいれなくなったとき、村人Cは「伝説の勇者」にも「凶悪なラスボス」にもなりえる。その「人間の変態の狭間」を生々しく描いた作品が『THE BEE』というものだった、と解釈した。
その「ふいに起こった環境の変化」というのは、不可抗力的なものであり、自分の意思ではない、予測不可能なものだ。それは、まさに私が2012年の松本出張で体験した出来事にどこか似ているような気がした。その「ふいに起こった環境の変化」がそのまま『THE BEE』というコンテクストにつながったということは、改めて驚きであると同時に非常に興味深いと思った。
そういった不可抗力的で、自分の意思ではない、予測不可能なものを経て、自分の在り方や真実が問われる。あの夜、ホテルの部屋で頭の整理がつかなかったのは、そういうことだったのだ。
今回も例の「狂気のダンス」は健在(野田秀樹のそれと阿部サダヲのそれはほぼ同じ振り付け)だった。
「狂気のダンス」が挿入されるタイミングに関しても、主人公の「変態の狭間」であることも今回読み取れた。自分が自分でいれなくなる、その葛藤、そしてその既成のタガが外れたときに、「狂気のダンス」が爆音で儀式・洗礼のように始まる。
そして二度目のダンスを終えた後、三面鏡に映し出された小柄なサラリーマンの顔が鬼のように禍々しく狂気に満ちた顔に変わっていく…、あの阿部サダヲの表情が忘れられない。
大きな自然災害や誰かが引き起こすショッキングな出来事は、何の前触れもなく、日常のふとした隙間を刺し込んでくる。私たちは、そういった孕みを常に抱えて日々過ごしている。
所詮、「自分」という存在は、与えられた環境での「リアクション」にすぎない。
人という生き物は、なんと脆いものか。
「ふいに」起きる事象が、いつ起こるかなんて自分で知るよしもない。これを読んでる今、それは起こるかもしれない。そういった不可抗力的な真の「他力」によって、人は生かされている。俯瞰して見れば、それがまるで私たちが「当たり前の毎日」としているフレームを形成しているような気がする。その「他力」というものは、宇宙の真理であることも何となく分かる。
そして、人は例外なく、誰もが「自分の妄想の世界」で生きている。その時々に起こる事象、受け取る事象は、自分でいかようにも、都合の良いようにイメージし、調理することができる。
その先にある自己洗脳やバイアス形成の果て、「生態学的に考えられないようなイレギュラーな事象」を自ら起こすのがヒトという生物なのかもしれない。
それを「ヒューマンエラー」というのか、「突然変異」というのか、「進化」というのか。
そして、まわり回ってその「ヒューマンエラー」が全く関係のない誰かにとって、「ふいに」発生する不可抗力的な「他力」であったりする。
他人は驚く。
「え、まさかあの人が?」…って。
人はわからないものである。
他人にも、まして自分でさえ。
世の大体の人、私自身も例外なく村人Cである。
村人Cが村人Cでいれなくなるそのとき、
私の宇宙が真に問われる気がする。