全身が青春
今日も駅の階段をのぼるのはしんどい。でも天気がよくて、金曜日だから体調がいい。よく寝て、よく夢をみた。
先日、磯上竜也さん、大前粟生さん、町屋良平さんの日記本『全身が青春』の購入特典オンラインイベントを視聴して。
自然な会話のながれで、タイトル『全身が青春』の伏線回収となりおぉ〜とうなった。
これまで自分の体におもしろみを感じたことなどなかったけれど、日々変化するものとして体調をとらえたとき、自分の体調の変化はふしぎでおもしろい。こんなにみじかに興味の対象があるものなんだという発見のようなものがあった。
そして、お三方の話を聞いていると、生きていると元気がない状態というのがそれなりにあってよいのだという感覚になる。
むしろそれが通常で、ハレはたまにでいいのだと。
そして磯上さんの日記のなかでも、
と書かれており、ああやっぱり。あのトークの時に覚えた感覚は正しかったなあ。こういうことを書いてくれるのだと、余計にうれしくなる。
イベント中、とりとめのないことを話していますね僕らという会話がぽつぽつとつづくなかで、わたしはそこに全集中して聞いていて、なにかをしながら聞くという器用さをもたないからというのもあるけれど、昔からとりとめもないことを聞くのがすきだったなぁということをおもう。
忙しく終電でなど到底帰れなかった時期に、毎晩のように乗るタクシーの運転手さんたちの話を聞くのがすきだった。
どうして運転手をしているのですか?どんな経緯で?運転手になる前はなにをしていましたか?雑談するというよりは、インタビューするように質問攻めするわたしに、案外運転手のおじさまたちはよろこんで話してくれる。
パン屋で毎朝5時に起きていた時期があったよとか。車に乗るのが唯一だいすきなことでねとか。きみくらいの娘がいてねとか。とりとめのない話なのだけれど、なにかの縁で出会い、今後会うこともない、会っても気づかないような間柄のひとたちの一部分を知ることへの好奇心。
互いにとって何者でもない物同士が時間を共有するあの感覚、語りを通して生活の一部をのぞくある種の背徳感、そしてすぐにわすれてしまうということ。理由はわからないけれど、そういう要素が自分の興味をそそっていたのだとおもう。そんなことをふいに思い出していた。
誰かの日記を読むということもそれに似た心地がする。それよりもっと内情的な、読者である自分とはつながりのないところにいる誰かの記録としての気配。それを読むことで共有されるなにものか。そのひかえめなつながりがまた、わくわくしたり、時になぐさめをもつ。
『全身が青春』を読んでいると、日記というものの自由さ、試みの豊かさを感じずにはいられない。
そしてわたしもこのきもちを記録しよう、ひさしぶりに日記を書こう、と思い立つのだった。