【感想文】李陵/中島敦
『NHK「きょうの李陵」』
私の先月の月収は600円しかなかったので今月は、<<旃毛を雪に和して喰らいもって飢えを凌いだ。>>岩波文庫,P.45
それでは、本書『李陵』の悲劇性の解説に入る。
▼李陵の境遇/意識の変化:
作中序盤、司馬遷は死刑叶わず生き、蘇武は自刃叶わず生き、李陵は戦死叶わず生きる。つまりこの三者は望まない生を生きることになるのだが、後半、司馬遷は修史に生を見出し、蘇武は忠誠に生を見出す、がしかし、李陵だけは苦悩の末、生きる価値を見出せず生涯を終える。では李陵は一体何に苦悩したのか。それは彼も含めた、この一族の巡り合わせに苦悩した。なぜというに、李陵は「武帝の崩御」「司馬遷の弁護」「字の <小卿>と声掛けされる」のくだりにおいて特段の感興も催さず、その一方、李緒誤認による家族皆殺しの一件に対しては感情を露にするからである(過去を辿れば祖父李広、叔父李敢の無残な最期からもわかる通り、この一族は武帝から忌み嫌われている)。つまり、武人としての集団的な意識から始まり、作中後半では自身に向けた意識・苦悩へと変化を遂げていることになる(※1)。前置きは終わった。
▼作品の悲劇性:
作中後半、李陵は「径万里兮…(ばんりゆきすぎ…)」と歌いはじめる。その全訳は以下の通り。
<<万里の道のりを経て砂漠を超え、皇帝の将軍として匈奴と奮戦した。追い詰められて脱出の道もなく、刀は折れ矢は尽き、兵士も全滅し、名誉はすでに地に落ちた。年老いた母は処刑されて死に、恩返しをしたいと思っても、いまはどこに帰ったらいいのかも分からない>>P.354の注釈より抜粋
上記の詩の後半に <<恩返し>> とある。これは前述した通り(※1部分)、李陵の意識は「公」→「個」へ向けられているのだから「恩」は漢帝国ではなく、彼の家族へ返すものだということがわかる。だが、家族が皆殺しにされた以上、どうすることもできない。悲劇性は、何も為し得なかった李陵が舞いかつ歌うこの詩に如実である。
『To be, or not to be, that is the question.』とは、シェイクスピア悲劇『ハムレット』第3幕第1場の一節だが、ハムレットが「Not to be(=皆殺しの復讐)」という凄惨の悲劇ならば、李陵は「To be(=どこに帰ったらいいのかも分からない)」という静寂の悲劇ともいえる。
といったことを考えながら、私はあまりの貧苦に耐えられず快速電車に飛び込んで即死したところ、母が駆けつけて <<地を掘って坎をつくりうん火を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈んで血を出させ>>P.45 ることで私の息を吹き返した。
以上