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空っぽに見える夜

夜、ベッドで本を読んでいると、シピがお腹の上にやってきて眠りだした。安心する匂いとあたたかさにつつまれて、わたしも本を片手にうとうとと気づけば眠っていた。

隣のキッチンから、ぐぉんぐぉんの後に、ぽっぽっぽっぽっ、カランカラン、という音が順番に聞こえて目を覚ます。23時30分。同居人が夜な夜な電動ミルで豆を挽き、アイスコーヒーを淹れる音。「わたしもー」とすこし声をはるも届かない。仕方なくシピをおろしてキッチンへ向かい、ヘッドフォンで音楽を聴く同居人にお気に入りの陶器のカップを渡すと、うんうんと頷き入れてくれた。

仕切り直しの夜。今日は金曜日だから夜更かしするよ。と眠たそうにベッドの隣の床に寝そべるシピを撫でると、ころんとお腹を出して転がり、撫でつづけると蹴られた。愛おしいほわほわの脚。

本を読み直す前に何気なく開いたインスタグラムでは、下津光史さんが配信LIVEをしていた。


ひとつ 言える事は
今 意味をなさなくて
今日の 月が
儚くて 歯痒くて 悲しいだけ


アコギ一本で静かに歌う『ほんとごめんね』があまりにも心地よく、ネラがやってきておもちゃを咥えてじっとこちらを見ていて、なにもかもが愛おしいような悲しいようなきもちになって撫でくりまわし、おもちゃでふりふりと遊ぶ。投げると何度でもとりにいき咥えて持ってくる。

同居人はときどきわたしの部屋にやってきて、なにしてるの?とドアからこちらをのぞく。わたしは音楽を聴いていて、同居人は映画を観ていたようだった。来たついでにアイスコーヒーのおかわりを頼む。

同居人は、恋人であって同居人。文字通り、一緒に住んでいるから恋人よりも同居人という響きがしっくりくる。家族のようなものに年々近づいているような気がする。そう感じる夜はとても良くて、猫がニ匹と同居人。今のわたしのいちばん近くにいてくれるものたち。

もうすぐ読み終わるラディゲの『肉体の悪魔』は、ただひたすら若く平凡な男女の未熟さを読んでいるようで、今のわたしにはときどきどうでもよく感じる。でもそのどうでもよさこそがおもしろさでもあるようで、淡々と語られる身勝手でときに冷酷な心のやりとりに、ふっと諦めのような、そうだよなというような感情が芽生える。でもわたしはこの本に出てくる誰もすきになれないのはなぜか。

はたから見れば空っぽに見えるこの長い日々ほど、僕が多くを学んだことはかつてなかった。

ラディゲ『肉体の悪魔』

これは青春に対する一文だけど、今のわたしにも当てはまるもので、そういった文章に出会い、文脈とは別のところでその言葉の意味を考えているとき、本の無限のおもしろさを感じて、ほくっとする。

そうこうしているうちに読み終えてしまい、次は何の小説を読もうか。『われらの時代』の流れがあるうちに大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』か、それとも、稲泉連さんの『サーカスの子』か、森田真生さんの『偶然の散歩』か…それとも……てんでばらばらな方向性なので、決めかねる。次に何を読むかで思考の次の流れができて、しばらく先にのばされてしまう本がたくさん出てくることになるので、次に読む本の選択は大事。と思いながら、いつだって考えなしに手を伸ばしては、流れるままに読んでいる。おもしろいから読んでいる。

長々と感想をのべた日記を晒しながらいつだって、おもしろいって、言いたいことは本当はただそれだけなのかもしれなかった。

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